無能者のつぶやき
忙しいなあ。ふらふらするわ。忙しいのも陰謀である。なぜなら、今の私のように毎日忙しくて、シャキッと真っ直ぐに立ったり、歩くことも困難な状態になってしまうと、果たして真理の軸に対して歪んでいるのが、傾いているのが自分なのか、それとも世界の方なのか分からなくなってしまい、最早そんなことを追及したり、見極めることなどどうでも良いという気分になってくると(いやこれは怠け者の言い訳ではなくてそうならざるを得ない性質のものなのだ)、要するに疲れ果ててしまうと、世界の嘘や誤魔化しがどれほど滑稽で非人道的であろうとも、それを不可避で選択不可の唯一の現実として受け入れざるを得ない精神になってくるからである。
捕虜みたいなものである。それでは私は一体、何に捕らえられた捕虜なのだろうか。戦争じゃないのだから捕虜という言葉が適切でないとすれば、我々現代人の精神を、自由に考えさせたり飛翔させないように縛るものは何なのだろうか。資本主義の社会システムがそうなのかも知れない。誰もがそれぞれの階層に応じて、日々の生活や資金繰り、そして今以上に豊かにならなければならないという強迫観念に追い立てられて、人間が生きていく上で焦点を当てて見なければならない本当に大切で重要なこと、何か大きなものに対して盲目になってしまっているのではないかという気がする。そういう意味では時給千円ほどでいつ首を切られるかわからない生活の不安定な派遣社員も、上場企業の経営者で著名な財界人として知られている人物も、本当の世界の姿が見えていないという点では同様なのだと思われる。どちらも奴隷なのだ。捕虜なのだ。もっと言えば医師や弁護士もそうであろうし、政治家とて例外ではない。というよりも政治家や医師や弁護士、財界人などが世界の本当の姿を認めてしまえば「仕事にならない」のである。マスコミなどはその最たるものであると言えよう。マスコミは認めないどころか、偽りの世界を、その全体的な意識の波長を維持するための社会的な装置である。
そういう世界を私は一概に否定するするつもりはない。それはそれで確かに実体のある一つの世界の在り方なのである。そういう世界で何の疑問もなく、金儲けをしたり、恋愛をして幸福を感じられる人々を私は嫌味ではないが、うらやましいと思う。大衆蔑視のように思われるかも知れないが、そうではない。私にはどういう訳かそういう「適応能力」が根本的に欠落していて、それがこれまでの私の人生におけるコンプレックスであり、苦悩であり続けたのだ。決して自分を美化するつもりはないし、美化できるものなど何も持ち合わせてはいないが、私は自分のその欠落を埋め合わせるためにオウム真理教のような新興宗教に走ることを一貫して拒否するある種の明晰さを持つほどに不幸な人間だとも言える。私は私の欠落や明晰さを、社会の中でうまく活かしていこうなどとは微塵も思わない。それは途轍もなく恥ずかしいことである。少なくとも私にとっては。ならば私は、私の人生で一体、何をしたいのか。何もしたくはない。生産性のある資本主義社会の優秀で有能な戦士にはなりたくない。なぜならそれは虚構の世界における捕虜に過ぎないことを、私は恐らくはこの世界に生まれた瞬間から知っていたのだ。
私は天気の良い春の日に、どこかの植物園でたくさんの植物に囲まれながら本を読んだり、世界の真実について思索に耽りたい。あるいはクロード・モネのように日がな一日、水辺の睡蓮の花を眺めてぼんやりしたい。世界は陰謀に満ちている。しかし陰謀について具体的に書くことは、正直な所とても恐ろしい。なぜなら笑われるかも知れないが、私は超自然的な存在に余計なことを言うなと監視されているような気がしてならないからだ。ああ、時間を無駄にしてしまった。仕事に戻らなければ。私は毎晩、11時まで仕事をしていて疲れているのだ。
大丈夫ですは、大丈夫なのか。
レジ袋の話しはまだ続く。ある日のこと、近くのコンビニで買い物をしてレジで並んで待っていた時に、前で会計をしている20歳代の女性が、店員から袋は要るかを聞かれて、「大丈夫でーす」と答えている場面を目撃した。私はその「大丈夫でーす」という答えが気になって、何で「要らないです」と言わないのかと思ったのである。大丈夫ですとは、言うまでもなく私は袋を持っているから大丈夫です、つまりは要りませんという意味だ。要らないと言えば強い調子の拒否になってしまうので、柔らかく婉曲的に断る日本的とでも言うのか、若者や女性に多く見られる言い回しである。私がその言い方が気になったのには理由があって、最近コンビニの店員は日本人ではない外国人労働者が増えてきていて、その時の店員もタイかベトナムかミャンマーかわからないけれど東南アジア系の外国人であった。それでとっさにそういう日本的な婉曲拒否の言い回しが外国人の店員に通じるのであろうかと心配に思ったからである。しかし店員はその女性客に聞き返すこともなかったので理解できているのである。どれだけの期間、日本に滞在しているのかわからないが、優秀だなあと妙に感心してしまったものであった。それでさらに私は考えるのだが、大きなお世話かも知れないが、今の時代、我々の身の回りの日常生活は、嘆かわしくも悲しい現実ではあるが、詐欺とか騙しに満ち溢れているでしょ。こういう時代に本来、肯定的なニュアンスの大丈夫といった言葉を拒否に用いるような婉曲的な言い回しは、その切り取った部分的な言葉の意味合いに付け込まれたり、悪用されたり、トラブルになったりする可能性があるので出来るだけ控えた方がいいのではないかということである。もちろん親しい間柄の信頼できる相手に対して、婉曲的に断らなければならない場面もあるであろうからそういう表現のストックを頭の中に入れておくことは必要なのであろうが、初見の相手や電話やメールに対する対応としては中途半端でどちらにも都合よく解釈できる言葉や表現は百害あって一利なしという気がする。本当に今の時代は、押し売りとか押し買いとか、詐欺や詐欺紛い、そんなのばかりである。たとえば個人的な例で言っても、私が仕事をしている会社の事務所には毎日のように様々な営業の電話がかかってくる。そういうのに一々、丁寧に相手をしていれば仕事にならないのである。今はちょっと忙しいからとか曖昧な断り方をしていれば何度でも電話を掛けてくる。だから私は、仕事中に営業の電話をしてこられると迷惑だとはっきりと言うようにしている。迷惑です、あなたがしている事はあなたにとっては仕事でも、私にとっては迷惑行為ですとはっきりと言ってしまえば、相手はそれ以上何も言えなくなってしまう。そこまできつくは言いたくないということであれば、これもよく私が使う手であるが、内容を文書にして送ってくれと言う。時間がある時に目を通すからと。嘘で言っている訳ではない。本当に文書で送ってこられれば目は通すつもりである。そうすると相手は、大抵は電話を掛けるだけの仕事で雇われている派遣社員なのでそれ以上何も言えなくなってしまうのである。ひたすら営業の電話を掛け続けるだけの職種の派遣社員を馬鹿にするつもりはない。しかしそういう職種や派遣社員の存在が、日本経済の生産性を向上させたり、日本人労働者の暮らしを豊かにさせるとは私には
到底思えないのだ。そういうことは機械でもできることではないか。つまりは人間的ではないということだ。人間的でない人間の振る舞いに付き合わされることは、はっきり言って鬱陶しいだけなのである。
それからついでに言えば、今の日本社会は成りすましの詐欺や個人情報の流出みたいなことばかりで、本当に一瞬の油断もならない毎日だが、何も有名企業の正当な経済行為であるから信用できるというものでもない。そういうことも本当は私のような50歳代後半のような世代は若者たちに教えてあげないといけないと思うのだが、資本主義社会は国全体の経済力が衰えていくほどに、弱者に対して冷淡という以上に冷酷になるものだ。たとえばクレジットカードを発行している新興の企業は、若者をターゲットにポイントとして三千円や5千円の金を進呈するからとしてリボ払いの登録を執拗に勧めてくる。銀行に金を預けても金利が0の時代に、リボ払いで年利20%近くも、それも収入の少ない若者に負担させれば、いずれは破綻するのは目に見えていることではないか。クレジット会社やネット系の販売企業にとっては、物販の手数料収入よりも一括支払いをリボ払いに変更させて得られる金利収入の方がはるかに確実で手っ取り早く利益を増やすことができるからである。しかしその収益システムはあくまでも弱者の生活苦や家計破綻を前提にしたビジネスモデルであろう。私に言わせればそういう商売のやり方は合法的であろうと、有名企業であろうと詐欺紛いというか広義の詐欺なのである。ところが国はそういう商売のやり方にいつまで経っても規制を掛けようとはしない。社会問題であると認めないのだ。そして風が吹けば桶屋が儲かるではないが、若者の一部は「勝ち組」になろうとして振り込め詐欺に関わるような悪循環になっていく社会構造が構築されゆくのである。そういうことも前回私が述べたように日本には政治が存在しない、政治が管掌すべき経済システムに良心が存在しないというところに根本的な原因があるように考えられる。
袋はどうされますか
細かいことだけれど、最近ではレジ袋が有料化になったということで、スーパーやコンビニで買い物をした時にレジで、袋がいるかどうかを聞かれる。「袋はどうされますか。」と店員は会計をする度に客に聞いている。一日に百回聞いているのか、二百回なのか、私が店員の立場なら、その負担だけでノイローゼのようになってしまって、毎夜それこそレジ袋を頭に被って寝ているかの悪夢にうなされることであろう。それで思うのだが、客はそう聞かれることがわかっているのだから、聞かれる前に言ってあげればよいではないか。それが客としてのマナーと言えるかどうかはわからないが、多分、マナーではないであろうが、それぐらいの気遣いがあってもいいではないかと常々思っている。だから私は毎回聞かれる前に、要らない場合は「袋は要らない」と言い、要る時には「袋をください」とはっきりと言う。ところがレジで並んで見ているとほとんどの客は聞かれてから答えているのである。レジ待ちの時間短縮のためのせっかちで言っているのではない。店員の「袋はどうされますか」の質問と客が答えるまでの間に要する時間など僅か3秒程度であろう。いくら私が大阪人であるからと言って、省略できる3秒程度のやり取りでイライラしたりはしない。そうではなくてもっと哲学的な問題である。哲学というか、意識と現実の関係性に対する私なりの洞察なのだ。どういうことかと説明するに、聞かれることがわかっているにも関わらず、聞かれた後にしか答えないという人間の習慣というか、日常の現実に対する態度は恐らくはレジ袋がいるかどうかに限ったことではないと思う。全てに共通していることであろう。ある事が現実に発生することが事前にわかっていても、実際に発生した後でなければ、その事について具体的に思考の焦点を結ぶことができない。どれだけ蓋然性が高くとも可能性の世界は、或いは言葉として発せられる以前の世界は、現実とは認めないというある種の意識状態がそこにはある。たとえば未婚の女性がいるとして、今ここで女の気持ちがどうのこうのという例えを持ち出すと、また女性問題のようになってしまって話がややこしくなるかも知れないが、身近に気になる男がいるとしよう。何となく気にはなるが、自分がその男のことを好きなのかどうかはよくわからない。ただその男が以前から自分に対して好意を抱いているであろうことはわかっていた。そしてある日ついにその男から愛を告白される。女は男から告白されたことによって、それまでの告白以前の現実とは隔絶したように世界が劇的に変化することを知るであろう。そうして初めてその世界の住人となることによって、男を恋人として選んで交際するかどうか、それとも他にも気になる男がいるので態度をはっきり決めずに保留にするかといった思考の対象、つまりは受け入れるべき新しい現実となるのである。このような愛の告白といった話しであれば以前と以後の変化について、ロマンチックであるがゆえに誰もが納得できることであろうと思われる。またそういうことであれば男にとっても女にとっても人生そのものも変える可能性がある重大事なので、意識の上で以前と以後の世界が分断されることはやむを得ないことと考えられる。しかし当たり前のことだが、人生の現実はそのようなロマンチックなことだけで成り立っている訳ではない。私の人生がそうだからという訳ではないが、99.9999%はどうでもいいような無味乾燥の質問や選択によって日々、構築されている。スーパーやコンビニのレジで袋が要るかどうかを聞かれることもその一つであろう。反対に言えば、店員からレジ袋の必要性の有無を聞かれることも哲学的に考察すれば、愛の告白の数十万分の一の衝撃で、それ以前とそれ以後において現実は跳躍するように変化しているのである。変化というか微妙に横にずれているのだ。未だ実現していない可能性の領域に留まっている事象もある意味では無数にある現実の一つである。受け身ではなく積極的に無数にある現実のどれか一つを選別するということは不可避的な運命というよりは、意識と習慣による問題の割合が大きいのではなかろうか。極論して言えば、私のように店員から聞かれる前に袋は要らないとか、下さいという意識と習慣の方が、科学的には何のエビデンスもないが、恐らくは詐欺被害に遭ったり、不慮の交通事故に見舞われる可能性は小さいのである。蓋然性の高いことやそうなることがわかっている事象を漫然と時間の流れに乗せるか、自分の意識の力でコントロールしようとする意志があるかの違いがそこにはある。そういう微妙な差異によって、現実がどこにずれるかの座標が決まると考えられる。現実とはどこまでも冷徹な現実であると同時に、意識によって生み出される幻影でもある。政治のリスク管理に関しても言うまでもないことである。日本の政治がコロナの対応に対して後手で被害を収束させる力を持ち得ていないと批判されているが、なぜ後手になるのかと言えば、100%の確定した現実でなければ、たとえそこに80%の蓋然性(リスク)が存在するとしても、残りの20%に対して、つまりはそうならなかった場合のもう一つの現実に対して、誰かが責任を取らなければならないからである。そしてそれはどれほど高学歴で頭が良くても、官僚や役人にはできない「賭け」なのだ。官僚や役人は本質的にギャンブルをしないし、またできない。だから本来はその不足や間隙を埋めるためにこそ政治家は存在するのだが、日本の政治は今更指摘するまでもないことだが、官僚が作成した原稿を読んでいるだけの有様なので、形式的な政治の外観だけで政治の中身は何もないのである。政治家はたくさんいるし政治資金も膨大に費やされているが実は政治が存在しない。それが日本の実態である。これは菅さんだけでなく安倍さんでも誰でも基本的には同じである。また自民党がどうのというよりも野党などはもっと酷いもので、運営能力以前に政権批判を見ていればわかる通り幼稚そのものである。そもそも政治がないのだから与党も野党もないのだ。
新型コロナやその変異種が拡大する脅威とは、店員が客にレジ袋が必要かどうかを聞くように、そのような脅威や犠牲が世界の存続に必要かどうかを人類に問い掛けている質問であり、答えでもある。