恐ろしい世界で生きている
お仕事の時間がやってきたようである。お仕事か。残念なことにこの仕事は商売のように利益を生むことはない。誰かに評価されることもなければ、褒められることもないし、心温まるような束の間の癒しもなければ、生きる困難に向かって突き進む勇気をもたらすものでもあり得ない。むしろそれらとは正反対な化学反応を魂に及ぼして、生ける屍のごとく人里離れた不気味な沼に沈んでいくような心持がする。いやな仕事だ。ということはその仕事を引き受けている私の魂は、もうこの年齢になってしまえばどうでもよいことであるが、快活に、陽気に、愉快に生きることを許されていない、地上的というか世俗的な意味合いでの幸福の概念とは対極の生存様式を宿命づけられているということのようである。この蔚然とした日の当たらない密林に繁茂する植物のような憂鬱を誰が理解できようか。良く言えば、いや良いのか悪いのかよくわからないが、求道者に生まれついているということなのだろうか。
分け入っても、分け入っても、青い山 か。
今どきの世相で言えば、人気ユーチューバーのようにたくさんの人に注目されて登録者数と動画の再生数を増やし続け、その広告効果によってたくさんの商品やサービスが社会に浸透していくと同時に自らも大金持ちになっていくという、いわゆるウイン・ウインの経済原理を飽くことなく追求することが、ある意味では正しいというか、真っ当というか、正統的な生き方なのかもしれない。ユーチューバーであろうとなかろうと、基本的な原理は同じであろう。数を持っている方が強いのである。数を持っている人間が、人よりも有利なウイン・ウインの関係性を構築することができて、幸福な人生を歩むことができるということだ。私は何もその構図やシステムを否定するつもりはない。ユーチューバーで言えば、成功者になるためにはそれなりの才能と何よりも万人を納得させる人間力が必要とされるであろうから、勝者はリスペクトされるべきであろう。しかし私に言わせれば、私もまたリスペクトの気持ちは持つが、資本主義とか消費拡大などの一つの単なるフィールドとルールにおける勝者なのであって、その原理が、すなわちたくさんの人間に注目されて、たくさんの物やサービスが売れるというウイン・ウインの関係性の繁茂自体が世界や人類を幸福に導いていくのであろうかという疑問の目で見てしまうものである。私もまた最近ではよくユーチューブを見るようになったが、ユーチューブが面白くて新鮮なのは、そこに既存のTV番組のような政治の匂いがないからだと思われる。極論すればそれだけであるともいえよう。大衆は、世界や人類を救う力がなく、既存の資本主義システムの枠組みから一歩たりともはみ出す新規性はなくとも、単にそこに政治色がないという一点のみに新しい時代の大いなる価値と魂の安らぎを感じ始めているように思われる。裏返せばそれほどに既存の、政治と一体化したメディアの報道や情報の在り方に大衆は辟易とした倦厭の意識を強く持ち出しているのではなかろうか。とは言っても完全に否定したり、無視しているわけではない。どんなに腐敗、劣化していようとも人が生きていく上で政治の必要性を否定できないように、既存のマスコミ情報が偽善とご都合主義にどれほど塗れていようともその情報を人は空気のように呼吸しなければ生きていけないのである。
さて、私のお仕事の時間の到来は、私にしか聞こえないアラームが鳴ったり、何かの啓示でわかるものではない。そんな優雅で高尚なものではなくて、単に感情の問題である。腹が立って我慢できなくなる時が、この世の沼に魂を打ち沈める言葉を発する知らせである。敢えて従来の資本主義と政治倫理の模範とすべき規範に則って言えば、たとえば不動産会社が家や土地を売る時にはその物件の瑕疵や欠陥、住むべき上で当然、事前に知らされておかなければならない事柄が重要説明事項として告知されることが法律で義務付けられているし、同様に証券会社や銀行などの金融機関が投資信託や為替の組み込まれた金融商品を販売するときには、元本が保証されていないリスクを説明して同意を得なければならないこととなっている。不動産を買ったり、金融商品を買ったりする契約は、売り手が嘘をつくことは許されないことであろうが、ある意味では買い手の自己責任とも言い得るものである。しかし国は制度として消費者の利益を守るために、売り手に対してそこまでの厳しい説明責任を課しているものである。それならばどうしてその姿勢が、人命や健康に重大にかかわるべきコロナのワクチン接種に対しては適用されないのであろうか。マスコミは言わないか、言ったとしても耳打ちするような小さな声で囁くようにしか報道しないから、知らない人もたくさんいるであろうが、厚労省の発表ではワクチンの接種直後に既に国内で85人程度の人間が亡くなっている。そしてその死亡とワクチンとの因果関係については、不明であるか関係性が認められないとされている。確かに基礎疾患があったり、高齢者であれば接種者数全体の割合から見ればそれぐらいの人間が「たまたま」亡くなった日がワクチンを打った日から2~3日以内であってもおかしくはないという理屈も成り立つのかも知れない。しかしそれはあくまでも統計的に数字を捉えた見方であって、常識的に考えて欲しいが、2~3日以内にぽっくりと死んでもおかしくはないほど衰弱していたり容態の悪い人間が果たしてワクチンを打つであろうか。そんなことはあり得ないであろう。ワクチンを打っているということは、仮に基礎疾患があったとしてもそれだけの健康状態を維持できていたことを証明するものであって、その直後に亡くなっているということは因果関係は否定できないものであるはずであろう。それを厚労省が否定するのであれば前回の記事の末尾に述べたとおりに数年後に発症する可能性のある副作用や後遺症について、その因果関係を国が認める訳がないことは誰にとっても火を見るよりも明らかであるはずである。またマスコミはどうして基本的な重要説明事項として、ファイザー社のmRNAワクチンが従来の鶏卵法による培養の弱毒化させた生ワクチンと違って、史上初めての試みでありその長期的な影響を予測し得るデータが存在しないということを接種者が覚悟すべきリスクとして説明しないのだ。集団免疫か何か知らないが、国が一人でも多くのワクチン接種者を増やそうとする姿勢はわからないではないが、それゆえに国民が知るべき情報と引き受けるべきリスクを過小評価しておざなりにしてよいという理由にはならないはずである。今のマスコミ(特にTV)の報道を見ていると国民を安心させてワクチン接種に駆り立てているだけではないか。安心させるだけではなくて、これはコロナのワクチンだけではなく、これまでの季節性のインフルエンザワクチンでも何度も見られた光景であるが、ワクチンが不足している欠乏感を訴えて、国民に早く予約しなければ接種できないように焦らせているものであり、それは事実を伝えているのではなくて明らかにマーケティングの手法ではないか。それでよく不動産会社や金融機関に重要説明事項やリスクの説明を命じられるものであると思う。恥ずかしくはないのか。土地や金と人間の命や健康とどちらが大切なのか。ましてやそのような基本的な説明責任が果たされていないのにも関わらず、12歳から15歳までの子供に何の疑問も持たずに接種を勧める自治体など無茶苦茶である。どう考えても人の道から外れているではないか。苦情が殺到して当然である。基礎疾患はないが腹が立って卒倒しそうである。最後に言いたいが、TV番組のキャスターは局や政治の姿勢で、国民を安心させてワクチン接種者を増やそうとする任務というか使命はやむを得ないものであろうことは理解できるし、また自分自身や高齢の父母に打たせることも当然あるであろうが、本当に家庭に戻って、自分の中学生や高校生の我が子に今回の遺伝子ワクチン接種を勧めることに対して躊躇や迷いがないのかということである。よく考えて欲しいものだ。
TVや新聞を信じる人々
世の中にはTVや新聞の言うことをほぼ全面的に信じている人々が一定数、存在する。どれくらいの割合なのかと言えば、調べようがないので正確なところはわからないが、少なく見積もっても6~7割はそうだと思われるので一定数という以上に大多数と言っても過言ではないであろう。特に日本人はその傾向性が高いように見受けられる。但し全面的にと言っても妄信している訳ではない。たまには間違ったり、いい加減な説明をしたり、ヤラセの演出をしたりもするが、それは例外的なことであって基本的には国民全体の福祉や健康などの公共性に則った信頼できる情報源だと見做しているのである。それで私はそのような人々とは精神的な隔絶を強く感じるし、話がかみ合わないというか、コミュニケーションを取ることができない。ということはつまり私は人間社会から隔絶しているとも言い得ることであって、孤独な変わり者という烙印を押されても仕方のない人間なのかも知れないが、生きて働いている限りは、多くの他者と交わり、意思の疎通も図っていかなければならないので、島流しにならないように自分の本性や本音を隠している場合がほとんどである。それでも生きていけないことはないし、慣れてしまえばさほど苦痛でもない。人生とは、この世に生きることはそんなものだと達観してしまえば、あとは毎日が単に機械的に同じことの繰り返しである。人生の大部分は退屈なルーチンワークで構成されているのだ。それでもである。生きているとその退屈なルーチンワークの中で何かの病のように、本当の自分をさらけ出し、言ってはいけない(とされている)本心を言わずにおれないような瞬間が落雷のように我が心を貫くのである。言わなくてもいいようなことを、言わない方が無難なことを、私は自らの良心に照らして、愚かにも言った方が相手のためであり、社会のためであり、人類のためだなどと考えてしまって、もうどうにでもなれと、もうどうにも止まらないと言ってしまうのである。大体は酒の席が多いが、それで喧嘩になったり、いやな思いをしたこともこれまでに何度かある。別にわかってもらおうとか、認めてもらおうと思っているわけではない。何の打算も計算もない。単に言わずにおれないのである。しかし禁断の果実を食するように、その誘惑に負けて言ってしまえば、その瞬間に私は人間ではなくなってしまうのだ。人間社会から追放されなければならないのである。この恐ろしさと寂しさをわかってもらえるであろうか。文明社会の中で人間が人間として生きていくためには、TVや新聞が唱える正義や倫理を受け入れなければならないのだ。大多数の人々はTVや新聞は社会や人類の進歩、向上に役立つような情報を提供していて、それに反するような企みや政治の動きに対してはスクープとして取り上げ糾弾してくれるはずだと信じ切っている。そのように考えている人々に実際にはそうではないことを説明することはもはや不可能である。それに何で私が不快な思いをしてまで、人間世界を跳躍するように、そんな役割を背負わなければならないのか。馬鹿げている。誰もがそれぞれ自分が信じるところを信じて生きていくしかないであろう。それがどのような結果を自らにもたらそうとも自己責任である。冷たく聞こえるかも知れないが、善意や親切で、他者の考えの過ちを正してあげようなどと思っても、それは当人がそう思えるようにならなければ、その地点に達していなければ、その風景が見える高さにいなければ無意味である。他者の歩む道のりを変えてはいけないし、変える権利は私にはない。それはわかっているけれどもあまりにもひどい状況を目の当たりにすると本当に心配になってくるのである。このままでいいのかと。TVや新聞を信じている人々に、それらに共通する論調と異なることを言うと、そんな「非科学的」なことは受け入れられないなどと言われて、返す言葉を失ってしまうものである。そういう人々はTVや新聞は科学を代表していると信じ込んでいるのである。或いはTVや新聞が、いくらなんでもそこまでの嘘をつくはずがないなどと言われることもある。正直に言って、こういうことを言ってはいけないのかも知れないが、そのようなときには私は何かの動物と人間の言語を使って会話しているような気すらしてくるのである。人間とは一体、何なのだろうか。私は何もTVや新聞の存在意義を否定している訳ではない。TVもたまには見ているし、新聞も忙しくて見る間もなく溜まっていく一方であるが、二紙も取っている。今、世界で何が起きているのか、どのような状況になっているのかを知るための情報源としてTVや新聞は不可欠だとは思う。しかし一人の人間が人生において重大な選択をするための指針になるかと言えば、真逆の作用をするケースの方が圧倒的に多いと思われる。TVや新聞の情報とは、質的には洪水のように人々の冷静で正確な判断を狂わせて、一気に押し流そうとする傾向を持っている。ある意味では本質的に全体主義なのだ。そこでその流れの圧に負けないように踏ん張って、自分の頭と魂で真理と真実を見極めようと努力することが本当の知性であり、人間らしさなのではないのか。何か文句があるか。
そういうことで私はコロナのワクチンは打たない。現在、大学生の息子にも本人はどう言うかはわからないが(おそらくは私の忠告に従うと思うが)、打たないように勧めるつもりだ。去年、介護施設に入所した父親は、ワクチンを打つかどうかをヘルパーが私に聞いてきたが、年齢も年齢なので本人の意思に任せてくださいと返答し、恐らくはもう1回は打っているはずである。しかし現在、同居している母には、体調が悪く一日中、家で寝ている状態でまったく外出しないこともあって、つまり感染リスクはほぼ0なので、打たない方がいいと私は言っているし、本人もそうすると言っている。私の妹はTVや新聞を全面的に信じているので言っても無駄である。妹の二人の子供(姪)もまだ若いので打って欲しくはないし、妹を通じてそのようにも伝えたが、親本人がそんな感じなので仕方ないし、そこまで面倒は見切れない。喧嘩になるだけである。
まあ、ひとそれぞれ勝手にすればよいのであろうが、TVや新聞は毎日のように、1万人に1人か4人かアナフィラキシーや血栓の症状を繰り返すだけで、遺伝子ワクチンそのものの特殊性や将来的な危険性については、徹底して判で押したようにスルーしているではないか。そんなものを信じろと言う方が土台無理である。ろくに治験もなされていないようなものを。5年後や10年後に何かの副作用が出てきたとしても国は絶対に因果関係を認めないであろうし、泣き寝入りするしかないことは目に見えているではないか。仮に集団訴訟のような動きが出てきたとしても、薬害エイズのようにその闘いだけで生きるエネルギーの全てを吸い取られてしまうであろうし、そもそも因果関係を立証することは不可能である。まあ、そういうことだ。TVや新聞の今の報道を見ていると本当に背筋が凍るような恐怖を感じる。マスコミは悪魔なのであろうか。
もはやどうでもよいこと
直前まで唯識思想について、さらに踏み込んで書くつもりであったが、どういう訳か突如として鬱陶しくなってきたので、恐らくは私の精神内部には人間(世俗)離れし過ぎないように自己制御するバランス調整機能が常に稼働しているためだと推察されるが、と言っても何も世俗を馬鹿にしたり、見下して言っているのではなくて、要するに私は私の「欠落」を絶えず補完する必要性に迫られながら生きているのだとご理解いただければ幸いであると、さて、一体私は何が言いたいのであろう。忙しすぎて(最近やっと落ち着いてきたが)頭がおかしくなってきたのであろうか。
ということで今回、話題にすることは、何一つとして悪気も悪意も持ち合わせているものではなく、ふざけているのではないことも当然であるが、真面目にタレントの熊田曜子さんの夫が熊田さんに対するDV容疑で逮捕、釈放された件について感想を述べたい。私が言いたいことはただ一点であって、有名人の女性が夫のことをTVやSNSなどでネタにしたり、ちょっとした愚痴を言ったりする場合、仮に多少の喧嘩や気持ちの擦れ違いがあっても、その土台部分に夫婦間の揺るぎない結びつきや信頼関係が存在するのであれば、たとえば「ミーキティー!」みたいなケースであれば、見たり読んだりなどでその情報を受け取っている我々一般人も、そこに安心感や微笑ましさを感じられるが、そうでないところが僅かでもあるのであれば精神的な不安定さを露呈させているかの印象を与えてしまうし、また何一つ反論できないで社会的に負のイメージが蓄積されたり、またタレントの発信力や影響力の大きさゆえに振り回される夫の立場の弱さや気持ちを考えると、こういう結果に陥ったことも暴力を振るった方が一方的に悪いと言えばそれまでであるが、川の流れのようなある種の必然性が存在するような気もする。別に今更、女がどうだとか、男がこうあるべきだなどというようなくだらない議論などしたくもないが、仮に男女が反対のケースを想定して、男のタレントがTV番組やSNSなどで妻への不平不満やマイナスイメージになるようなことを一言でも言ってしまえば、その時点でアウトでしょう。もちろん男はそういうことを言ってはいけないなどという法律はないが、多くの人はわかっていないが、法律よりも社会通念の方が精神を捕縛する力は圧倒的に強いのである。男が妻の悪口や、妻への愚痴を口にした途端に商品価値が暴落することをわかっているがゆえに言いたくとも言えないのである。この男女間の非対称性は何なのだろうか。私は何も女性が優遇され過ぎて、男女平等に反しているなどと言いたい訳ではない。
幸いにして私はそこまでの馬鹿ではない。基本的に、制度上は今の時代は男女は良くも悪くも平等であってそこに非対称性は存在しないと思う。では何が一体、見掛け上の非対称性をもたらしているのかと言えば、非常に手厳しいことを言うが、その時代の流れについていけないタレントの感覚だと思う。ついていけないから淘汰されるのである。もちろん時代の流れについていくか拒否するかはその人の勝手というか自由である。しかしそれは私のような一般人が許される選択肢であって、タレントはそもそもそういう目的で作られた偶像なのであるから、そういうことを頭ではなくて皮膚感覚で捉える能力がなければ淘汰されるのもやむを得ないという気がする。わかりやすく言えば、今の時代は、時代が正しいかどうかは別にして、女も従来の女特有の共感感覚で男への不平不満や愚痴を口にしていても決して得にはならないというか、一時的に目先の理解とカタルシスは得られるかも知れないが、結局は家庭不和であるとか、争いにしかなり得ないので、女も男同様にパートナーへの不満をネタにしたり、多くの人の注目や共感を集める手段として利用しない方が賢いのだと思う。人によっては、そういうことを言う男は、女の気持ちを受け止めることの出来ない「器」の小さい情けない人間だと蔑むのであろう。どこかの星から地球にやってきた何とかりんみたいな。果たしてどうなのだろうか。私に言わせれば、そういう意味で言えば少なくとも地球上には器の大きい男など一人もいないような気がする。器が小さい男と見られたくないための見栄とやせ我慢しかそこにはないのではないのか。女は得てして男の人格攻撃をする最終手段として、核ミサイル発射のスイッチボタンを押すように器が小さいという言葉を投げつけてくるが、それは伝統的に女は、器の大小で評価される尺度や視点が社会にほとんど存在しない安全地帯にいる安心感から発せられる言葉ではないのか。反対に言えば、器の大小の概念は男を操作する手段として、それは女から男に対してだけでなく、男と男の場合でも言えることであろうが、これ以上に効果的なものはないと言えるほどの力を有するのではなかろうか。よく言われるように男は単純な生き物なのだと思う。身近な女から下される器の小さな男という評価の視線や言葉に逆上して我を失ったり、よく分からない国家間の対立で兵士として戦場に赴き命を投げ出すことが出来るのも、大小はともかく立派な器の持ち主であるという自己イメージを死の直前まで保つことができるからなのではなかろうか。
何の話しだったか。もはや、どうでもいいことである。勝手にしてくれ。でもこういう話をしていると、たとえ日本中の女性を敵に回そうとも、人間(世俗)社会にうまく溶け込めたような気がしてきて、ちょっとだけ嬉しい。