コロナワクチンについての疑問
正直に言って、コロナワクチンへの疑惑について核心的だと思える内容、疑問を述べることには、これまでかなりのためらいや逡巡があったが、それはもう既に接種している人が相当数、存在するということと、あまり世間をざわつかせるようなことを言って、社会全体が混乱したり、パニックになることは避けた方が良いのではないかと言う自分なりの抑止が働いていたからでもあるが、よくよく考えれば、何でそこまで私が考慮しなければならないのかと、国やマスコミがここまで国民を馬鹿にしたような情報操作や誘導をするのであれば、そういう考えはやはり間違えているのではないか、国民全体の安全、利益を代表して不審に思えることは声を上げていくべきではないかと考えるに至った次第である。先ず私がそう決断せざるを得なくなった、許し難い情報操作、誘導についてであるが、ワクチン接種直後に既に500名以上の人が亡くなっていて、厚労省は関連性が否定できないものはその中の1例だとしていることである。その1例についても関連があると認めている訳ではない。否定できない、可能性はあるがよくわからないと、ということでその他の五百数十例については明確に関連性、因果関係を否定しているということだ。以前からTV番組で、国民にワクチン接種を勧めるために、いかにも程度の低い報道キャスターがワクチン接種直後の死亡数について、日常的に発生している自然死や突然死で説明できることでワクチンとは関連がないかのような誘導を行ってきたものであるが、知的レベルの低い大衆向けの娯楽情報番組であるならともかくも、国がそこまであからさまに統計データの恣意的な解釈を国民に押し付けるのであれば、到底、看過できるものではない。国民を馬鹿にしているとしか言えないものであるからだ。自然死について言えば、死にかけている人間はワクチンなど打ったりはしない。それは入院している人だけではない。個人的な例で言えば、私の母も80代後半であるが、今から1年ほど前は体調が極めて悪く、寝ていても明け方になると呼吸困難になって救急車を呼んでくれというようなことが何度となくあった。またその時期に、片方の瞼が下りたままになっていて、それを上げることが出来ない状態にもなった。それで大きな病院に連れて行って(連れて行ったのは私ではなく、私の妹だが)精密検査をしてもどこも異常はないということである。病院というところは、政治家やタレントなら別かも知れないが、病名がない状態では入院させてくれないのである。同居している身内の私にとって見れば、本人はもういつ死んでもおかしくはないような苦しさを訴え続けるので、入院させてくれる方が助かるのだが、それが出来ないので自宅療養ということである。因みにその当時は、同じく同居していた父も、元々足が悪かったのだが、その症状が悪化してきて日常生活が困難になり、階段から落ちたり、前立腺肥大で何度、私がやめるように注意しても本人は関係ないと言って酒を飲み続けるので、それが原因で排尿できなくなり、救急車を何度となく要請したりと本当に大変であった。自宅に隣接した会社で私は毎日、夜11時ごろまで仕事をしていたので、その時に疲労とストレスでほぼ完治していたアトピーをぶり返してしまい、それが今も続いている。必死になって一旦は治して、2019年末までは登山やランニングに励んでいたというのに。元々は私のそのアトピーも薬害が原因なのである。それで結局、父は要介護認定3か4ぐらいで昨年に介護施設に入所し、母は要支援か要介護か忘れたけれど、相変わらずほぼ家で一日中寝たきりであるが、幸いにして容態は回復してきて、瞼の開閉も出来るようになり、食欲も出てきていつ死んでもおかしくないというようなことは言わなくなった。日本の病院は、病名が在ろうと、無かろうと高齢者を長期間、入院させてはくれない。入院しても1~2か月で出されてしまうのである。何が言いたいのかと言えば、そういうことで日本では自然死を待つような状態で家族と一緒に自宅で住んでいる高齢者の数がかなりたくさん存在していると思われるが、そういう人は私の母がそうであるようにワクチンを打ったりはしない。一日中家にいて、息子である私やたまにやってくる介護ヘルパーとしか会うことがないのに、そもそも打つ必要がない。そういえば今日、妹が私に電話してきて、母の体の調子を聞いてから、私を責めて、母がワクチンを打っていない(私が打たせていない)ので、うつしてはいけないから会いに行けないと文句を言った。因みに妹は2回接種を済ませている。それで私が、500人も死んでいるようなものを打たせることは出来ないと言うと、妹はちょっと驚いて、えぇーそんなに死んでるの、でもそれ、全世界でやろと言うので笑ってしまった。単に妹が無知ということだけではなくて、その妹の反応がまさに、日本のワクチン接種者全体の意識や認識度合いを代表しているのだと思われる。マスコミがそういう情報をあまり出さないし、出したとしても強調しないからほとんどの人は知らないか、大したことだとは考えていないのである。次に突然死についてであるが、突然死は高齢者だけでなくて心臓発作などで40代ぐらいの特に男性などに多く起こる現象だと思われる。その突然死が一日にどのくらいの数で発生しているのかわからないが、その死亡パターンがワクチン接種直後の死亡数にカウントされているとする説明は、よく考えればわかることだがおかしい。統計上の数値だけ見ればそのような解釈も成り立つのかも知れないが、それは生活実態に即していると言えるのかということである。身寄りのない一人暮らしのケースであれば容態の変化を目撃している者がいないので突然死である可能性はあるであろう。しかし配偶者や子供などの近親者が存在する場合、果たして心臓発作や心筋梗塞、脳溢血などの突然死とワクチン接種が原因としか考えられない容態の変化の違いが、普通に考えればわからない訳がないものである。ワクチン接種が原因である場合はワクチン接種と死亡の間に数時間であれ数日であってもプロセスがある。接種前は元気であったのが、接種直後の副反応中や副反応が収まった後に徐々に容態が悪くなっていって危篤状態に陥り死亡するというケースを突然死とするには無理がある。近くで見ている者にはわかるはずである。心臓発作などの突然死にはそういう段階的なプロセスがない。また傍目には一見、突然死と見えるような心筋梗塞や脳溢血にもワクチン接種による血栓の可能性も存在するのではないのか。いずれにせよ突然死だからワクチンとは関係ないとする主張は暴論である。ワクチン接種と死亡情報がどのように紐付けられてデータ収集されているのかということもあるが、普通に考えれば医師や遺族がどこかの窓口に報告しているのであろう。遺族は死亡給付金が貰えるからと言う理由でワクチンが死亡原因であると主張する動機は確かにあるとは言えるが、それが現在の状況を見て妥当な見方だと言えるのかということである。医師は死亡診断書に何らかの死亡原因を書くのであろうが、どんなに優秀な医師であってもそれがワクチンとの因果関係があるのかないのかなどということはわからないのである。遺族の話しを聞いて、そういう経過であればおそらくはワクチンが原因なのだろうと思うぐらいのことである。要するに厚労省の発表している500名もの死者数の中で関連性が否定できないケースは1例だとする見解は、自然死も突然死も何の関係もなくて、おそらくは大半がワクチンが原因なのであろうと推察されるが、あくまでも「政治判断」で1例だけに可能性を持たせているものである。本当は0だと言いたいところなのであろうが、それではちょっと信憑性が薄れるかも知れないとの判断でそうしているのだ。国民はもっと政治や官僚の思考回路がどういうものかを学習する必要性があると思われる。それからTVキャスターやTVに出演している御用学者の意識レベルというか精神性が低過ぎるように感じられる。
では長くなったが、これから本題に入る。コロナワクチンについての根本的な疑問を述べる。きわめて単純な疑問だがこれがすべての不信の始まりである。陰謀論とは何の関係もない。一市民としての至って素朴な疑問である。政治やマスコミは自分たちに都合の悪い国民の疑問、質問は無視する傾向があるので恐らく無視されるであろうが、その疑問を多くの人に共有してもらいたいと思う。そしてその第一の疑問が解消されないのであれば、より核心的な第二の疑問に入っていくことになる。では聞くが、コロナワクチンはこれほど爆発的に世界中に感染拡大して、膨大な数の感染者数が発生しているにも関わらず、どうして従来の鶏卵法による生ワクチンを弱毒化したものが採用されずに、m-RNAなどという人類史上初めて試みられる遺伝子ワクチンになったのか。コスト的なことはわからないが、これまでの実績や治験データの豊富さなどを考えれば、安全性や信頼性から誰が考えても不自然ではないか。どうしてその基本的な説明や質問がこれまでなされてこなかったのかも不可解である。仮に新型コロナのワクチンが技術的にこれまでのワクチンで対応することが不可能であるならその理由は何なのか。または遺伝子ワクチンでなければならない理由があるのだとすればなぜなのかを答えていただきたい。ファイザーもモデルナも作っているのはアメリカの企業であるが、それを承認しているのは日本の厚労省であり、国民に推奨しているのは日本の政治やマスコミなのだから、その三機関には国民に対する説明責任があるはずである。(吉川 玲)
エビデンスと陰謀論の用法
それで非常に気が重いのであるが、コロナのワクチンについて、核心的な疑問について言及しないわけにはいかないようだ。もう既に接種している人もいるので、本当はその内容について触れたくはないし、憚られるのでもあるが、接種率を高めるためにワクチンパスポートの必要性について主張する人が多くなってきているように見受けられるのでやむを得ない。厚労省が因果関係は不明だと言っても、ワクチン接種直後に数百人レベルの人間が亡くなっている現状があるにも関わらず、陰性証明書ではなくてワクチンパスポートの必要性を強調している時点で隠然たる闇の勢力の動きが感じられるものである。それから統計データのいい加減さについても言わざるを得ないが、国は補償をしたくないのでワクチン接種と死亡の因果関係を不明だとして認めていないものであるが、それを言うのであればコロナの陽性者数と重症者数や死者数の因果関係の方がより不明ではないのか。常識的に考えれば、コロナが陰性で重傷でもない人間がワクチン接種直後に亡くなることの方が、無症状者や軽症者が多いことが特徴のコロナ陽性者の人々が重症になったり死亡するケースに、より他の基礎疾患や様々な要因が関連していると考えるのが自然ではないのか。政府や厚労省の用いるデータというものは、そもそもご都合主義で信用できないのである。
これから述べることに疑問に対して、返ってくる政治やマスコミの反応はある程度は予想できるので先に2点ほど説明しておくことにする。まずは「エビデンス」という言葉の用法である。これは以前から感じていたことであるが、一つ覚えのようにエビデンス、エビデンスと耳障りなほどに多用されて鬱陶しいというか、正しい用法がわかっていないのではないかという気がする。まず学術的な問題として定説とするのにしっかりしたエビデンスが必要というのは当然であり基本的なことであろう。しかし今のコロナのように現在進行中で、よくわからないことが多い問題については定説が確立されるに至っていないので、エビデンスとは何らかのリスクを負わせて、行為の決定をさせる側が出来る限り誠実に示す義務が課せられるものであって、その反対ではないということである。要するにワクチンを国民に接種させようとする政府や厚労省が国民に対して一方的にエビデンスを出し、説明し続けるのが筋道であって、何でそれに対して疑問や不信を持つ我々国民が本能的な不安についてエビデンスや根拠を示す必要性があるのかということである。情報弱者の国民に対して、情報強者の政府やマスコミが否定のエビデンスがないからという理由で不信や不安を持たせないようにするばかりか、不安を煽っているなどと批判することが土台、間違っているのであって、それは転倒した権利の悪用に過ぎない。仮に私があなたに万病に効く何かの画期的な治療法を見つけたとして、その利用を推奨するのであれば、エビデンスを示さなければならないのは私であって、あなたでなないということである。あなたがその治療法に対して疑問や不安の声を具体的に発した時に、私が他の人々はそういう風には考えずに利用して実際に効果が得られているのであるから、それを否定する風説の流布をするのであれば、それを明確に証明するエビデンスを示せと、それが出来ないのであれば、そういうことは一切口にするなと言われれば、その「エビデンス」の用法は間違っていると考えるのではないのか。それと同じである。もちろん私には何の権威性も資格もないのだから疑問を持たれて当然であるということはできるが、それは本質的な問題ではないし、それを言うのであればそれまでのことである。ならば国やマスコミの言うことには権威があるのだから、否定は一切、許さないと言っているのと同義である。結局はそこに行き着く問題なのである。
それからこれも重要なことであるが、言葉の定義にもよるが、私は「陰謀論者」であるかも知れないが、「陰謀論信奉者」ではない。政府やマスコミが、躍起になって言論から排除しようとしているのは、陰謀論を容易に信じる信奉者の声の大きさや拡大であって、陰謀論そのものに正面から対峙している訳ではない。本当は無視したいので無視したり、揶揄する程度であるのが、それで収まりがつかなくなってくると、批判したり強引に抑え込もうとする動きになってくる。そういうことを今の政治や河野大臣、マスコミなどが大衆に対して行っている。それでは「陰謀」とは字義的にどういう意味合いなのか、そしてどういう風に社会的に用いられているのかを考えてみることにする。広辞苑的には「密かに企むはかりごと」ということであって、陰謀という言葉そのものには真実ではない、とかデマや価値のない風説という意味合いはもともとないということは認識しておく必要がある。そういうことは日本人にとっては初歩的な国語力の問題であって、それを説明しなければならないということが恥ずかしいというか憂慮すべきことである。では政治やマスコミは、「陰謀論」という言葉をどういう用法で使っているのかと言えば、政治や行政、マスコミに共有されている統一された見解や物の見方、解釈に真っ向から対立する論説を取るに足りない価値の低いものであったり、或いは有害な風説として抑制の対象としているということであって、それ以上の意味は何もないのである。それならば政治やマスコミに共有された物の見方や見解は常に正しくて、国民の利益や健康、安全に資するものかということである。そういう問題提起がなされざるを得ないことは誰にも否定できないであろう。皆さんはどう思われるであろうか。私に言わせれば、日々、TVや新聞で流されている政治やマスコミに共有された見解というものは物事の一面の真理であって、それで世界の趨勢や現象が説明し切れるものであるならば、世界各国のたとえばCIAとかSVRやMI6などの諜報機関は必要ないのである。それが資源問題や領土問題、紛争における地域の安全保障や戦争の危機、或いは外交官がハニートラップに引っかかって国家機密を漏洩し、自殺に追い込まれたというようなことは、我々の国民生活には直接的な影響はないので放っておけばよいということになるかも知れない。しかしコロナのような疫病やワクチンへの見方は国民の生命や健康に直結することなので、ある意味では戦争開戦の決断と同様の重大問題であって、陰謀論的だからという理由で、否定されたり批判される謂れは何もないということである。それは政治やマスコミの傲慢さや民主主義の軽視が映し出している現象に過ぎない。私がこれから述べることは、何かの陰謀論の本を読んで感化を受けて、引用したり、焼き直したものではない。身の回りの新聞、TV、本、ネット情報などを含め、日頃から自分自身で感じたり、疑問を抱いたものを総合して、理性的に追求し続けた蓄積の結果、たどり着いた一つの見解であったり、疑惑であるということである。陰謀論的な本を読むこともあるが、それはそこに答えを見出したり、理論武装の知識を吸収しようとするためではなくて、単に自分が導き出した答えや推測と比較対照するためである。その結果、類似点が多くて驚くことも多いが、基本的には私の言っていることは、私のオリジナルのものなのである。そしてそれが、政治やマスコミが共有していて、国民全体を抱え込もうとしている価値体系や観念、考え方との距離感があることが多いので、そういう意味合いの定義では、私は陰謀論者であって、陰謀論信奉者ではないということになる。しかし何も私は天邪鬼に無理をしてそうなっているのではない。私にとってみれば政府の見解であろうが、マスコミの報道であろうが、厚労省のホームページに書いてあることであっても、或いは陰謀論者が数々の著作で主張している内容であっても、どれを重視して、無条件に信用し、どれを端から信用性の低いインチキやデマとして拒絶、却下するということではなくて、一旦は自分のフィルターをろ過させて、しっくりいくものと腑に落ちないものを選別しているのであって、全ての情報は出発点においては、夜空に見える星々のように観察する自分自身と同位置の距離感と同程度の価値を有しているということである。政治やマスコミのしていることは、それを権力に都合のいいように勝手に色分けをして、特定の色を受け入れて、特定の色は排除しろと国民に強制しているものである。何でそのような傲岸不遜な要求を自由主義国家であるはずの日本において忍従しなければならないのか。特に政治家は選挙で国民に選ばれた存在であろう。説明責任すら果たさずして、特権階級の貴族のように振舞うのはやめていただきたいものだ。それから付け加えればネットに投稿されているコメントなども、もちろん様々な意見があることは当然だが、純粋に市民感覚が反映されていると見ることはあまりに純朴すぎて弊害があるように思われる。これはもう大分、前から感じていたことであるが、政治的な工作活動とでも言うか、意図的な世論形成が、誰がしているのかとなるとはっきりとはわからないが、おそらくは政府系の職員が職務の一環として書き込んでいる内容がかなり多いように見受けられる。それで上の権威的な政治やマスコミ報道と、下の庶民的なネットコメントで、サンドイッチのように国民意識を逃げ場のないように挟み込んで、閉じ込められているかのような窮屈さを私はいつも感じているのだが、皆さんはそういう印象を持ったことはないのであろうか。そういうことを何一つとして感じないような鈍感さがあれば、私ももっと幸福な人生が送れたのになどと思ったりもする。さてそれでは前置きが長くなったが、そういうことを前提に肝心のコロナワクチンへの疑問について言及しようと思うのだが、あまり長文になると読む方も疲れるであろうし、何よりもその内容が単純にしてあまりにも核心を突き過ぎているように思えて、正直な所、今でも少し迷いがあるということと、それがもたらす危険性についてどうなのかと、まさかいきなり複数の官憲がやってきて、戦前の大杉栄のように投獄され、棍棒で思う存分、殴られたり、首を絞められて殺されるようなことはないとは思うが、今の政治とマスコミの何かしら血走ったような様子を見ていると、万に一ぐらいはそれに似たような状況もあり得るのではないかとふと不安がよぎったりもする。日本は段々と、特攻隊の突撃のような恐ろしい状況に突入しつつあるように感じられるのは、果たして私だけなのか。そういうことで今一度、時間を置いて、冷静に政治や報道の動向を見極めつつ、覚悟を決めてそれについて述べたいと思う。(吉川 玲)
任意の意義について
それが輝かしいものであれ、薄暗く困難に満ちたものであっても、私は若者には10代や20代の年齢の時間感覚からすれば、永遠に続くかと思われるような未来というものがあるので、コロナのワクチンを打って欲しくないというのが本音である。20歳の息子に打たないように言って、そうさせたのと同様に全ての若者にそう伝えたい。若者であっても密や複数人での会食、大声での会話を避けて、もちろん常時、マスクは着用して、大人しく真面目に生活していれば、コロナには罹らないであろうということが、私の実感である。何で政府やマスコミは、得体の知れない不気味なワクチンを若者や子供達にまで接種させることにそこまで執拗に拘るのであろうか。そうは言っても、当然最終的には自分自身の判断なので、国やマスコミの言うことを信用するということであれば、第三者がどうのこうのと言うことは出来ないし、それ以上に議論や討論をしても無意味である。極論すれば嘘を信じたり、騙される主体的な意思というものも自由主義社会では尊重されるべきだからである。そういうことを前提にして言うのであるが、「任意」という言葉は信用ならない。どうして政府や行政は、一方で任意を強調しながら、もう一方でワクチン接種の国民への浸透を、全マスコミを一体的に巻き込んだ強力なプロパガンダで推し進めようとするのであろうか。好意的に解釈すれば、個々人の打たないという意思をも尊重しながら、全体として集団免疫を獲得しようと努力していると見ることは出来るであろうし、実際にほとんどの人はそう考えているのだと思われる。しかし、果たして本当にそうであろうか。まず初めにはっきりさせておかなければならないことは、これは非常に重要な認識事項であるが、任意であれ、強制であれ、国民がワクチンを接種して生じる可能性のある様々な症状や重篤な副作用については、一時的な副反応などどうでもよいが、国の責任であるということである。因果関係が認められるかどうかは別の問題である。現実に接種直後に既に200人もの人間が亡くなっていて、厚労省は関係性は不明だと言っているのであるから数年後に生じた症状など認められるはずがないものであることは明白だが、それでも筋道として論理的に、国の責任が端から免除されているものでないことは当然である。何が言いたいのかと言えば、「任意」と言っても、政府や厚労省と国民は対等の立場ではないということだ。政府や厚労省は情報強者であり、国民は情報弱者である。その強者と弱者の力の差は天と地以上にかけ離れたものであると言えるであろう。医者でもなければ、薬剤師でもない一般の国民にそもそもワクチンのリスクなど判断できる訳がないのである。ましてやm-RNAという人類に初めて使用される遺伝子ワクチンについて、通り一遍の説明をされても素人が深いところまで正しく理解できるものでもあるまいし、だからこそ国民は政治やマスコミの推奨に従わざるを得ないということにもなるのだが、そこにおいて「任意」というワードが絶えず強調されていることがおかしいというか、怪しいとは思えないのであろうか。おかしかろうが、怪しかろうが政府やマスコミの説明は全て鵜呑みに受け入れます、と言うのであれば、そういう人々には何を言っても同じである。飼い主の命令に忠実に従う犬や猫と本質的に何ら変わらないからである。大衆の一定割合はそういう無思考、無批判によって形成されているのであろうが、少しでも人間的な思考力がある人々は、情報強者であるはずの政府やマスコミの説明に「誠実性」が存在するかどうかを見極めようとしようとするはずである。我々人間は、経験的に誠実性の欠ける誘導や推奨は、何かの別の目的のための利用であるか、詐欺的なものであることを知っているからである。そういう観点から考えるに政府やマスコミのコロナワクチンの説明は誠実であると言えるのかということである。これまで終始一貫してm-RNAワクチンを従来の季節性インフルエンザワクチンと同様に「ワクチン」という括りでしか用いてこなかったということは否定できない事実である。そういう不誠実な姿勢によって、国民の間に本能的な不安や不信の声が高まり始めると、何を血迷ったのか、河野大臣は権力を嵩にしてそれらをデマだと攻撃し始めたものである。デマも何もかつての、8年ほど前の子宮頸がんワクチンのように接種開始直後に、国の姿勢が一転して変更し、接種推奨が中止されるという事実も実際にあるのだから、そこは国民の不信や不安の声に寄り添って、それらを取り除くための丁寧な説明が本来はなされなければならないはずである。出来るのであればである。普通に考えればそれが、出来ないからこそ「デマだ」と情報弱者の国民を一方的に攻撃しているのであって、やはり政府や厚労省は国民に何かを隠して嘘をついていると見做されても仕方ないような状態が厳然として存在するということである。さらに決定的なことを付け加えれば、6月24日に国内の医師390人と地方議員60人の同意によるワクチン接種中止を求める嘆願書が厚生労働省に提出された事実やその際に行われた記者会見が、まるで機密文書の黒塗りのように全く報道されていないということである。よってほとんどの人は、そういうことがあったということを知らないであろう。これはコロナの世界的感染拡大以上の異常事態である。ユーチューブですら動画の公開を拒否している。狂っているとしか言えない。ユーチューブの公開拒否の理由としては
「深刻な危害を及ぼす可能性のあるCOVID-19に関するコンテンツはYouTubeで許可されていません。YouTubeは、地域の公衆衛生当局や世界保健機関(WHO)が提供するCOVID-19に関する医学情報と矛盾する、医学的に誤った情報を拡散するコンテンツを許可していません。」
ということだが、WHOの見解とは無謬なのであろうか。仮にも選挙で選ばれた議員や医師免許を持っている人々の主張なのだから、民主主義の否定そのものではないのか。このユーチューブのWHOの見解に反する主張は有害だと見做すポリシーに私はドナルド・トランプ氏が大統領選挙で敗れた理由を見るような気がする。トランプ氏が敗れた原因は結局それだったのではないのか。トランプ氏が主張する通り不正選挙であった可能性があるということだ。今の異常な状態はその疑惑を裏付けていると見ることが出来る。そして虎の威を借る狐のごとく日本政府や河野大臣などは、情報を国民の目から遮断させつつも、そういう主張をデマだと攻撃する。今、起こっている状態を大衆が理解することは難しいであろう。本当に国民の自由意思を尊重する「任意」であるならば、ワクチン反対派の意見を遮断させることにはならないはずである。人類に初めて試みられるワクチンであるのだから、たとえ少数であったとしてもそういう見解もあるとして、むしろ積極的に情報公開され、そのうえで国民の自主的な判断が促されることが筋道ではないのか。デマだというのであれば、その主張のどこがどのように間違っているのかを具体的に反論することが情報強者である政府や厚労省の責任ではないのか。それが出来ないで、戦時中であるかのような報道統制を掛けているのであれば、どちらがデマなのかということにならざるを得ない。これらを総合して私に見えてくる「任意」の意味とは、数年後にワクチン接種者に何らかの健康障害や異常が現れ始めて、医者に診てもらっても原因がよくわからないし、ワクチンとの因果関係も何とも言えないが、おそらくはワクチンが原因ではないかと思う人が増え始めてきた時に、強制ではなくて自分の判断の任意で打ったということであれば社会問題として声を上げにくいということになる。本当は任意であろうが、強制であろうが、国が認可して推奨しているのだから、国の責任なのだが、問題になるかならないかはその時の社会状況による。因果関係を個別に証明することが不可能であっても、一定割合の副作用を訴える声は状況証拠として無視できないことになるので、今の段階で「任意」を強調して将来的に何かの悪影響が出始めた時に人々が被害を訴えにくいように予防線を張っているのだと考えられる。厚労省の役人の思考回路とはそういうものである。要するに政治家も官僚もワクチンが絶対的に安全と言えるのかどうか本当のところはよくわからないのである。とにかく今、世界で進行している事態を説明することはとても難しい。(吉川 玲)