龍のひげのブログ -39ページ目

TVや新聞を信じる人々

世の中にはTVや新聞の言うことをほぼ全面的に信じている人々が一定数、存在する。どれくらいの割合なのかと言えば、調べようがないので正確なところはわからないが、少なく見積もっても6~7割はそうだと思われるので一定数という以上に大多数と言っても過言ではないであろう。特に日本人はその傾向性が高いように見受けられる。但し全面的にと言っても妄信している訳ではない。たまには間違ったり、いい加減な説明をしたり、ヤラセの演出をしたりもするが、それは例外的なことであって基本的には国民全体の福祉や健康などの公共性に則った信頼できる情報源だと見做しているのである。それで私はそのような人々とは精神的な隔絶を強く感じるし、話がかみ合わないというか、コミュニケーションを取ることができない。ということはつまり私は人間社会から隔絶しているとも言い得ることであって、孤独な変わり者という烙印を押されても仕方のない人間なのかも知れないが、生きて働いている限りは、多くの他者と交わり、意思の疎通も図っていかなければならないので、島流しにならないように自分の本性や本音を隠している場合がほとんどである。それでも生きていけないことはないし、慣れてしまえばさほど苦痛でもない。人生とは、この世に生きることはそんなものだと達観してしまえば、あとは毎日が単に機械的に同じことの繰り返しである。人生の大部分は退屈なルーチンワークで構成されているのだ。それでもである。生きているとその退屈なルーチンワークの中で何かの病のように、本当の自分をさらけ出し、言ってはいけない(とされている)本心を言わずにおれないような瞬間が落雷のように我が心を貫くのである。言わなくてもいいようなことを、言わない方が無難なことを、私は自らの良心に照らして、愚かにも言った方が相手のためであり、社会のためであり、人類のためだなどと考えてしまって、もうどうにでもなれと、もうどうにも止まらないと言ってしまうのである。大体は酒の席が多いが、それで喧嘩になったり、いやな思いをしたこともこれまでに何度かある。別にわかってもらおうとか、認めてもらおうと思っているわけではない。何の打算も計算もない。単に言わずにおれないのである。しかし禁断の果実を食するように、その誘惑に負けて言ってしまえば、その瞬間に私は人間ではなくなってしまうのだ。人間社会から追放されなければならないのである。この恐ろしさと寂しさをわかってもらえるであろうか。文明社会の中で人間が人間として生きていくためには、TVや新聞が唱える正義や倫理を受け入れなければならないのだ。大多数の人々はTVや新聞は社会や人類の進歩、向上に役立つような情報を提供していて、それに反するような企みや政治の動きに対してはスクープとして取り上げ糾弾してくれるはずだと信じ切っている。そのように考えている人々に実際にはそうではないことを説明することはもはや不可能である。それに何で私が不快な思いをしてまで、人間世界を跳躍するように、そんな役割を背負わなければならないのか。馬鹿げている。誰もがそれぞれ自分が信じるところを信じて生きていくしかないであろう。それがどのような結果を自らにもたらそうとも自己責任である。冷たく聞こえるかも知れないが、善意や親切で、他者の考えの過ちを正してあげようなどと思っても、それは当人がそう思えるようにならなければ、その地点に達していなければ、その風景が見える高さにいなければ無意味である。他者の歩む道のりを変えてはいけないし、変える権利は私にはない。それはわかっているけれどもあまりにもひどい状況を目の当たりにすると本当に心配になってくるのである。このままでいいのかと。TVや新聞を信じている人々に、それらに共通する論調と異なることを言うと、そんな「非科学的」なことは受け入れられないなどと言われて、返す言葉を失ってしまうものである。そういう人々はTVや新聞は科学を代表していると信じ込んでいるのである。或いはTVや新聞が、いくらなんでもそこまでの嘘をつくはずがないなどと言われることもある。正直に言って、こういうことを言ってはいけないのかも知れないが、そのようなときには私は何かの動物と人間の言語を使って会話しているような気すらしてくるのである。人間とは一体、何なのだろうか。私は何もTVや新聞の存在意義を否定している訳ではない。TVもたまには見ているし、新聞も忙しくて見る間もなく溜まっていく一方であるが、二紙も取っている。今、世界で何が起きているのか、どのような状況になっているのかを知るための情報源としてTVや新聞は不可欠だとは思う。しかし一人の人間が人生において重大な選択をするための指針になるかと言えば、真逆の作用をするケースの方が圧倒的に多いと思われる。TVや新聞の情報とは、質的には洪水のように人々の冷静で正確な判断を狂わせて、一気に押し流そうとする傾向を持っている。ある意味では本質的に全体主義なのだ。そこでその流れの圧に負けないように踏ん張って、自分の頭と魂で真理と真実を見極めようと努力することが本当の知性であり、人間らしさなのではないのか。何か文句があるか。

そういうことで私はコロナのワクチンは打たない。現在、大学生の息子にも本人はどう言うかはわからないが(おそらくは私の忠告に従うと思うが)、打たないように勧めるつもりだ。去年、介護施設に入所した父親は、ワクチンを打つかどうかをヘルパーが私に聞いてきたが、年齢も年齢なので本人の意思に任せてくださいと返答し、恐らくはもう1回は打っているはずである。しかし現在、同居している母には、体調が悪く一日中、家で寝ている状態でまったく外出しないこともあって、つまり感染リスクはほぼ0なので、打たない方がいいと私は言っているし、本人もそうすると言っている。私の妹はTVや新聞を全面的に信じているので言っても無駄である。妹の二人の子供(姪)もまだ若いので打って欲しくはないし、妹を通じてそのようにも伝えたが、親本人がそんな感じなので仕方ないし、そこまで面倒は見切れない。喧嘩になるだけである。

まあ、ひとそれぞれ勝手にすればよいのであろうが、TVや新聞は毎日のように、1万人に1人か4人かアナフィラキシーや血栓の症状を繰り返すだけで、遺伝子ワクチンそのものの特殊性や将来的な危険性については、徹底して判で押したようにスルーしているではないか。そんなものを信じろと言う方が土台無理である。ろくに治験もなされていないようなものを。5年後や10年後に何かの副作用が出てきたとしても国は絶対に因果関係を認めないであろうし、泣き寝入りするしかないことは目に見えているではないか。仮に集団訴訟のような動きが出てきたとしても、薬害エイズのようにその闘いだけで生きるエネルギーの全てを吸い取られてしまうであろうし、そもそも因果関係を立証することは不可能である。まあ、そういうことだ。TVや新聞の今の報道を見ていると本当に背筋が凍るような恐怖を感じる。マスコミは悪魔なのであろうか。

もはやどうでもよいこと

直前まで唯識思想について、さらに踏み込んで書くつもりであったが、どういう訳か突如として鬱陶しくなってきたので、恐らくは私の精神内部には人間(世俗)離れし過ぎないように自己制御するバランス調整機能が常に稼働しているためだと推察されるが、と言っても何も世俗を馬鹿にしたり、見下して言っているのではなくて、要するに私は私の「欠落」を絶えず補完する必要性に迫られながら生きているのだとご理解いただければ幸いであると、さて、一体私は何が言いたいのであろう。忙しすぎて(最近やっと落ち着いてきたが)頭がおかしくなってきたのであろうか。

ということで今回、話題にすることは、何一つとして悪気も悪意も持ち合わせているものではなく、ふざけているのではないことも当然であるが、真面目にタレントの熊田曜子さんの夫が熊田さんに対するDV容疑で逮捕、釈放された件について感想を述べたい。私が言いたいことはただ一点であって、有名人の女性が夫のことをTVやSNSなどでネタにしたり、ちょっとした愚痴を言ったりする場合、仮に多少の喧嘩や気持ちの擦れ違いがあっても、その土台部分に夫婦間の揺るぎない結びつきや信頼関係が存在するのであれば、たとえば「ミーキティー!」みたいなケースであれば、見たり読んだりなどでその情報を受け取っている我々一般人も、そこに安心感や微笑ましさを感じられるが、そうでないところが僅かでもあるのであれば精神的な不安定さを露呈させているかの印象を与えてしまうし、また何一つ反論できないで社会的に負のイメージが蓄積されたり、またタレントの発信力や影響力の大きさゆえに振り回される夫の立場の弱さや気持ちを考えると、こういう結果に陥ったことも暴力を振るった方が一方的に悪いと言えばそれまでであるが、川の流れのようなある種の必然性が存在するような気もする。別に今更、女がどうだとか、男がこうあるべきだなどというようなくだらない議論などしたくもないが、仮に男女が反対のケースを想定して、男のタレントがTV番組やSNSなどで妻への不平不満やマイナスイメージになるようなことを一言でも言ってしまえば、その時点でアウトでしょう。もちろん男はそういうことを言ってはいけないなどという法律はないが、多くの人はわかっていないが、法律よりも社会通念の方が精神を捕縛する力は圧倒的に強いのである。男が妻の悪口や、妻への愚痴を口にした途端に商品価値が暴落することをわかっているがゆえに言いたくとも言えないのである。この男女間の非対称性は何なのだろうか。私は何も女性が優遇され過ぎて、男女平等に反しているなどと言いたい訳ではない。

幸いにして私はそこまでの馬鹿ではない。基本的に、制度上は今の時代は男女は良くも悪くも平等であってそこに非対称性は存在しないと思う。では何が一体、見掛け上の非対称性をもたらしているのかと言えば、非常に手厳しいことを言うが、その時代の流れについていけないタレントの感覚だと思う。ついていけないから淘汰されるのである。もちろん時代の流れについていくか拒否するかはその人の勝手というか自由である。しかしそれは私のような一般人が許される選択肢であって、タレントはそもそもそういう目的で作られた偶像なのであるから、そういうことを頭ではなくて皮膚感覚で捉える能力がなければ淘汰されるのもやむを得ないという気がする。わかりやすく言えば、今の時代は、時代が正しいかどうかは別にして、女も従来の女特有の共感感覚で男への不平不満や愚痴を口にしていても決して得にはならないというか、一時的に目先の理解とカタルシスは得られるかも知れないが、結局は家庭不和であるとか、争いにしかなり得ないので、女も男同様にパートナーへの不満をネタにしたり、多くの人の注目や共感を集める手段として利用しない方が賢いのだと思う。人によっては、そういうことを言う男は、女の気持ちを受け止めることの出来ない「器」の小さい情けない人間だと蔑むのであろう。どこかの星から地球にやってきた何とかりんみたいな。果たしてどうなのだろうか。私に言わせれば、そういう意味で言えば少なくとも地球上には器の大きい男など一人もいないような気がする。器が小さい男と見られたくないための見栄とやせ我慢しかそこにはないのではないのか。女は得てして男の人格攻撃をする最終手段として、核ミサイル発射のスイッチボタンを押すように器が小さいという言葉を投げつけてくるが、それは伝統的に女は、器の大小で評価される尺度や視点が社会にほとんど存在しない安全地帯にいる安心感から発せられる言葉ではないのか。反対に言えば、器の大小の概念は男を操作する手段として、それは女から男に対してだけでなく、男と男の場合でも言えることであろうが、これ以上に効果的なものはないと言えるほどの力を有するのではなかろうか。よく言われるように男は単純な生き物なのだと思う。身近な女から下される器の小さな男という評価の視線や言葉に逆上して我を失ったり、よく分からない国家間の対立で兵士として戦場に赴き命を投げ出すことが出来るのも、大小はともかく立派な器の持ち主であるという自己イメージを死の直前まで保つことができるからなのではなかろうか。

何の話しだったか。もはや、どうでもいいことである。勝手にしてくれ。でもこういう話をしていると、たとえ日本中の女性を敵に回そうとも、人間(世俗)社会にうまく溶け込めたような気がしてきて、ちょっとだけ嬉しい。

人生と幸福への呪縛について

生きることは、恐ろしい。少なくとも楽しくはない。自慢できることではないが、自慢できないだけでなく、告白するのはとても恥ずかしいことだが、私はこの世に58年近くも生きていながら、心の底から生きていることが楽しいとか、幸福だと感じたことが一度もないような気がする。笑ったことすらない。私こそが正真正銘の笑わない男だ。それでも何とか、這いつくばるようにして生き長らえている。生きるということの行為や思考の核に恐怖があると、どうしても人生は喜びや幸福にはなり得ないのである。不幸であるとも言えよう。しかし仮に不幸であったとしても、いや不幸なのであろうが、たとえそういう人生を誇りだとは思えなくて、また精神的な苦しみや虚しさが他人よりも濃密であったとしても、私は自分が価値の低い人生を生きているとは考えないし、また価値の低い人間だとも思わない。今、現在そう思わないだけではなく、昔からそうだったような気がする。そしてそれは精神的な強さや弱さとか、自信の有無や、自己肯定感の尺度で計れることではないようにも思う。そもそも人生が楽しくて、幸福でなければならないなどと、一体誰が決めたのであろうか。幸福は善で、不幸は悪なのだろうか。人生は生きることの歓喜に包まれていなければならないものなのか。個人の価値観の相違に収束できることでないようにも思える。私のように生きることの中心に何らかの漠とした恐怖や安らげない緊張があって、それが不幸を生み出している原因だとの認識を持ち、その恐怖や緊張の正体が何なのかを自分なりの思考で追及し、瞑想や時には筋トレで克服しようと努力したり、或いは個人の幸福感の背景となっている社会や国家の仕組みを解明してやろうと足掻いてきたような人生が世間一般的にどのような印象を持たれるのかはよくわからない。しかしそういう人生の基本的なベクトルを一旦、受け入れてしまえば、その方向性の努力に後付けであっても自らの人生の意味や価値が作り出されていくのだと思う。理屈っぽく聞こえるかも知れないが、不幸とは世間一般的な既成観念で邪悪視しているからこそ不幸なのであって、その不幸を受け入れてしまえば、人生は楽しくて幸福でなければならないという強迫観念的な呪縛から解き放たれるがゆえに、視野の開けた自由が生まれて、不幸はもはやそれまでの不幸ではなくなってしまうものである。

仮に私が自分の不幸な魂を救ってもらおうと考えたり、人生を変える力を与えてもらおうとして、霊能力者や教祖に頼ったとすれば、あなたの人生の悩みや苦しみ、不幸の根本的な原因は前世からの悪業によるもので、前世でたくさんの人を殺したり、苦しめてきたことの報いだなどと言われたり、或いは前世そのものがない未熟な魂だからだなどと言われるのであろう。そして実際にそうなのかも知れないし、そうでないのかも知れない。そしてその状態から救済されるためには、これこれこのような修行をして、神仏を祀ったり、教団に入信し財産を寄進すべきだと勧められるのであろう。だが私に言わせれば、どの霊能力者や宗教がインチキで、どれが本物なのかはどうでもいいことである。唯識的な視点で見れば、我々が見ているこの世界の森羅万象は自分の意識が生み出している映像なのである。他者というものも実際には存在しないのである。ゆえに霊能力者や教祖も自分の意識が映し出している映像に過ぎない。

よって自分の意識が変われば霊能力者や教祖の言葉もそれに応じて変わるであろうし、そのような救済者の存在が不要だということになれば、インドのサイババが起こした奇跡のように目の前から忽然と消滅してしまうのであろう。そういうものなのだと思う。反対に自分という存在も霊能力者や教祖から見れば、意識が生み出す夢、幻のような映像である。要するに突き詰めれば、世界の実相とは実体のある唯一の真実などは何もなくて、自分が主体的に生み出す映像と、他者が生み出す映像のどちらを採用するかということで、それは双方の関係性の中での信念の強さなどが反映せれてはいても正邪や善悪の問題ではないと私は思う。信念が強くて波長が高い方がよりクリアな映像を生み出すのでそちらの方に価値や真実味があるように錯覚するだけであって、結局、突き詰めれば現実とは実体のない夢のような映像であることにおいては同じなのだと思う。わかりやすく言えば他者の夢の中で生きるか、自分の夢の波長を強めていくかのどちらかなのであろうと思う。究極的に他者は実在しなくても、幻の他者が紡ぐ映像を自分のものであるかのように錯覚して選択した現実を生きるということも意識の働きとして存在するのではないかと私は考える。唯識史観と他者の実在ということについては、私にとっては永遠のテーマのようなもので、まだしっくりとした理解が及ばないことも多いが、現時点ではそのように考えている。哲学者のマルティン・ブーバーの著書である『我と汝』を繰り返し読んで思索していた時期もあったが、私は他者の実在性を否定することが絶対的な悪であるという見解は、政治的には正しくても、哲学的に正しくて価値がある思想かどうかは疑問である。むしろ三島由紀夫が自決する直前に書いた輪廻転生四部作の最終作である『天人五衰』における唯識史観の衝撃的な結末の方が一般的には難解であるとされているが、理解できるような気がする。いずれにしても私にとって明白なことは、実在するかどうかはともかくも、他者の現実の中で生きている限り、そこには幸福という幻想はあっても自由は存在しないのである。他者の実在性を観念的に否定して、人生に愛を得られるかどうかは別問題であるにせよ。