龍のひげのブログ -43ページ目

暴走するフェミニズム

差別や貧困に問題があることは当然であるし、否定すべきことではないが、それでもタレントの岡村君に対する藤田孝典氏の発言内容には私は疑問を感じるし、またその糾弾姿勢にはある種の危険性が潜んでいるような気もする。具体的には藤田氏と大竹まことさんのラジオの対談を読んで、その思いを強くしたものである。

https://radsum.com/archives/14277

藤田氏はそこで、岡村の発言には擁護のしようがないから、行動が求められるとして、貧困で生活困窮している人々や、女性の支援活動、夜の仕事をしている人などの生活支援をしている団体の声を聞いたり、活動に参加したり、寄付するようなことを期待すると言っているのである。何を岡村に期待するかは藤田氏の勝手なのかも知れないが、率直に言って私はその発言を見て、お前は裁判官なのかという憤りを強く感じたのである。それではまるで岡村が犯罪者の扱いではないか。裁判官が犯罪者に対して、更生の道を歩ませるために奉仕活動を進めているようである。そこには社会に対して民間人が一つの問題提起をするという謙虚さがまるで感じ取れない。謙虚さどころか、ある特定の状況において(この場合はフェミニズム的な断罪)、異論を許さずに一つの画一的な理念やイデオロギーをあてはめて、その型に合わない対象者を問答無用で反省させたり、処罰や排除をすることが当然だと考える姿勢は、ファシズムの源流であるとさえ言えるのではないのか。私は個人的には岡村の風俗発言よりも藤田氏のその強圧的な姿勢の方が危険性があり、憂慮されるものだと思う。仮に岡村の発言の問題性が大きいのだとしても、政治家でもあるまいし、単なる芸人の不用意な失言はそれ以上でもそれ以下でもないものであって、本人がその間違いに気付いて一旦謝罪すればそれで済むべき話しのはずである。それを社会に話題提起しただけの人間が、罪人に対するかのように奉仕活動や寄付を求めるとは、一体、何様のつもりなのかということだ。タレントの影響力は大きいといっても岡村の出演しているANNは、関東の特定地域でのみ視聴できるそれも深夜番組で、ごく一部の限られたリスナーだけが知っているような内容を、全国的な問題として周知せしめたのは藤田氏自身ではないのか。もちろん黙って聞き流せばよいというものでもないのかも知れないが、政治家の発言であればともかくも、お笑いタレントの悪意のないうっかりミス的な失言をここまで大きく政治問題化させることは、わたしには善意とか正義というよりもあざとさの印象を強く受けてしまうものである。それから風俗と女性の貧困や搾取について、藤田氏は自分の一面的な見方や問題意識に過ぎない見解を全体化させて、そこから岡村発言の問題の大きさを認識しているようにも感じられる。今回のコロナ禍や2011年の東日本大震災の時も同様であるが、経済困窮によって生活できなくなったり、学費や奨学金の返済が出来なくなって風俗に流れ込んでくる女性も確かに存在するのかも知れない。それを期待するような発言は許されないという意見は正論なのであろうが、全体のごく一部を突いている主張である。岡村に罪があるとすれば、それはその場に相応しくない不謹慎な発言をしてしまったというだけのことであり、まあ言ってみれば粛然と静まり返った葬式の場で大きな音のする屁をこいてしまったようなものであり、本来は一言謝れば済まされるべきことのはずである。しかし肝心の貧困は、たとえ岡村がその放屁の償いに奉仕活動や多少の寄付をしたところで解消されるようなことではなくてあくまでも政治の問題であるはずだ。それならどうして政治家でない岡村をここまで悪者に仕立て上げる追及をする必要性があるのかということだ。それから女性への性的な搾取ということに関しても、一つ断言できることは、どんなに経済的に困窮していようとも、風俗で働くという気持ちのない女性はそういう所で働くということは人身売買で売られるのでもなければ、まず有り得ないであろうということである。反対にそれほど金銭的に困窮している訳でなくとも、風俗で働くということに心理的な抵抗感のない女性も世の中にはたくさん存在しているのである。むしろそういう仕事が短期間でお金もたくさん稼げて、楽しいと感じる女性も多いであろうし、そういう感覚の女性が風俗業界に集まっていることは否定できない事実であろう。これは女性蔑視や女性の職業の選択肢の問題ではなくて、基本的には本人の意思によるものである。嘘だと思うのであれば、風俗の店に取材に行って風俗嬢に聞いて見ればよい。あなたがたは性的な搾取の被害者なのですが、そのことについてどのように感じていますかと。ほとんどの風俗嬢は、きょとんとして質問されている意味が飲み込めずに黙ってしまうであろう。自分の意思でこの仕事をしているのに、被害者だなんてそういう風に考えたこともないというのが彼女たちの本音であろう。要するに一口に女性と一括りにまとめても、そういう性的な意識は個人によって極端に言えば、天と地ほども違うのである。それを一つのイデオロギーにあてはめて、女性蔑視だ搾取だなどと言っても、それは単なる政治運動であり、パフォーマンスであって、現実の何も説明していないということだ。もうひとつ言えば、これも偏見だと言われるかも知れないが、風俗で働いている女性はお金にルーズであることが多いのだと思われる。ホストクラブにはまってしまって消費者金融から借金をしてしまったり、分不相応なブランドの服やバッグなどをたくさん買い集めて、お金に困り風俗に流れてくるようなタイプが大半なのではなかろうか。そういう女性たちも社会の経済や景気浮揚に貢献している訳だから第三者が否定したり、批判すべきではないのであろうが、被害者なのではなくて自業自得なのである。むしろ前回にも述べたようにそういう場所で多額の金をつぎ込んでしまう男の方が全体的な経済の視点で見れば、性的搾取の被害者だと見れるものである。藤田氏の発言は、岡村の不謹慎ではあっても大して罪のない失言を政治利用しているだけにしか私には見えない。はっきり言うが、日本のフェミニズムなどインチキで偽善でしかない。藤田氏のような論者が日本社会における一つの権威となり、検察官や裁判官のような断罪者としての使命感を行使しようとするのであれば、私は今後、日本のフェミニズムがいかにインチキの偽善であるかをワーワー言うのではなく、冷静に大衆の誰にでもわかり易い、かみ砕いた言葉で説明していくつもりだ。時間はいくらでもある。

 

くだらない正論をまき散らすな

そもそも風俗の仕事に従事している女性を、性的搾取の「被害者」のように扱うことが間違っているのだよ。性的搾取という言葉自体が、よくもそんな手垢の付いた時代遅れの決めつけを、恥かしげもなくできるものだなと思う。確かに広義の大雑把な分類で見れば、「搾取」であるのかも知れないが、それを言うのであれば、資本主義社会の労働者は全て資本家に搾取されている訳であろう。風俗業界で働いている女性だけを特別扱いする必要性があるのか。ましてや被害者なのかということだ。そういうことを平然と発言する人間は特定のイデオロギーに偏り過ぎていて、世の中のことがよくわかっていないのだと思われる。性的な搾取という表現が適切なパターンとは、借金のかたに債権者に本人の意思とは無関係に強制的に売られてきて、その店から逃げ出せないように軟禁状態に置かれて働かされたり、どこかのプロダクションと契約させられてAVに出演させられるようなケースを言うものである。それが、性的搾取である。日本にあってもそのような人身売買に近いアンダーグラウンドな性の問題は、ないことはないであろうが、恐らくは全体のマーケットの1%にも満たないのではなかろうか。岡村君がラジオで発言していた風俗の女性たちは、今は確かにコロナの問題で生活が困窮してという特殊事情があるので誤解を生む社会背景があることを失念していた岡村君の責任はあるであろうが、基本的には自分たちの意思で、身売りされるような悲壮感などかけらもなく(売られた訳ではないので当然のことだが)、むしろあっけらかんとして生き生きと働いているのではなかろうか。その仕事をやりたくてやっている訳ではないというなら、風俗嬢でなくても、健康食品のテレホンセールスや苦情受付係でも何でも同じではないか。どんな仕事でも誰かに雇われて働いている限りでは、時間や精神を拘束されて労働で得られた利益を資本家や経営者に搾取されているのだから、辛いものである。仕事という括りで見れば、風俗もそれ以外の労働も結局は同じであろう。若い女性が特別なスキルや経験がある訳でもないのに、仮に一日で数万円、一カ月で100万もの金を得るのであれば、そしてそこに通う男性が1時間もないような短い時間内に、何の男女の情愛も感じられないような無味乾燥な機械的な作業で精子を放出させられて、1万円も2万円も支払うのであれば、どう考えても性的に搾取されているのは男の方ではないか。だから私は日本の全ての男性にそんな所にわざわざ搾取されに行くなと言いたいのであり、自分の意思で風俗で働いているに過ぎない女性を被害者のように論じる偽善的な姿勢に腹が立つと同時にその浅薄な倫理感がおかしくて笑ってしまうのである。風俗産業で本当に女性の意思に反した人権蹂躙の身売りに近いことが一般的に横行しているのであれば、それは行政や法律の問題であるが、そういう状態が放置されていることは考え難いものであるから、単に労使の合意の上での職業選択の自由ということであって、岡村君の発言も本質的な問題性があるとは言えないものである。女性の同意があっても金のやり取りがある状況で性行為が行われることが許されないというのであれば、そもそも結婚という制度自体が何よりも真っ先に否定されるべきではないのか。愛の有無など結婚制度とは何の関係もない話しではないか。婚姻届を役所に提出に行った時に、役人から「そこに愛はあるのか」などとサラ金のCMのような確認をされるであろうか。まあそういうことを言うと語弊や誤解があるかも知れないし、私は何も風俗と結婚を男性側の観点から同一視しようなどというつもりは毛頭ない。そうではなくて、世の中にはくだらない皮相的な正論を主張する人間があまりにも多過ぎるからそういう極論になるということだ。それに私は、風俗を女性蔑視や搾取の問題としてではなく、大便や小便を排泄する性の便所のように利用することは自らの品位を貶めることになるだけだから自分のためにもやめた方がいいという意見である。風俗はパチンコと同じである。パチンコは人間をダメにするけれど、風俗は男をダメにする。言い換えれば、パチンコは人間劣化で、風俗は男性劣化の社会問題である。君子危うきにではないが、女性も男性も自分の精神性を貶めるような場所に行くべきではない。まあそういう私も過去一度も行ったことはないとは言わないが、そういうことが理解できる年齢になった段階で、行こうとしても足が向かわなくなる。そういうものだと思う。

 

タレントの社会性と存在価値について

別に何だっていいのだけど、芸人の岡村君がラジオで風俗嬢に関する問題発言をして、世間から激しく叩かれていた状況で、一時はタレント生命が危ぶまれるのではないかと、このまま批判が継続、拡大していけば、出演番組を強制的に自粛させられるか、岡村君がまた精神的におかしくなってタレント活動を休業しなければならないのではないかと思われるような危機的な雰囲気の時に、相方の矢部君が突然、岡村君出演のラジオ番組スタジオにやってきて、公開説教をしたのだという。その説教の内容が、私は放送を聞いていた訳ではないので細かなところはわからないが、「結婚して、風景を変えろ」というようなことだったらしいのだが、私はその一件を知って、矢部君のことを見直したのであった。説教の内容に感心したからではない。そうではなくて、矢部君がどこまで意識的に計算してやったのかは不明だが、そのような内容のちょっと時代錯誤の趣きがある結婚観や女性観のアドバイスなり説教を居丈高にすると、世間の批判の矛先が自分の方にも向ってくることをお笑いやTVを職業にしている人間であれば、ビビッドに本能的にわかっていたであろうし、ある程度は覚悟していたとも思えるのである。それで結果的に、岡村君の精神が日本全国からの批判の一斉砲火を浴びて崩壊していく寸前で、矢部君がその批判の一部を分散させて自ら引き受けることで、岡村君は救われたのである。実際に矢部君の岡村君への発言内容が批判を受けるようになって以降は、自然消滅のような形で岡村君の風俗嬢発言についての女性蔑視問題は、収束に向かったのであった。そういうやり方はなかなか出来るものではないと思う。コンビとしての自分自身へのイメージ悪化を懸念したパフォーマンスだとしても、スマートだし、見事であるとも言える。だからそういう判断の出来る矢部君は、言うまでもないことだが大人なのだ。それでは岡村君にそういう配慮なり、芸当ができるかと言えば、それは無理である。というよりもそんな配慮や判断が出来る人間であれば、そもそもあのような発言にはならない。岡村君は49歳ではあるが、中身は子供なのだ。しかしである。話しはそれで終わりではない。それでは岡村君と矢部君はどちらがお笑いタレントとして、面白いかということになれば、比べようもなく岡村君なのだ。矢部君はこう言っては何だが、面白いか面白くないかという価値尺度をすら当て嵌めることが相応しくないような人種であるようにも私には見える。芸人というよりは常識人なのだ。TVに出続けているのは見た目にハンサムで、爽やかで、差し障りのない無難な喋りが出来るからだと思う。でも面白くはない。岡村君は、愛嬌があって可愛らしいし、面白い。これは何もどちらを持ち上げて、どちらを貶すということで言っているのではなくて、また何が正しくて、どちらが間違っているのかということでもなくて、純粋に見て感じられる印象を述べているのだ。矢部君は岡村君のことを社会性がないと言っていたようだが、社会性の欠如が、独自性のある面白さを生み出す土台なり才能になっているということは否定できない事実であろう。岡村君は社会性がないから面白いのである。もちろんそれが、反社会的な発言や女性蔑視が容認されることを意味しないにせよである。何が言いたいかと言えば、失言を批判したり、注意すること自体は当人のためにも良いのであろうが、芸人に立派な社会性や公共性を要求しても何も面白くはないということだ。世間からずれているから面白いのである。だからこれは岡村君の話しではないが、社会性があるのかないのかよくわからないような、お笑いタレントや芸能人の政治的なコメントを聞かされても面白くも何ともないのである。面白くないだけではなくて、芸人としての本質的な社会性のずれを、知名度をフルに活用して社会性に転化させているようでもあり危険だとも私は思うものである。もちろん言論の自由は、芸人やタレントを排除するものではないので、それぞれが思う所を述べればよいのであろうが、お笑いタレントであれば漫才やコントに、俳優であれば演技に、歌手であれば歌で存在感を発揮して活躍すればよいのであって、有名人の政治的な発言はネット空間においては配信する企業においては常に広告効果と結びついているということと、発言するタレントにしてみれば大衆感覚に埋没する意見や主張よりも、少数意見を堂々と開陳する方が自らの存在感を市場の中で増すことが出来るという点において、度を過ぎれば民主主義の破壊にしかならないということはもっと指摘されるべきではないのか。100万人が反対している事案であっても、一人の有名人が敢然と勇ましく賛成すれば、TVやネットの中においては10万人ぐらいが賛成しているかの世論構成の気配を醸成してしまうであろう。そしてその僅か一人のタレントの、単に捻くれているだけの社会性のない、そして利己的な意見が、10万人の人間を代表しているかのような錬金術的な価値なり正義を社会に付与してしまうものである。そのような危険性は全く無頓着に放置されているのに、政治的な発言をほとんどしない岡村君の不用意な問題発言が、政治的に激しいバッシングにあって人格まで否定されるような有り様は、私は日本の社会なり言論が適正なバランスを欠いていて、偏狭になり過ぎていることの結果だと思えるのである。厳しいことを言うようだが、今の時代のタレントのダメさ加減は誰もが声高に何事かを主張しなければならないと、そうやって目立たなければ存在価値がなくなってしまうと信じ込んでいるところにあるのではなかろうか。私はそうではないと思う。面白い人間は何も主張しなくても面白いし、魅力的なのである。むしろ黙っている方が、そこに本質的な何かが立ち現れて、引き込まれる。無声映画のチャップリンであるとか、バスター・キートンなどを見ているとそういうことがよくわかる。岡村君だってチャップリンほどではないにせよ、黙っていても言葉には表現できない面白さが滲み出ている。そういうものが本来、芸人や役者などの才能の正体だと思うのである。常に何事かを主張しようと駆り立てられているタレントは、その主張によって自らの根本的な存在感と才能の無さを自己証明しているようなものである。