龍のひげのブログ -62ページ目

何が日本の政治の強さと健全化を敵対視するのか

我々の生きているこの社会には、いろいろな考えや感覚があって当然であろうが、核心的に本当に大切なことは一つではないにせよ、ごく少数ではないかという気がする。たとえば私も記事に書いていることではあるが、立花孝志氏とタレントのマツコさんの対立という議論の素材というものがある。それを民主主義的にいかに調理して、収めるかということもそれなりの重要性があるのであろうが、我々が社会の質を高めていく上で本当にフォーカスを当てなければならない認識なり理解とは何なのかということである。そこで一つ例を挙げて説明したいのであるが、立花氏が月間3千万円にも及ぶ個人、会社、党の収入とその支出を詳細に報告しているユーチューブの動画がある。

https://www.youtube.com/watch?v=KWP96KarNTk

12分ほどの動画なので時間がある人は是非、見て考えて欲しいのであるが、それを見て国民の多くがどこに着目するのかということが、民度の高さや民主政治の成熟度を表しているように考えられる。私は騒動の渦中にある立花氏を擁護したり、支持する立場としてではなく純粋に客観的な分析なり洞察を試みたいと考えているので、立花氏の公開の意図とは外れているであろうことを指摘するものであるが、私が着目したこと、気になった点は、「文書交通費」の100万円である。この金が立花氏が7月22日に参議院議員に当選して数日後に7月分としてぽんと振り込まれてきている。この名目の金は元西宮県議の号泣会見で問題になっていた「政務活動費」とほとんど同じ性質のものであろう。結果的に野々村氏は詐欺罪で有罪が確定したものであるが、立花氏の動画を見ている限りにおいて、この月額100万円もの文書交通費は、立花氏が迷いを示しつつも個人の収入に仕分けしているように、建前はどうであれ実質的には議員に対して自由に使っていいですよと、包括的に支出されている給与の一部であることは明らかだ。文書交通費の100万円だけでなく「立法事務費」の月額65万円も同質のものである。立法に関する調査権活動の経費ということになっているが、これも言ってみれば公的なものというよりも議員の個人の収入なのだ。よって文書交通費の100万円と立法事務費の65万円に正規の給与としての歳費180万円を合わせて、月額345万円が国会議員一人が自由に使える金なのであって、本来はその使途を報告する義務もないものである。恐らくは全ての国会議員や地方議員もそれらの名目上の目的に合わせて厳密な支出の管理や制限などしていないであろうし、また出来る性質のもので有り得ないことが立花氏の動画を見ているとよく分かる。立花氏も個人的な借金をユーチューブなどの視聴料収入と国から支給される収入を合算した合計から返済したり、或いは息子さんや娘さんへの養育費として月額35万円も支出している。要するに何が言いたいかと言えば、立花氏は正直者だから几帳面にも収入を個人と会社と党に3分類して報告しているが、支出を見れば、結局は政治家の金というものは個人と政治活動を厳密に線引きできるものではなくて、丼勘定以上のものでは有り得ないことを物語っている。収入項目と支出項目を分割対応させて管理してはいないし、そこまで煩雑なことは不可能であろう。それ以前の問題として、たとえば文書交通費という勘定項目は、インターネットやメールがない時代に設定された国費で今の時代に切手代や通信費に月額100万円も使い切れるものではあり得ない。そういう議論が表立って言論空間で展開されたことがこれまでに一度でもあったのか。そういうことを国民が正しく認識することが民主主義の出発点ではないのか。元西宮県議、野々村氏の号泣騒動は何であったのかと言うことである。他の全ての議員が日常的に当たり前のようにしていることが、どうして野々村氏だけが問題になって訴追されることになったのかと言えば、それはマスコミが誘導し、作り上げているポピュリズムによるものであることは明らかである。またそこに政治を作用するマスコミ権力の源泉がある。政治家は国民の目から隠したい事実や仕組みが山のように存在するが、実はマスコミもその政治の隠蔽、ごまかしに底流においては寄り添っているものである。立花氏は正直者ゆえに、そういうことを自ら露呈させる非常にリスクの高い政治活動に敢然と踏み込んでいる。なぜなら自分が刺される可能性のあるネタを公開していることと同じだからである。際物だから単に目立とうとしてやっているだけだという意見もあるであろうし、私も一概にそのような見方を全面的には否定しないが、ある意味で命を掛けていることは事実だと思う。人はなぜ嘘をついたり、物事をごまかしたりするのかと言えば、私はそこに精神的な弱さがあるからだと思う。そういう意味では立花氏の危険な正直さは、強さを反映したものであることは否定できないのではないのか。鳩山由紀夫氏のように大多数の政治家の人間的な弱さは、沈黙や代替的な理想に逃げ込まざるを得ない性質のものである。それが日本の沈滞や腐敗の澱みを生み出している。もちろんだからと言って、立花氏のような泡沫的な議員を救世主だと見做してはいけない。彼のような人間はやがてはマスコミに潰されてしまうであろうし、立花氏自身がNHKのスクランブル化が果たせれば、党を解党して政治家を辞めると明言している。そこで終わってしまえば何の意味もないものであって、我々国民の一人一人が立花氏的な強さを自己の内部に養っていかなければならないものである。言論の自由があるのだから、タレントのマツコさんが、「気持ち悪い」とか「宗教っぽい」と発言することも自由なのかも知れないが、公共性の高いTV番組で自説なり、自分の皮膚感覚を開陳するのであれば、先ず最低限度に相手のことを調べて、理解することが前提になっていなければならない。その上でその意見や感想が維持されるというのであれば、それでは今の日本において、反対概念として、気持ち悪くなく、宗教っぽくない政治がどういうものなのかについて自分なりに論理的に説明できる知性が要求されるものであろう。その能力がなければ政治に言及する資格はないのではないか。或いは言及したとしても、それは薄っぺらなポピュリズムのレベル以上のものでないのではないかということである。またタレント以外にもいわゆる識者と分類される方々が、今回の立花氏対マツコさんの件に限定されないことであるが、単に個人的、生理的な感情を反映させたものに過ぎないポピュリズム(大衆迎合)的な意見を正論として述べる人が日本にはあまりにも多過ぎて、私ははっきり言って日本人全体の意識向上を阻む弊害であると思っている。頭の程度の低い人間は有名人であろうと、いや有名人であるからこそ本質的に自分のスタンスを守る広告に過ぎない感情的な意見を自重せよと言いたいが、今の時代はそういうことにも付き合っていかなければならないという煩わしさがある。それが生きるということなのであろうかと私はいつも自分に問い掛けている。

腐敗の本質を見よ

大金を稼ぐことが間違っているとか、悪だと言いたい訳ではない。そういう問題ではないということは理解してもらえるとは思うが、わからない人もいるかも知れないので一応、説明しておくことにする。たとえば画家が描いた1枚の絵を1億円で買いたいという人がいて取引が成立すればその絵には、1億円の価値があるということになるであろう。音楽の公演が武道館などで開催されて、仮に1万人の観客が集まるのであれば、その演奏なりミュージシャンには1万人の入場者が支払うチケット代金、合計額の価値がある。小説が10万部売れたのであれば、その作者はそれだけの読者から支持されていることを販売実績によって証明していることになる。しかしマツコさんのようにたくさんのTV番組に出演しているタレントが、正確にはわからないが仮に10億円の収入を得ているのだとすれば、それは画家の絵やミュージシャンの音楽活動、小説家の書く本と同じような価値や能力が反映されたものであろうか。TV番組などというものは国民が主体的に代価を支払って選択したものではあり得ない。視聴率が当てにならないとは言わないけれど、それは国民とタレントや番組コンテンツとの経済取引とは言えない性質のものである。あるタレントが飛ぶ鳥を落とすような勢いで売れているとか、反対に飽きられて落ちぶれてしまったと言われても、視聴者には実際のところ、どのようなメカニズムでそうなっているのか誰にも理解できない。視聴者は常に受け身の立場であって、TV局側に今はこの人がトレンドですよとか、もうこのタレントはダメになりましたから忘れましょうなどと一方的なメッセージを脳に植え付けているものである。それは当然、タレントの選別だけではなくて、というよりも視聴者はタレントの選別を出来ないのであるが、スポンサーの広告商品を認知して、購入する意志を持たせることが最大の目的であることは誰にでもわかることであろうが、実はそれだけではなくて政治や政治に深く結びついた意識操作ということも行われている。このようなことを言えば、多くの人には陰謀論のように思えてしまって、生理感覚的に受け付けないであろうが、その感覚自体が、TVに操作された結果であるとも言える。はっきりと言えばTVとは国民を洗脳するための政治的な道具なのである。TVだけではなくて新聞もそうであるが、本質的には国民の自主的な精神や思考を促すためのものではなくて、奪い取るために存在していると言えるものなのだ。TVを見れば幾つもの政治的な討論が行われているであろうが、それは民主主義を装っているだけであって、そのテーマや進行、パネラーの選択、発言内容などはTV局側にコントロールされたものであって国民は不在なのである。戦争直後の政治の国民への洗脳体質(もちろん当初はGHQによるアメリカの植民地政策であるが)を濃厚に引きずっている組織がTV局であり、新聞社なのであって、それらのマスコミ組織は本当は時代の変化に合わせて、淘汰されたり変革していかなければならないものであるが、政治にとっても都合のよい国民統治のための装置なので手厚く保護されている現実がある。そして戦後の歴史の中で洗脳のようなことばかりをしていると当然のことではあるが、腐敗は癌のようにどんどんと進行して、立花氏がユーチューブの動画でも丁寧に解説しているように大手広告代理店を通じて日本のマスコミ全体が韓国勢力に乗っ取られてしまったようなきわめて深刻な事態に至っているものである。日本の報道が日本のためのものでなくなってもうすでに久しいのである。しかしNHKだけでなく大手マスコミに所属している人々は破格の高給を失いたくないがために内部告発できないという現状にある。そのような認識のもとにマツコさんのN国党に対する「気持ち悪い」であるとか「宗教っぽい」などという発言を考えると、単に個人的な感情レベルの感想ではなくて背後の巨大な既得権益を代弁したものであることが理解できるのではなかろうか。今の時代に企業ではない個人のタレントに10億円もの収入を与える社会システムは悪魔的であるとすら言えるであろう。そしてそのような社会システムが日本の成長や格差の是正を阻んでいるものである。タレントのヒロミさんが10年間ほど芸能活動から離れていて、その間、加圧トレニングジムなどを経営していたようであるが、芸能界に復帰した時に、商売をすることは器材を購入したり、人を雇ったりで大変であったが、芸能活動は何の元手もなく口だけで稼げるから有り難いと言っていたが、それは心からの本音だったと思う。今の時代はマスコミ以外の一般人が商売をするにせよ、会社勤めにせよ、普通に生きていくことが非常に厳しくなってきているものである。そういう状況下で国民を洗脳するためのマスコミ組織がいつまでも優遇され続ける社会システムは許されないのではないのか。マツコさんというタレントには何の興味も関心もないので個人攻撃のようなことはしたくはないが、たまにTVで見ていると歯に衣着せずにコメントを発しているようでいて、微妙な政治的な問題についてはもごもごとごまかしたり、スルーしたりと炎上を回避する危機管理能力が高いように見受けられていたものである。今回のN国党に対する発言は、まさか国会議員から直接に激しい抗議活動を受けるとはまったく予想していなかったので動転したということが本音なのであろうと想像される。また国会議員があのようにTV局に押し掛けて抗議することに対して世論は、営業妨害であるとか品位を欠いた職権乱用であるなどと不快感を持つ人が多いようである。しかし私に言わせれば、議員がマスコミの批判に抗議しないことは、政治がマスコミの言論の自由を尊重しているというよりは癒着の関係性を表しているものである。政権与党の自民党が党を上げて抗議するのであれば、当然それは言論弾圧に相当するであろうが、議員数二人や三人の弱小政党と比較すれば、マスコミ連合の影響力や政治力の方が遥かに巨大であるはずである。これまでにマスコミ主導の恣意的なバッシング報道で潰されてきた政治家の数は数えきれないのではないのか。そのような歪んだ報道活動がマスコミ的には正義であり道理であるというならば、マスコミと癒着していない潔癖な政治家がマスコミに抗議活動することは当然である。いずれにせよ日本は法治国家なのであるからマスコミの報道を通じた洗脳、政治活動が合法であるならば、立花氏のTV局に対する抗議活動も唯一、脱法行為かどうかが問われるべきである。法に抵触しているということであれば民事や刑事で訴えて法廷で争うべきであって、マスコミが公共の電波を通じて好き勝手な既得権益保護の政治活動を行っていながら、業界の都合で議員の品位や節度を持ち出して批判する姿勢は私は傲慢であると思う。

 

タレントの価値とマスコミの影響力について

タレントの価値と言うものがよくわからない。嫌味で言っているのではなくて、本当にわからない。私以外の人々はどう思っているのであろうか。それともそのようなことは自分の生活とは何の関係もないことだからどうでもいいことなのであろうか。N国党の立花孝志氏と騒動になっているタレントのマツコさんの年収は、立花氏の動画での解説によれば数億円以上、10億円の可能性もあるということだ。私は業界の事情はわからないが、恐らくは立花氏の言う通りに10億円ほど稼いでいるのであろう。簡単に10億円と言うが、それが本当に一タレントの価値に見合ったものなのであろうか。はっきりと言ってしまえば、TVに出ているだけではないのか。バラエティー番組など馬鹿しか見ていないのだから、視聴率がどうのこうのと言ったところで、普段から何も考えていないような大衆の幅広い支持や共感があったとしても、それが年収10億円の金を生み出すということが、どうも私には受け入れられないものである。社会システムについて無思考の人間であれば、そこに多少の不平等性を認めても世の中はそういうものだ、とか反対に夢があっていいではないかと主張するのかも知れない。それもまあ一つの見識というか、達観なのかも知れないが。しかし世の中の不平等性は確実に庶民や国民全体の犠牲の上に成り立っているのである。宝くじで10億円当たる幸運の人間がいるが、その10億円の金は、数十万人もの庶民が宝くじを数千円の金を出して集められた累計から、ごく一部の高額当選者と国の収入に配分されたものであろう。これが宝くじであれば、国民はその仕組みについて理解しているので誰も文句をいう者はいない。しかしマスコミやタレントの利権ということになれば、多くの国民はそのシステムなり構図を理解できていないままに、というよりも政治やマスコミの操作によって国民の本質への理解が阻まれるようなコントロールが維持された状態で日常感覚的に、バラエティーやお笑い番組を見る皮膚感覚で受け入れさせられているものである。だから政治とマスコミは強固に結びつく親和性があるし、選挙のたびにタレント候補が擁立されたり、タレント議員がマスコミの利権を守る言論活動を展開することにもなるものである。そういう理解で立花氏とマツコさんの騒動を見れば、違った印象を持たれる人も多いかとは思うが、ともかくも今の日本人はあまりにもマスコミの洗脳が強過ぎて、個人的には分からない人には何を言っても分からないであろうという虚しさの方が少なくとも私には圧倒的である。もちろんお金だけの問題ではないが、資本主義体制の国にあって金の力は巨大である。もうすぐ消費税が増税されて10%になり庶民の生活がますます困難になっていくことは確定しているのに、TVに出続けているだけの本当に才能があるのかどうかもよくわからないような人間が年間に10億円の収入があるのである。プロ野球の選手ですら、アメリカはともかく日本でそれだけ稼いでいる選手はいないであろう。10億どころかプロ野球選手が年収1億円稼ぐことも簡単なことではないし、選手寿命はあまりにも短い。体力の衰えが見え始めてくればもう終わりである。それ以前に小さな時から野球だけの生活を送ってきて、天才とか神童などと言われて騒がれてプロの選手になっても、いざ入団すれば怪我をしたり、フォームを崩されて修正できなくなって1勝も、1本のホームランの結果も残すことが出来ずに人知れず引退する選手は非常に多いものである。当然そのような運命の選手は人生を野球だけに捧げてきたのに、野球では最低限の生活すら出来なかったということである。もちろんプロスポーツの世界にも様々な問題があるであろうが、それだけプロの世界はシビアで過酷であるということであるが、タレントがTVに出ているだけで得ている10億円なりの金には、それだけの才能や努力、希少性が反映されているのであろうか。私にはそうは見えない。単に政治に結びついて、国民を洗脳したりコントロールすることの代価として得ているビッグマネーではないのか。そこには目には見えない搾取が存在しているのである。いかにタレントがTVで夢や愛を語ったとしても、政治や報道がしていることは結局は既得権益を守ろうとしているだけであって、国民はその仕組みを意識的に否定していかないことには、貧乏人はいつまで経っても貧乏人なのである。今の政治やマスコミはその固定化をより強固にして揺るがないように番組作りをしたり、使うタレントを選んでいるということなのだ。立花氏はそういうことがよくわかっている人間なのであるが、無思考の大衆はいわゆるTV的な感覚や倫理観で表層的にマツコさんとの騒動を見ていても肝心のところで何も理解できていないか、マスコミの既得権益に籠絡されることにしかないのだと思われる。それだけ日本のマスコミの力は巨大なのである。日本の支配者は政治ではなくてマスコミなのだ。