龍のひげのブログ -50ページ目

大村知事は卑怯な独裁者である

自分がされて嫌なことは、他人に対してもしないということは、人が人として生きていく上での基本である。日本人が海外で生活していて、現地の人間から、日本人は劣っているとか、醜い国民性だなどと公に誹謗中傷されるようなことがあれば、誰もが多大なる不快感を感じ、途端に生き辛くなるであろう。同様に我々日本人も、日本に住んでいる在日の人々や外国人の国民性、民族性そのものを批判したり、中傷すべきではない。その国の国民性や民族性に問題や欠陥があるように見えるかも知れないが、本当の原因は国民性や民族性を歴史的に作り上げている政治にこそあるのである。だから批判すべきは政治権力と政治に密接に結びついている報道である。たとえば日本人は一般的に海外の国から従順で無個性であるなどと言われることが多いが、それが事実だと認められているからかどうかはわからないが、誰もヘイトであるとか差別だなどとは言わない。しかし仮にそれが事実であったとしても、日本人の従順性や無個性を条件づけているものは生物学的なDNAではなくて、日本人が日本人として日本で生きてきた歴史や記憶、そして生活を取り巻き規制する政治にある。環境や権力構造が国民性、民族性を決定しているのであるから、日本人が長年、韓国で生活していれば韓国人のような性質になるであろう。それだけのことである。権力とは無縁の国民を批判しても何の意味もない。自分がされて嫌なことは他者にもすべきではないのである。よってレイシズムであるとかヘイトを指摘されるような表現はすべきではない。しかしそれと同じ論理において、日本の反日活動の過ちについても批判されてしかるべきである。日本の政治だから、日本の報道機関だから日本を美化すべきだなどとは、日本人の誰一人として考えてはいない。日本は韓国とは違って、民度は高いのである。国家主義的な美化、正当化など誰が望んでいようか。しかし日本の公的な反日活動は、健全な良識に照らして見れば、誰が考えても限度を超えているものである。という以上に日本の政治という織物が反日一色に染め上げられつつある状況であると見れるのではなかろうか。これでは人間の人間的な生理反応として反感や反対の声が上がって当然であろう。そもそも日本の政治は、特に野党は、政治家の失言批判や揚げ足取りと反日活動のようなことしかしていないではないか。そのような政治に国民の税金が湯水のように投じられているのである。先進国の平均経済成長率は、年間約2%であるが、日本は20年以上実質的に0%成長である。日本の統計は信用できないから0%も疑わしいもので、実際にはマイナス成長ではないかとも考えられる。何の生産性もないような反日ばかりに日本の政治がかまけてきた悪影響が、はっきりと日本経済の衰退や国民生活への圧迫となって現れているものである。政治やマスコミは、反日で食べていくことができても、日本全体はそのしわ寄せでどんどんと貧困化しているものである。これでは怒りを持つなという方が無理であろう。国民の税金で反日運動ばかりをしてその負担が弱者に押し付けられている政治構造に一体どれほどの正義があるというのであろうか。

あいちトリカエハナーレの表現について、大村知事がその内容についてヘイトにあたると法的措置を検討しているとのことであるが、そもそもトリカエハナーレという風刺的な展示を生む大元の原因は、大村知事がトリエンナーレにおいて天皇を冒涜し、多くの日本人の感情を害するような作品の展示を強行したところにあることは明らかであろう。表現の自由の観点からあれはダメで、これは良いと言えないと主張していたのは自分自身ではないのか。日本第一党が企画したトリカエハナーレに問題があるとするのは二重基準の矛盾そのものであるし、大村知事の国民感情を無視したトリエンナーレの再開が直接的な要因となって、多くの日本人の反感や許し難さの気持ちが代弁されたものであることは否定できないのであるから、一連の騒動の経緯を考えれば、大村知事自身が責任を取って辞職すべきことが筋道であろう。日本第一党は今後とも表現が民族差別だと指摘されないよう注意しながらトリカエハナーレを継続すればよいだけのことである。批判の対象は韓国の国家権力とそれに迎合する日本の反日勢力に限定すべきである。公金を使っている訳ではないのだから批判される理由はないはずだ。全て自分の考えは正しくて、正義であり、他者のすることは間違っていると言う傲岸不遜な態度は、日本の左翼の典型的な精神構造なのであろうが、その弊害はあまりに大き過ぎると言えよう。日本の政治やマスコミの左翼権力は自らの反日活動を正当化するためにこそ差別やヘイトを指摘し、結果的にマッチポンプのように嫌韓を生み出しているものである。馬鹿らしくて口にするのも情けないが、大村知事は法律と言うものを何だと思っているのであろうか。自分を守り、政敵を攻撃するための武器だと考えているのであろうか。客観的に見ている限り、大村知事は政治家としての道を大きく踏み外してしまっているように思われる。法律を作る政治家の立場から言えば、思想、信条に関わりなく全ての人間が平等、公正に一つの法律が適用されるように地域なり国の行政を監督することが一義的に重要な使命であるはずである。政治家が法律を恣意的に解釈したり運用することは非常に危険な振る舞いであり、民主主義の破壊行為でしかない。トリエンナーレにおける表現の自由も、慰安婦像や天皇の肖像を燃やす作品の作者が主張するのであればそれはそれで筋が通っているとは言える。しかし大多数の国民はそのような冒涜的で反日のものを芸術作品として国民の税金を投入し、公的に展示されることに違和感や不快感を感じているという事実がある。一方で表現の自由があって、もう一方に国民の拒絶反応があるというような構図において最終的に政治判断になるということは止むを得ないことではある。しかし多くの国民の拒絶反応があるにも関わらず、強行的に再開するのであれば、行政の長である知事はその意義なり価値というものを自らの言葉で説明する責任があるのは当然ではないか。それを表現の自由の一言で済ませることは政治家として何も言っていないに等しいし、政治家の県民や国民に対する役割を放棄しているに等しいものである。都合の悪いこと、直視したくない内容には何の説明責任も果たさず、単に自分の主義に合わない表現行為には法的措置を取るというような姿勢は独裁政治以外の何物でもない。政治家が自らの言葉で自らの政治判断を説明することはリスクを伴うことであろう。だからこそ、そのリスクに向き合う姿勢においてその政治家の真価が問われるものである。法律は全ての国民が守るべき規準ではあるが、政治家の独善的な政治判断を正当化したり、自らの主義にそぐわない考えを否定、攻撃するために利用される材料ではない。知事や市長が自らの言葉で説明するのであれば、それがどれほど支離滅裂で、馬鹿げた屁理屈であったとしても市民は受け入れざるを得ない。なぜならそのような首長を自分たちが選んだ結果なのであるから仕方がないということである。しかし大村知事のように、法廷の被告人か弁護人であるかのように、表現の自由があるとしか言わないで、国民や県民にはそれ以上の何の説明もせず、国の補助金中止を批判するような姿勢は、リスクを排除しようとしているだけの卑怯さが如実に現れているものと言えよう。これがたとえば大阪の松井知事や前の橋下氏や現職の吉村市長であれば、この問題に対してどのような見解を持っているのか知らないが、仮に多数の市民が反対しているような案件を強行的に突破、実施するような時には、自分なりの言葉で最低限度の説明はするであろう。おそらくは表現の自由などの一つの法律の強制力だけに頼るような姿勢は取らないと思われる。だから立派な政治家だなどということではなくてそれが当たり前のことではないのか。これが橋下氏あたりなら聞いていて耳をふさぎ、目を瞑り、鼻をつまみたくなるような屁理屈を聞かされることになると想像されるが、それが現職の知事や市長の説明ならばそれを基点として新たに市民の政治意識や判断力が醸成されていくこととなるし、何もないよりは余程ましである。自分の言葉による説明と言う最低限のリスクも負えないような政治家は日本にとって弊害でしかない。一刻も早く排除されるべきである。

 

とにかく捕まらないように気をつけよ

あいちトリカエハナーレ2019とは面白い試みだな。愛知県だけではなくて、是非、大阪でもやって欲しい。大阪でなくて京都や神戸でも見に行きたいとは思うし、入場料が無料であるなら千円や2千円ぐらいであれば寄付してもよい。というよりも一地方都市の一日開催であるなら見に行きたくとも、行けない人がほとんどであろうし、会場費や作品製作費などでお金も掛かることであろうし、全国的に支援したいと希望する人はかなり多いであろうから、大々的に募金を呼びかければ良いのではなかろうか。継続した芸術イベント活動として今後とも質と量の充実を追及して欲しいと願うものである。その上でその芸術祭の中身について注文を付けたい。まず愛知県の大村知事によって強行的に再開されたあいちトリエンナーレ2019を諧謔的に風刺したり、批判する「芸術」作品であれば誰も文句をつけて、中止するように圧力をかけることはできないであろう。またベトナム戦争時に韓国軍がベトナム人女性を強姦した結果、生まれた多数のライダイハンも歴史的な事実なのであるから、それを芸術として表現することはヘイトでは有り得ないし、トリエンナーレの慰安婦(こちらの歴史的な真実性は怪しいものであるが)像との関連から言っても許容せざるを得ないはずである。日韓断交を喜び、促すような芸術作品も好ましいし、個人的には大村知事の写真を燃やして、灰を足で踏みつけるような映像作品も是非、展示して欲しいと思う。しかし朝鮮人や韓国人の民族差別を少しでも指摘されるような表現はご法度である。韓国が嘘吐きで、信用ならない国であることは100%の事実で、否定しようのないことであるが、それは韓国という国の権力体質や歴史的な事大主義の精神性によるものであって、一人一人の韓国人が韓国の政治家のように平然と嘘をついたり約束を反故にするような性質であるかと言えばそんなことは有り得ないであろう。ましてや犯罪傾向が高いと言うこともないはずである。韓国の政治のレベルが低過ぎるゆえに民主政治の民度が日本に比べて極端に低いことは事実であるとしても、それは民族性や血統によるものではなくて、韓国政治や一部の財閥、マスコミなどの日本に対するコンプレックスと虚栄心が生み出したものの投影に過ぎない。よって一般の権力とは無縁の韓国人も本当は韓国政治の被害者なのであって(加害者という意味ではそのような韓国の反日政治を常に擁護する立場の日本の左翼も同類、同罪であるが)、自律的な発展、成長の可能性が政治的に抑圧された非常に気の毒な民族であると言えよう。私は韓国人の個人的な能力は、オリンピックなどのスポーツ競技だけでなく,音楽などの芸術や学術的な分野においても、日本人と同等かそれ以上だと見ている。だから本当はもっと国際的な競争力や生活水準も高くて当然なのであろうが、政治に中長期的な国造りの意識が皆無で、嘘をついたり、ごまかしたり、国際的な協定を反故にするような目先のことばかりに政治を傾注させているので、いつまで経ってもまともな国に成りゆかないのである。国民レベルの潜在的な能力がどれほど高くとも、それではノーベル賞を取る人材が育たないことは当然であろう。よってそういうことを芸術作品として表現するのであれば良いであろうが、韓国人そのものを犯罪傾向の高さや品性のない精神性の民族のように表現してしまうとそれはヘイトになってしまう。そこは要注意である。というよりも韓国の政治権力体質と韓国人の民族性、国民性をどうしても混同してしまうということであれば、そのような微妙な境界には言及しない方が良いのである。現実問題として日本国内では一旦ヘイトを指摘されてしまえば、それがどのように不均衡で不平等なものであっても、表現の自由は却下されて犯罪者のように処遇される可能性が高いからだ。それに権力とは何の関係もない韓国人や在日の人間を批判、罵倒したところで何の生産性もないものである。そんなことよりも、今、我々日本人が第一に批判すべきは日本の左翼である。韓国の反日政治の半分近い構成要因は、日本の左翼の同調圧力によって担われているものである。むしろ日本の左翼の反日が韓国の反日を誘導、扇動しているものとも考えられる。具体的に言えば大村知事のような政治家が日本には無数にいるから韓国の反日政治はいつまで経っても終息していかないものである。日本の左翼はヘイトの概念を自らに都合よく恣意的に適用することを武器とし、また各地方の条例として制定するまでに至っている。そこには全体的な統合性や平等性といった観念が無視されている。日本の左翼が、天皇の冒涜や慰安婦像で日本人の国民感情を傷つけるようなことをしてもヘイトとは見做されないが、反対に韓国批判をすれば表現の自由は認められずにヘイト条例で取り締まられる可能性が高い。前回にも述べたことだが、日本の左翼はそういう点においては非常に動物的なのである。全体的な統合や均衡性を度外視して、分離、分断された状況の餌に食らいついて、一旦、食らいつけば死んでも獲物を口から離そうとはしない。朝日新聞やTBSなどは状況による程度の差こそあれど、基本的にはそのような精神構造である。日本人は左翼が唱える正義と言うものの中身と性質をよく吟味する必要性がある。そこには危険極まりない毒が含まれている。その毒性の高さに気づかないままに我々日本人が真剣に日本のことを思って何事かを主張、表現していると、カフカの不条理小説ではないが、ある日急に逮捕されて投獄の憂き目に会う危険性が高いと言うことだ。心ある日本人よ、日本を思わばこそ、捕まらないように気をつけよ。

 

左翼の正義が日本にもたらすもの

会員になっているスポーツジムには自転車で行っているが、その途中でジムの最寄駅を通過するときに、いつも決まった場所にビニール袋やダンボール紙を巻きつけて寝ているホームレスを目にする。もう私がその場所で見掛けるようになってから1~2年は経っているので、その場所を定住の場としているようである。駅の出入り口付近で駅構内にあるパン屋の壁面になっていて、大きな交差点のすぐ近くでもあるので乗降客や私のような自転車で通過する人間が密集して、邪魔と言えば邪魔なのだが、誰も文句も言わずに目には見えない物質であるかのように気にも留めずに素通りしてゆく。私は大体、仕事が終わってからジムに行くことが多いので夜に横たわっているホームレスを見ているので、昼の時間帯はどこかに移動しているのかも知れないし、空き缶拾いなどの仕事をしているのかどうかはわからないが、当たり前のことではあるが夏は暑いし、冬は寒い路上生活でよくも生き延びているものだなと感心して見ている。定期的にジム通いをしてランニングで身体を鍛えている私などより、そのホームレスの方がよほど体力があって、免疫力も高いのではないかなどと考えてしまう。ホームレスの生存能力や環境適応性はともかくとして、どうしてホームレスの人間は何年間もの間、或いは何十年間もそのような過酷な路上生活を送り続けなければならないのであろうか。日本では憲法第25条において生存権というものが認められていて、全ての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有することが定められているものである。ホームレスの人々は、自らの境遇が憲法違反であると国を相手に訴える力もないから路上生活から脱却できない訳であるが、無数の人々の目に晒されるようにして生きているのであるから、仮に千人に一人でも、一万人に一人でも不憫に思って、自立できるまでの当座の間だけでも自分の家に招いて寝食の場を提供するような奇特な人間が存在するのであれば、日本からホームレスは一人もいなくなるはずである。しかし現実にはそうはならない。その理由は敢えてくどくどと説明しなくてもわかるであろうが、衛生上の理由だけではなくて、家に招く人が女性であれば、見知らぬ男をそれも長年、社会から隔離しているような者を自分の家の風呂に入れさせて、食事や寝る場所を提供するようなことをすれば、襲われる危険性が高いと考えることは当然であろう。招く人が男であっても、性的な危険性はなくとも、目を離している隙に金や腕時計などの貴重品を盗まれるかも知れないと誰もが心配するであろう。もちろん私だって見知らぬホームレスと一緒に生活することは嫌である。それは差別や偏見の問題だと言えるであろうか。世の中の社会問題のほとんどは、一個人の善意や良心では決して解決し得ないものである。

先日の台風19号の被害で避難所にホームレスの人間が入所を拒否されたことが、一部で問題視され報道されていた。ホームレス側とすれば災害で多くの人々が自分と同じか、それに近い状態に陥っているのであれば、一人の人間として同等の権利を主張する絶好のチャンスだと考え、ここぞとばかりに風雨を凌げる避難所での生活や食べ物を要求することは、ある意味では当然のことなのかも知れない。彼らの過酷な境遇を考えれば、その発想、要求を批判することはできないであろう。しかし家や財産、人によっては家族の命を失って心身ともに限界に追い込まれている、それまで「普通」の日常生活を送ってきた人々を閉鎖された空間でホームレスの人間と一緒にさせることが行政としての正しい判断なのであろうか。どうして平時においては当たり前のように見捨てられてきた人々が、災害時の避難所への入所拒否だけは、人権問題として取り上げられなければならないのか。私は左翼の、そのあまりにも左翼的な主張が許せないものである。避難所には、小さな子供たちや赤ん坊もいる訳であろう。大人や老人たちも生きる気力を失いかけているのに、そういう人々を不衛生でそれまで社会から隔離されて生きてきたホームレスと一緒の空間で生活することを強要する主張は無茶苦茶である。どうしてもそれを社会問題、人権問題として取り上げ、報道したいのであれば、先ず、マスコミが自社社屋や保有する施設内でホームレスの人々を受け入れて、保護する行動を起こすべきである。新聞社や放送局は民間企業ではあるが、一応の建前では公共性、公益性の高い組織として国家的にも優越的な地位と影響力が付与されているのであるから、市民が一個人として解決したり、問題提起できないようなことも、政治や世論に働きかける立場にある。よって口先だけでホームレスの避難所入所を批判するのではなく、人道的な救済活動を自ら組織的に実施すべきは当然である。その上で人権問題として広く問題提起なり報道をすればよいではないか。放送局、新聞社などの大手マスコミには、ホームレスを受け入れるだけのスペースなり、最低限の食事を与えるだけの財力もあるのだから、むしろそうしない理由がないとさえ言えるのではないのか。ここにおいて何よりも許せないことは、あまりにも左翼的な思考様式であるとか精神性というものが如実に現れていることである。一口で言い表わせば、それは主張のための主張に終始しているということだ。目の前の特定の状況、問題だけを全体性から分離、分断して、その場だけに通用する正義や正当性を主張し、批判する。それが日本の左翼の特徴なのだ。その主張内容や正義が、全体的にどのような不均衡な結果をもたらし、一部の人々に過度の負担を背負わせたり、不快感を与えることになっても、全く頓着しないと言うか、全体から見た矛盾や不整合を歯牙にかけない姿勢を一貫させている。部分的に分断した状況の正義が左翼の全てなのだ。当然、その結果に対しても日本の左翼マスコミは責任を持とうとはしない。主張すれば主張しっ放し、批判すれば批判しっ放し、後は野と成れ山と成れ、わしゃ知らん、それが日本の左翼の基本的な精神構造である。また日本の左翼は、結果的に弱者により一層の負担を押し付けているものである。左翼は権威や権力を批判することはあっても、実際には左翼そのものが誰よりも腐敗した権威主義者なのであって、本当の意味では弱者の味方ではない。それがわからないのは、そういうことを見抜くだけの知的能力がないだけの話しである。ホームレスを都合よく持ち出して弱者の立場に立っているように見せかけながら、実際には災害で被災した人々にさらなる負担や不快感を与えることに対して何の疑問や痛痒も感じてはいない。それが日本の左翼の本性なのだ。本当に日頃から社会の現状に問題意識を持ったり、考えている人間であれば、ホームレスの件に関しても軽々しく人権問題として行政批判などできないはずだ。日本の左翼は恥知らずなのである。愛知県のトリエンナーレも同じではないか。大村知事や朝日、毎日新聞がいかに表現の自由の大切さを主張したとしても、一方では週刊ポストの韓国特集については嫌韓だとして表現の自由を抑圧する姿勢であろう。そこにあるのは分断、分離された近視眼的で狭小な正義だけで、全体的な統合や整合性は全く無視されている。その矛盾に対して自らの言葉で説明しようと言う意識もない。これでは日本の左翼は、論理的に瑕疵があるというだけではなくて私に言わせれば、動物的なのである。今、目の前にある餌に食らいついているだけなのだ。その餌がイデオロギーや社会的な正義で装われているから、見掛けは高等に見えているだけのことである。日本人よ、動物に堕すなと言いたい。