龍のひげのブログ -32ページ目

変化しない日本と変化する世界が生み出す新たな現実

センターピンのピンとは、ボーリングで先頭に立っているピンであると同時に、カメラレンズの焦点を意味するピントのピンであるとも私は勝手に考えている。よって意図的にセンターピンの中心位置から横に外された政治の政治性や、それによってもたらされる社会的な状況、世相、言論、国民の生活というものは、効率的、相乗効果的にストライクを生み出すものではなくて、ガーターかせいぜい2~3本のピンを倒す程度のものであると同時に、ピンボケした映像のようなものでもあると言えよう。それが世界の特に日本の現実なのである。平和ボケしているだけではなく、我々はピンボケしていて焦点の定まらない現実の映像を日々、見せられながら生きている。20年以上も経済が0成長であることも国民生活のレベルが向上しないことも当然なのだ。国家全体がピンボケしている現実の中で様々な進歩や成長、改善が果たせないことは絶対的な必然である。しかしそれによって政治は政治の責任から守られていると言える。全てはぼやかされ、曖昧になり一体、何が悪くて、何が原因なのかもわからなくなり、運命のように目の前の現実を受け入れざるを得ないということだ。TVで時事問題の解説や議論を見ていて、違和感を感じることはないであろうか。その分野の専門家や大学の教授、精神科医など発言に権威性があるような人物が登場して尤もらしいことを言うのであるが、共通していることは対象のセンターピンに当てないように用心深く用意された発言であるように感じられるということと、結局そういう意見や論調が流れ行き、落ち着くべきところは、報道機関であるマスコミやスポンサーである大企業、そして政治などの既得権益が損なわれないような現状維持でしかないということなのだ。日本全体の経済成長が見込めない現状にあっては、力学的に既得権益層の現状維持圧力が強まるがゆえに、本来は中立であるべきTVの報道内容や出演者の政治発言のピントのずれや歪みも比例して大きくなってくるのだと考えられる。資本主義社会だから仕方ないというべきものではないはずである。TVや新聞は様々な問題を多角的な視点で論じているような体裁を保ってはいるが、結局、社会全体の構図とすればマスコミや大企業、政治体制の既得権益が大きく損なわれないように、ピントが外れていて歪んだ均衡を守ろうとしているだけなのである。そしてそのしわ寄せは当然、弱者である庶民が被ることとなる。増加する児童虐待や弱いものいじめなども直接的ではないかも知れないが、そのような社会的強者が押し付けて固定化させているずれや歪みが、末端の生活の中で構造化されて結晶化しているだけなのである。簡単に言ってしまえばそれが日本の洗脳の全体像である。しかしTVや政治の演説を見聞きしているだけでは、その論理の内部に取り込まれているだけで、自分が洗脳されているという自覚を持つことができない。対立の構図も意図的に作られた内部構造である。右翼も左翼も、保守も革新もそういう対立の図式は実はセンターピンではないということだ。センターピンはそういう対立自体が常に何者かによってコントロールされ利用されているという認識にある。世界全体で拡大して俯瞰すれば、戦後の冷戦体制も同じである。資本主義と共産主義の対立の構図も自然発生というよりは実は計画的に作られたものである。それを牛耳っているのがディープステイトであるなどと言えば話しが込み入ってくるのでこれ以上に踏み込むのはやめておくが、ともかくも今や世界は一元化の支配体制に向かい始めていることは確かなように感じられる。これは日本国内だけの現象ではないのかも知れないが、若者は既存の権威であるTVや新聞からどんどんと離れて、ほとんど見なくなってきているようである。知性的にというよりも、本能的に若者の方がピントのずれたものを忌避する能力が高いからであるように感じられる。ではそれで若者がTVの代わりに見ているものは何かといえば、ユーチューブである。ところが人気が高いユーチューブのコンテンツがどのようなものかと言えば、別に大したことはやっていないのである。内容的に社会性や生産性があるものであるとか、映像の質が高いというようのものではなくて、どうでもいいようなどっきり企画であったり、くだらない検証動画が人気を集めて再生回数や登録者数を増やしていて、トップユーチューバーは広告収入や影響力の経済効果によって億万長者になっている。それが正しいとか、間違っているという価値判断を私はするつもりはない。しかし時代の一つの現象として見れば、政治と深く結びついている記者クラブに加盟しているTVが放送する映像や情報が作り上げて押し付けてくる現実よりも、今の時代の大衆はたとえ中身がなくてくだらないものであっても、直接的な政治権力の影響下にないユーチューブの動画の方が皮膚感覚的にピントが合っていて、鮮明でクリアな現実に見えるがゆえに時間を割く価値を認めているのではなかろうかと考えられる。そしてそこにユーチューブが生み出す莫大な金が社会に新たな格差と富の偏在を生み出していることも今の時代特有の現象であると言えるであろう。しかしそうはいってもユーチューブの動画内容も親会社のグーグルによって監視、検閲されていて社会的に不適格なものとして判断されれば、バンされることになっているようなので、要するに直接的でドメスティックな政治臭や管理体制が薄らいで見え難くいなっているだけで、ここにおいても世界の支配体制が一元化に向かって流れている過渡的な動きがあると見れるのかも知れない。日本の既得権益の構図は変化しないが世界は全体的に変化している。そういう視点で見れば、様々なことがつながって見えてくることであろう。我々はその世界の変化の背後にあるものがどういう性質のものであるのかを慎重に見極める努力を惜しまないようにしなければならない。

(吉川 玲)

ライジンが守るべき価値について

一つの事象や問題に対して多角的に見る視点は複数、存在しているゆえに、その対象の価値や意味も見る人の視点によってたくさんあるのであろうが、何よりも肝心なことはその核心や本質となるべき点は、見る人の視点や視座とは無関係に存在しているということと、それを死者の視点と呼ぶかどうかはともかくも、俯瞰の視点によってしか得られないものであるということだ。言い換えれば、同一平面上の同じ目の高さで見ていても意見や価値観の対立を生むばかりで、その事象の核心や本質は見えてはこない。哲学的で小難しく思われるかも知れないが、そんなに難しい話しではない。わかりやすく具体的な例で説明すればこういうことになる。

昨年末、大晦日のライジンの大会においてシバターの久保選手に対するやらせ提案の是非が様々な議論の対象になっている。人によってはシバターの提案をエンターテインメント性や一つの戦術として擁護する意見もある。ではライジンの価値や本質はどういうところにあるのかということである。近年、総合格闘技の人気が高まってきているように見受けられるがその魅力は一体何なのであろうか。秒速で億の金を稼ぐ投資家、与沢翼氏の言葉を借りれば、私はその言葉を気に入っているの使わせてもらうが、総合格闘技の興行としての絶対に外してはならない「センターピン」は何なのかということでもある。言うまでもないことだが、それは真剣勝負が生み出す緊張感や迫力であろう。エンターテインメント性やリング外の戦術、煽りのような類は、見る人によっては面白いと思うものかも知れないが、それらは決してセンターピンにはなり得ない性質のものである。センターピンにさえ当たれば、あとは雪崩式に全て倒れていく。エンターテインメントや煽りはボーリングのピンで言えば最後列の両サイドに立っているような位置づけであろう。もちろん真剣勝負の魅力を伝える競技は総合格闘技だけではない。野球やサッカーであれ、相撲や柔道であっても全ては真剣勝負であるが、総合格闘技は真剣勝負の醍醐味を最も鮮烈に観客や視聴者に訴求する力を持っている。そしてそのような真剣勝負の魅力が大衆に切実に要望される社会的な土壌というものもある。それは政治を含めて世の中の全体が、やらせや八百長みたいなものばかりで何を信じて生きて行けばよいのかわからないということである。アメリカの大統領選挙ですら本当なのかインチキなのかよくわからない。というよりも恐らくはインチキであろうが、だからこそ、そういう世相であるがゆえに総合格闘技の真剣勝負に社会的な価値と需要があるということである。興行としての格闘技の意義はともかくも、ここにおいて重要な認識は、TVや新聞は国民に事のセンターピンの在りかを伝えるものではないということである。センターからずれたサイドの位置に国民の意識や理解を誘導し、固定化しようとする。その理由は、言わなくともわかるであろうが、国民がセンターの本質に目覚めてしまえば、政治の様々な嘘やごまかしが通じなくなり、搾取や支配が難しくなるからである。同様に世の中には色々な視点から一つの問題に対してあれやこれやと意見を述べ立てて、収入を得たり、社会的な地位を確立させている人がたくさん存在するが、そういう人々も国民がセンターピンを掌握してしまうと仕事を失ったり、注目を集めることができなくなってしまうであろう。そういうことである。民主主義だからとか価値観が多様化しているからと言っても、物事のセンターピンがたくさんあるわけではない。その在りかは不変であり、常に一つしかないということである。一つの物質を見る視点は複数あっても、物質そのものの重心はただ一点であることを知ることが重要であろう。そういうことを多くの人がわかっていないというか、わからないように仕向けられているので、特に日本はどうでもよいようなくだらない議論や報道ばかりで、生活も経済も政治もそれらの実態や中身は何一つとして改善していきようがないということなのだと考えられる。日本の経済が20年以上に亘って0成長だということは異常なことである。

話しをシバターのやらせ問題に戻すと、総合格闘技のセンターピンが真剣勝負の魅力であるならば、団体はその価値を何よりも守り、ゆるがせにしてはならないはずであって、隅の7番ピンや10番ピンに相当するようなエンターテインメント性が、センターに位置する真剣勝負の価値を打ち消したり、消滅させるようなことは本末転倒で絶対に許してはならないことのはずである。しかしこの問題に対するライジンの対応は遅いし、鈍い。その理由は恐らくはライジンが正統的な真剣勝負とエンターテインメントとしての客寄せ、視聴率アップのようなことを長年、混在させてやってきているので、代表者の榊原社長自身が何がライジンのセンターで、何を守らなければならないのかという軸がわからなくなってきているのではないかと想像される。ユーチューバーのシバターの試合だからやらせが許されるというものではないはずだ。ユーチューブの企画であれば、洒落やネタで済むのであろうが、大晦日のライジンは日本の全国民が全ての試合は真剣勝負だと思って見ているのである。また榊原社長ご当人は真剣勝負の価値を軽視するようなことはないと否定するであろうが、本当にその軸がしっかりとしているのであれば、見世物的に体重差の大きな試合を組んだり、開催日の僅か数日前にどたばたと対戦のカードを決定したり、選手の怪我や疲弊のリスクを無視して1日に2試合も強行するようなことはないと私は思うのだが。それらは真剣勝負というよりも真剣勝負を売物にしたある種のエンターテインメント興行であると言える。そうであればシバターだけの問題ではないように感じられる。むしろライジンの体質に問題があると言えるのではないのか。いずれにせよ試合前のやらせ提案など真剣に見ている者を馬鹿にしているとしかいえないものだ。何がエンターテインメントだ。ライジンが今後、世界に通用するような正統的な格闘技大会へと改革していくためには私は代表者を交代させる必要性があると考える。

(吉川 玲)

死者の視点と生者の生活

死者の視点ということについて、前回の記事内容を補足的に説明した方がよいように思われる。言うまでもないことだが、私はどこかの山奥に籠って、浮世離れした仙人のような日々を過ごしている訳ではない。都会の中で仕事をして、経済活動に参加し、金儲けをしたり、金を消費したりしている。日々、洗濯だとか、買い物や、仕事の支払い、事務処理などに追われて一日をあっという間に終えている。ゆっくりと本を読む間もないが、できるだけ読書をする時間は確保するようにしている。それから仕事の合間にFXをしたりもしている。そういうことを言えば、前回、私が私と世界との関係性について、この世界から果実をもぎ取るように何かを得ようと考えてはいない、積極的、実存的に世界と関わろうとしていないという以上にある意味ではもう既に死んでいて、自分の中核に存在するものは死者の視点であると述べたことと矛盾しているではないかと思われるかも知れない。FXで利益を追求することは現実から果実をもぎ取る試みなのではないかと。確かにその部分のみで見れば矛盾していると言えるであろう。しかし屁理屈や言い訳のように思われるかも知れないが、仕事をしたり、FXをするようなことは、その他の日常の雑事も含めて全ては、生活の範疇に属することである。この世に肉体を持って生きている限り、生活から逃れることは出来ない。そして何よりも肝心なことは、人生において「生活」するということは、決して死者の視点ではあり得ないというか、成り立たないということである。死者の視点でぼんやりと夢見るように現実を眺めているならば、間違いなく生活は破綻してしまうものである。生活とは、絶対に生者の視点でなければならないものだ。それならば哲学的な問いかけになるのかも知れないが、人生とは生活のために存在するのかということである。私は日々、生活していて、生活に追われているとも言えるが、自分と言う人間の本性なり本体は、生活者だとは考えていない。毎日、忙しくて本当はぼんやりなどしていられないのであるが、それでも生活している自分自身とその環境である世界をぼんやりと傍観する死者の視点と言うべきものがある。そしてその死者の視点こそが、本当の自分であるように私は感じているということだ。別に私は精神的に分裂している訳ではない。十分に統合していると私は自覚している。生活している私は、確かに実存的にも社会的にも生きているのであるが、ある意味においては仮初めの私である。仮初めの生活者である私を死者の視点で認識するもう一人の私が存在する。その俯瞰の構図で言えば、生活者とは単に生活に勤しんでいるだけで何も見えていないし、何もわかっていないのである。木の葉が川に落ちて流れるように無力な存在に過ぎない。

そこで前回に述べた武士道の話しになるが、武士もまた生活する者である。しかし生活するだけの存在ではないと自負、自認する者でもある。映画『必死剣 鳥刺し』を見て感じたことだが、豊川悦司の演技にはそういう武士の、上方から自分自身を見つめる視線のようなものがあって、それが武士としての凛とした佇まいであるとか品格を表現しているように思えたのだが、一流の役者はそういうことが自然とわかっているのだなと感心したのであった。武士道における精神性とは、死を織り込んだ視点で自分の存在を俯瞰し、認識するところにあるのではなかろうか。そしてそこに道が生じる。しかし人生において死生を問わず、生活を離れた別の視点を持つには、それを持てるだけの最低限のゆとりや余裕が必要であることも事実である。『必死剣 鳥刺し』は江戸時代の武士を描いたものであったが、江戸時代は平和で安定していたので、武士は豊かでなくとも権力に翻弄されても武士道を追求することが出来たのであろう。それが戦国時代であれば、日々、戦乱の殺し合いの中に日常生活があったので、自分を俯瞰して再認識する別の視点など持てるはずがない。または江戸の世ではあっても、武士ではない農民は過酷な年貢の取り立てに苦しむばかりで、そういう生活から離れた視点を持つことなど想像だに出来なかったことであろう。要するに時代や身分を問わず、余裕やゆとりがないほどに目の前の現実や生活に閉じ込められる度合いが大きくなるということである。そしてそうなるほどに人間は物事の道理や正邪から離れて、力の論理に従わざるを得ないなってくるものである。正しいことが正しい、間違っていることが間違っていると言えなくなってくる。人間がどんどんと卑しくなって、力や金のある者に媚びへつらって取り立ててもらうことしか考えられなくなってくる。江戸時代のように武士が切腹を覚悟で殿様に諫言したり、農民が百姓一揆を起こして鎮圧され首謀者が晒し首になるようなことは、今の時代にはあり得ない。確かに今は身分制度もないし、社会全体も安定していて平和ではあるが、人々が目の前の現実や生活に囚われる度合いが増してきているのではなかろうか。そしてそうなるほどに支配者、為政者にとっては都合がよいのは事実である。はっきりと言い切ってしまえば批判や反発があるかも知れないが、単なる生活者は全体を見極める精神を持ち得ていないので、目の前の現実しか見ていないから、情報操作や10万円ほどの支給金でいくらでもコントロールが可能だということである。本来、人間の精神とは自分の存在に向き合うことによって世界の真実に目を見開いていく機能や役割があると思うのだが、そうはさせないように人間を現実や生活の牢獄に権力者は閉じ込めようとしていることは私に言わせれば疑いようがないことだ。コロナの現実も間違いなくその流れの中にある。

(吉川 玲)