龍のひげのブログ -31ページ目

ライジンが守るべき価値について

一つの事象や問題に対して多角的に見る視点は複数、存在しているゆえに、その対象の価値や意味も見る人の視点によってたくさんあるのであろうが、何よりも肝心なことはその核心や本質となるべき点は、見る人の視点や視座とは無関係に存在しているということと、それを死者の視点と呼ぶかどうかはともかくも、俯瞰の視点によってしか得られないものであるということだ。言い換えれば、同一平面上の同じ目の高さで見ていても意見や価値観の対立を生むばかりで、その事象の核心や本質は見えてはこない。哲学的で小難しく思われるかも知れないが、そんなに難しい話しではない。わかりやすく具体的な例で説明すればこういうことになる。

昨年末、大晦日のライジンの大会においてシバターの久保選手に対するやらせ提案の是非が様々な議論の対象になっている。人によってはシバターの提案をエンターテインメント性や一つの戦術として擁護する意見もある。ではライジンの価値や本質はどういうところにあるのかということである。近年、総合格闘技の人気が高まってきているように見受けられるがその魅力は一体何なのであろうか。秒速で億の金を稼ぐ投資家、与沢翼氏の言葉を借りれば、私はその言葉を気に入っているの使わせてもらうが、総合格闘技の興行としての絶対に外してはならない「センターピン」は何なのかということでもある。言うまでもないことだが、それは真剣勝負が生み出す緊張感や迫力であろう。エンターテインメント性やリング外の戦術、煽りのような類は、見る人によっては面白いと思うものかも知れないが、それらは決してセンターピンにはなり得ない性質のものである。センターピンにさえ当たれば、あとは雪崩式に全て倒れていく。エンターテインメントや煽りはボーリングのピンで言えば最後列の両サイドに立っているような位置づけであろう。もちろん真剣勝負の魅力を伝える競技は総合格闘技だけではない。野球やサッカーであれ、相撲や柔道であっても全ては真剣勝負であるが、総合格闘技は真剣勝負の醍醐味を最も鮮烈に観客や視聴者に訴求する力を持っている。そしてそのような真剣勝負の魅力が大衆に切実に要望される社会的な土壌というものもある。それは政治を含めて世の中の全体が、やらせや八百長みたいなものばかりで何を信じて生きて行けばよいのかわからないということである。アメリカの大統領選挙ですら本当なのかインチキなのかよくわからない。というよりも恐らくはインチキであろうが、だからこそ、そういう世相であるがゆえに総合格闘技の真剣勝負に社会的な価値と需要があるということである。興行としての格闘技の意義はともかくも、ここにおいて重要な認識は、TVや新聞は国民に事のセンターピンの在りかを伝えるものではないということである。センターからずれたサイドの位置に国民の意識や理解を誘導し、固定化しようとする。その理由は、言わなくともわかるであろうが、国民がセンターの本質に目覚めてしまえば、政治の様々な嘘やごまかしが通じなくなり、搾取や支配が難しくなるからである。同様に世の中には色々な視点から一つの問題に対してあれやこれやと意見を述べ立てて、収入を得たり、社会的な地位を確立させている人がたくさん存在するが、そういう人々も国民がセンターピンを掌握してしまうと仕事を失ったり、注目を集めることができなくなってしまうであろう。そういうことである。民主主義だからとか価値観が多様化しているからと言っても、物事のセンターピンがたくさんあるわけではない。その在りかは不変であり、常に一つしかないということである。一つの物質を見る視点は複数あっても、物質そのものの重心はただ一点であることを知ることが重要であろう。そういうことを多くの人がわかっていないというか、わからないように仕向けられているので、特に日本はどうでもよいようなくだらない議論や報道ばかりで、生活も経済も政治もそれらの実態や中身は何一つとして改善していきようがないということなのだと考えられる。日本の経済が20年以上に亘って0成長だということは異常なことである。

話しをシバターのやらせ問題に戻すと、総合格闘技のセンターピンが真剣勝負の魅力であるならば、団体はその価値を何よりも守り、ゆるがせにしてはならないはずであって、隅の7番ピンや10番ピンに相当するようなエンターテインメント性が、センターに位置する真剣勝負の価値を打ち消したり、消滅させるようなことは本末転倒で絶対に許してはならないことのはずである。しかしこの問題に対するライジンの対応は遅いし、鈍い。その理由は恐らくはライジンが正統的な真剣勝負とエンターテインメントとしての客寄せ、視聴率アップのようなことを長年、混在させてやってきているので、代表者の榊原社長自身が何がライジンのセンターで、何を守らなければならないのかという軸がわからなくなってきているのではないかと想像される。ユーチューバーのシバターの試合だからやらせが許されるというものではないはずだ。ユーチューブの企画であれば、洒落やネタで済むのであろうが、大晦日のライジンは日本の全国民が全ての試合は真剣勝負だと思って見ているのである。また榊原社長ご当人は真剣勝負の価値を軽視するようなことはないと否定するであろうが、本当にその軸がしっかりとしているのであれば、見世物的に体重差の大きな試合を組んだり、開催日の僅か数日前にどたばたと対戦のカードを決定したり、選手の怪我や疲弊のリスクを無視して1日に2試合も強行するようなことはないと私は思うのだが。それらは真剣勝負というよりも真剣勝負を売物にしたある種のエンターテインメント興行であると言える。そうであればシバターだけの問題ではないように感じられる。むしろライジンの体質に問題があると言えるのではないのか。いずれにせよ試合前のやらせ提案など真剣に見ている者を馬鹿にしているとしかいえないものだ。何がエンターテインメントだ。ライジンが今後、世界に通用するような正統的な格闘技大会へと改革していくためには私は代表者を交代させる必要性があると考える。

(吉川 玲)

死者の視点と生者の生活

死者の視点ということについて、前回の記事内容を補足的に説明した方がよいように思われる。言うまでもないことだが、私はどこかの山奥に籠って、浮世離れした仙人のような日々を過ごしている訳ではない。都会の中で仕事をして、経済活動に参加し、金儲けをしたり、金を消費したりしている。日々、洗濯だとか、買い物や、仕事の支払い、事務処理などに追われて一日をあっという間に終えている。ゆっくりと本を読む間もないが、できるだけ読書をする時間は確保するようにしている。それから仕事の合間にFXをしたりもしている。そういうことを言えば、前回、私が私と世界との関係性について、この世界から果実をもぎ取るように何かを得ようと考えてはいない、積極的、実存的に世界と関わろうとしていないという以上にある意味ではもう既に死んでいて、自分の中核に存在するものは死者の視点であると述べたことと矛盾しているではないかと思われるかも知れない。FXで利益を追求することは現実から果実をもぎ取る試みなのではないかと。確かにその部分のみで見れば矛盾していると言えるであろう。しかし屁理屈や言い訳のように思われるかも知れないが、仕事をしたり、FXをするようなことは、その他の日常の雑事も含めて全ては、生活の範疇に属することである。この世に肉体を持って生きている限り、生活から逃れることは出来ない。そして何よりも肝心なことは、人生において「生活」するということは、決して死者の視点ではあり得ないというか、成り立たないということである。死者の視点でぼんやりと夢見るように現実を眺めているならば、間違いなく生活は破綻してしまうものである。生活とは、絶対に生者の視点でなければならないものだ。それならば哲学的な問いかけになるのかも知れないが、人生とは生活のために存在するのかということである。私は日々、生活していて、生活に追われているとも言えるが、自分と言う人間の本性なり本体は、生活者だとは考えていない。毎日、忙しくて本当はぼんやりなどしていられないのであるが、それでも生活している自分自身とその環境である世界をぼんやりと傍観する死者の視点と言うべきものがある。そしてその死者の視点こそが、本当の自分であるように私は感じているということだ。別に私は精神的に分裂している訳ではない。十分に統合していると私は自覚している。生活している私は、確かに実存的にも社会的にも生きているのであるが、ある意味においては仮初めの私である。仮初めの生活者である私を死者の視点で認識するもう一人の私が存在する。その俯瞰の構図で言えば、生活者とは単に生活に勤しんでいるだけで何も見えていないし、何もわかっていないのである。木の葉が川に落ちて流れるように無力な存在に過ぎない。

そこで前回に述べた武士道の話しになるが、武士もまた生活する者である。しかし生活するだけの存在ではないと自負、自認する者でもある。映画『必死剣 鳥刺し』を見て感じたことだが、豊川悦司の演技にはそういう武士の、上方から自分自身を見つめる視線のようなものがあって、それが武士としての凛とした佇まいであるとか品格を表現しているように思えたのだが、一流の役者はそういうことが自然とわかっているのだなと感心したのであった。武士道における精神性とは、死を織り込んだ視点で自分の存在を俯瞰し、認識するところにあるのではなかろうか。そしてそこに道が生じる。しかし人生において死生を問わず、生活を離れた別の視点を持つには、それを持てるだけの最低限のゆとりや余裕が必要であることも事実である。『必死剣 鳥刺し』は江戸時代の武士を描いたものであったが、江戸時代は平和で安定していたので、武士は豊かでなくとも権力に翻弄されても武士道を追求することが出来たのであろう。それが戦国時代であれば、日々、戦乱の殺し合いの中に日常生活があったので、自分を俯瞰して再認識する別の視点など持てるはずがない。または江戸の世ではあっても、武士ではない農民は過酷な年貢の取り立てに苦しむばかりで、そういう生活から離れた視点を持つことなど想像だに出来なかったことであろう。要するに時代や身分を問わず、余裕やゆとりがないほどに目の前の現実や生活に閉じ込められる度合いが大きくなるということである。そしてそうなるほどに人間は物事の道理や正邪から離れて、力の論理に従わざるを得ないなってくるものである。正しいことが正しい、間違っていることが間違っていると言えなくなってくる。人間がどんどんと卑しくなって、力や金のある者に媚びへつらって取り立ててもらうことしか考えられなくなってくる。江戸時代のように武士が切腹を覚悟で殿様に諫言したり、農民が百姓一揆を起こして鎮圧され首謀者が晒し首になるようなことは、今の時代にはあり得ない。確かに今は身分制度もないし、社会全体も安定していて平和ではあるが、人々が目の前の現実や生活に囚われる度合いが増してきているのではなかろうか。そしてそうなるほどに支配者、為政者にとっては都合がよいのは事実である。はっきりと言い切ってしまえば批判や反発があるかも知れないが、単なる生活者は全体を見極める精神を持ち得ていないので、目の前の現実しか見ていないから、情報操作や10万円ほどの支給金でいくらでもコントロールが可能だということである。本来、人間の精神とは自分の存在に向き合うことによって世界の真実に目を見開いていく機能や役割があると思うのだが、そうはさせないように人間を現実や生活の牢獄に権力者は閉じ込めようとしていることは私に言わせれば疑いようがないことだ。コロナの現実も間違いなくその流れの中にある。

(吉川 玲)

武士道精神を日本人は見直すべきだ

年が明けても、何も変わることはない。私がこの現実世界に未だ存在しているという事実も含めて。この2か月ほど世界がどのように変化していくのかを見定めるために頭を整理しようとして沈黙を保ってきた。コロナに関しては思うこと、言いたいことはたくさんある。しかし私が何かを主張することにおいての基本的なスタンスは、どう考えてもそれが尤もらしい見方であり、そうとしか考えられないものであるにも関わらず、何らかの事情や社会的な状況で、誰もそうだと指摘したり、意見を述べることが許されないような事態において、仕方がないから私がいやいやというか渋々、これは本当はこういうことなのではないのか、皆が黙っているのは、黙らされているのは正しい世界の在り方ではないと縷々、説明するという消極的な姿勢であって、別に私はその行為によって不特定多数の他者から支持を得ようとか、賛同者を増やしたいなどとは全く思っていないものである。それが私と世界との関係性なのであって、一般的には中々理解されにくいことかも知れないが私はこの世界から果実をもぎ取るように何かを得ようと考えているのではなくて、ただ夢を見るようにぼんやりと眺めているだけなのである。積極的に、実存的に世界と関わろうとしていないという以上に、ある意味ではもう既に死んでいるとでも言うのか、肉体的に生きてはいても私と言う存在の中核に存在するものは死者の視点なのである。それが果たして正しいのか、間違っているのか、健全なのか不健全なのかはともかくとして、だからこそ見えてくるものがあり、それが生きる者の生存に役立つのではないかと考えている自分がいるということである。誤解のないように言っておくが、私のこの精神性は仏教の教えだとかスピリチュアルなどとは何の関係もないもので、日々、現実の現実性を追求していく中で自然と養われてきた諦観のようなものだと考えている。言い換えれば、今のこの世界は、生きてはいても死者の目と頭で理解しようと努めなければならないほどに生き難く、また理解し難いものであるといえるであろう。たくさんの金を儲けようとか、多くの人に支持されたいと願ったり、社会的な評価を得ようと努力することは当然間違ったことではないし、生きる上での原動力であることも事実であるが、それだけだと、それで勝ち組と負け組に分かれるゲーム性が世界の全てであるならば、生きると言うことは盲目の闇の中に囚われているのであって、そのゲームのシステムなりルールの流れの中に川に浮かぶ木の葉のように飲み込まれているだけだと言えるのではないのかということである。コロナの現実というものも世界を押し流そうとして組み込まれてゆく新しい世界への計画というかプログラムのように私には見える。私にどう見えるかはどうでもいいことかも知れないが、ただ一つ確かなことは世界を操作する権力を有する者にとっては、見えない人間がたくさん存在する世界の方が操作しやすいので、見えない闇のシステムに絶えず人類を押し込めようと画策するということである。政治の要諦とは、日本の政治なども明らかにその部類であるが、マスコミの報道も含めてそれが全てであると言っても過言ではないほどであろう。だからこそ、自分を正当化するために言うのではないが、生きてはいてもどこかで死んでいなければならないのだ。これは特に日本の武士道に通ずるものがあると思われる。最近、DVDで豊川悦司主演の映画『必死剣 鶏刺し』を見て、その演技の素晴らしさに感動したが、絶体絶命の瀕死の状態で、命と引き換えに出し得る武士の一刺しというものがあるということだ。決して死を美化するわけではない。死んでしまえば何もない。武士道とは死の境地を織り込んだ生き方なのだと思われる。今、この時代にこのようなことを言っても誰にも相手されないことはわかっているが、日本人は今こそ武士道精神に立ち返れとは言わないが、その価値を見直す必要性があると言えよう。それにしても『必死剣 鶏刺し』はいい映画だった。吉川晃司も池脇千鶴もとてもいい演技をしていて心に沁みた。刀に斬られて真っ赤に噴き出す血を美しいと思ったのはこの映画が初めてである。

話しは変わるが毎年、大晦日は紅白は何十年も見ていなくて、格闘技をTV観戦している。こんな私ではあるが、格闘技が好きなのである。それでライジンについて言いたいことがある。これもコロナとは全然、次元が違いことだが、誰も言わないのであれば、仕方がないので私が言わなければならないのかなということだが、ライジンの榊原社長はもっと選手を大切に扱わなければいけない。選手は、選手の立場では言えないであろう。では選手以外の格闘技に関わる人はどうして言わないのであろうか。これも私に言わせれば、日本人が武士道精神を失って、儲けや注目度ばかりを追求している結果である。こんなことを続けていれば、日本に本当の格闘技ファンは増えないであろうし、格闘技の社会的地位も向上しないであろう。別に私は朝倉兄弟のファンでもないし、彼らの心情を代弁するつもりもないが、一日に二試合もさせるのはちょっと無茶である。朝倉海は準決勝で右手を骨折していて、痛み止めの注射を何本か打って決勝に臨んだということだが、選手寿命を考えれば本来は決勝は棄権すべきところであるが、さすがにメインイベントで登場するあの場面ではその選択はあり得ないであろう。拳を壊しても良いと決意して出場した海の心意気は立派なのかも知れないが、興業の在り方としては間違っていると私は思う。それは選手の武士道精神として称賛されることではなくて、単に興業における選手の健康を無視した金儲けのやり方の問題ではないのか。運営やシステムの問題を選手個人の武士道精神にすり替えて注目の対象にしてはならない。兄の未来の試合についても言えることだが、勝ったから良いというものではなくて、3週間ぐらいで11kgも減量させて、計量の前日に水抜きで一日で5kgも落とさせるような事態は、今回の大会だけではないが運営側にあまりにも計画性と選手の健康への配慮がなさすぎることが明らかである。シバターの試合もそうだが、20kgも体重差のある久保優太にMMAルールで対戦させるのは運営側に選手に対する敬意や大会そのものへの品位の意識が欠落していることの現れでしかないのではないのか。ライト級タイトルマッチのホベルト・サトシ・ソウザ選手が試合後にマイクを持って、榊原社長にベラトールの選手と対戦したいと訴えていたが、内情はよくはわからないが、あれだけ強ければ今の日本国内に対戦相手はいないので活躍の舞台を海外に移したいと考えることは当然である。未来と対戦したクレベル・コイケ選手も契約のことでライジンと最近までこじれていたということだが、ライジンの選手に対する全体的な扱いから考えて、日本に住んでいるボンサイ柔術の選手を外国人労働者のように見做しているのではないかと思えて腹が立ってくるものである。どういう経緯で榊原氏がライジンの社長になったのかは知らないが、適任者は他にもいるのではないかと言いたい。ともかくも年始に際して思うことは多々ある。誰かが言うのであれば基本的に私は何も言うつもりはない。誰も言わないのであれば、止むを得ず、私が私なりの武士道精神で、そして死者の視点で、何ごとかを言わなければならない個人的な必要性に迫られる。それだけのことだ。

(吉川 玲)