龍のひげのブログ -26ページ目

任意の意義について

それが輝かしいものであれ、薄暗く困難に満ちたものであっても、私は若者には10代や20代の年齢の時間感覚からすれば、永遠に続くかと思われるような未来というものがあるので、コロナのワクチンを打って欲しくないというのが本音である。20歳の息子に打たないように言って、そうさせたのと同様に全ての若者にそう伝えたい。若者であっても密や複数人での会食、大声での会話を避けて、もちろん常時、マスクは着用して、大人しく真面目に生活していれば、コロナには罹らないであろうということが、私の実感である。何で政府やマスコミは、得体の知れない不気味なワクチンを若者や子供達にまで接種させることにそこまで執拗に拘るのであろうか。そうは言っても、当然最終的には自分自身の判断なので、国やマスコミの言うことを信用するということであれば、第三者がどうのこうのと言うことは出来ないし、それ以上に議論や討論をしても無意味である。極論すれば嘘を信じたり、騙される主体的な意思というものも自由主義社会では尊重されるべきだからである。そういうことを前提にして言うのであるが、「任意」という言葉は信用ならない。どうして政府や行政は、一方で任意を強調しながら、もう一方でワクチン接種の国民への浸透を、全マスコミを一体的に巻き込んだ強力なプロパガンダで推し進めようとするのであろうか。好意的に解釈すれば、個々人の打たないという意思をも尊重しながら、全体として集団免疫を獲得しようと努力していると見ることは出来るであろうし、実際にほとんどの人はそう考えているのだと思われる。しかし、果たして本当にそうであろうか。まず初めにはっきりさせておかなければならないことは、これは非常に重要な認識事項であるが、任意であれ、強制であれ、国民がワクチンを接種して生じる可能性のある様々な症状や重篤な副作用については、一時的な副反応などどうでもよいが、国の責任であるということである。因果関係が認められるかどうかは別の問題である。現実に接種直後に既に200人もの人間が亡くなっていて、厚労省は関係性は不明だと言っているのであるから数年後に生じた症状など認められるはずがないものであることは明白だが、それでも筋道として論理的に、国の責任が端から免除されているものでないことは当然である。何が言いたいのかと言えば、「任意」と言っても、政府や厚労省と国民は対等の立場ではないということだ。政府や厚労省は情報強者であり、国民は情報弱者である。その強者と弱者の力の差は天と地以上にかけ離れたものであると言えるであろう。医者でもなければ、薬剤師でもない一般の国民にそもそもワクチンのリスクなど判断できる訳がないのである。ましてやm-RNAという人類に初めて使用される遺伝子ワクチンについて、通り一遍の説明をされても素人が深いところまで正しく理解できるものでもあるまいし、だからこそ国民は政治やマスコミの推奨に従わざるを得ないということにもなるのだが、そこにおいて「任意」というワードが絶えず強調されていることがおかしいというか、怪しいとは思えないのであろうか。おかしかろうが、怪しかろうが政府やマスコミの説明は全て鵜呑みに受け入れます、と言うのであれば、そういう人々には何を言っても同じである。飼い主の命令に忠実に従う犬や猫と本質的に何ら変わらないからである。大衆の一定割合はそういう無思考、無批判によって形成されているのであろうが、少しでも人間的な思考力がある人々は、情報強者であるはずの政府やマスコミの説明に「誠実性」が存在するかどうかを見極めようとしようとするはずである。我々人間は、経験的に誠実性の欠ける誘導や推奨は、何かの別の目的のための利用であるか、詐欺的なものであることを知っているからである。そういう観点から考えるに政府やマスコミのコロナワクチンの説明は誠実であると言えるのかということである。これまで終始一貫してm-RNAワクチンを従来の季節性インフルエンザワクチンと同様に「ワクチン」という括りでしか用いてこなかったということは否定できない事実である。そういう不誠実な姿勢によって、国民の間に本能的な不安や不信の声が高まり始めると、何を血迷ったのか、河野大臣は権力を嵩にしてそれらをデマだと攻撃し始めたものである。デマも何もかつての、8年ほど前の子宮頸がんワクチンのように接種開始直後に、国の姿勢が一転して変更し、接種推奨が中止されるという事実も実際にあるのだから、そこは国民の不信や不安の声に寄り添って、それらを取り除くための丁寧な説明が本来はなされなければならないはずである。出来るのであればである。普通に考えればそれが、出来ないからこそ「デマだ」と情報弱者の国民を一方的に攻撃しているのであって、やはり政府や厚労省は国民に何かを隠して嘘をついていると見做されても仕方ないような状態が厳然として存在するということである。さらに決定的なことを付け加えれば、6月24日に国内の医師390人と地方議員60人の同意によるワクチン接種中止を求める嘆願書が厚生労働省に提出された事実やその際に行われた記者会見が、まるで機密文書の黒塗りのように全く報道されていないということである。よってほとんどの人は、そういうことがあったということを知らないであろう。これはコロナの世界的感染拡大以上の異常事態である。ユーチューブですら動画の公開を拒否している。狂っているとしか言えない。ユーチューブの公開拒否の理由としては

「深刻な危害を及ぼす可能性のあるCOVID-19に関するコンテンツはYouTubeで許可されていません。YouTubeは、地域の公衆衛生当局や世界保健機関(WHO)が提供するCOVID-19に関する医学情報と矛盾する、医学的に誤った情報を拡散するコンテンツを許可していません。」

ということだが、WHOの見解とは無謬なのであろうか。仮にも選挙で選ばれた議員や医師免許を持っている人々の主張なのだから、民主主義の否定そのものではないのか。このユーチューブのWHOの見解に反する主張は有害だと見做すポリシーに私はドナルド・トランプ氏が大統領選挙で敗れた理由を見るような気がする。トランプ氏が敗れた原因は結局それだったのではないのか。トランプ氏が主張する通り不正選挙であった可能性があるということだ。今の異常な状態はその疑惑を裏付けていると見ることが出来る。そして虎の威を借る狐のごとく日本政府や河野大臣などは、情報を国民の目から遮断させつつも、そういう主張をデマだと攻撃する。今、起こっている状態を大衆が理解することは難しいであろう。本当に国民の自由意思を尊重する「任意」であるならば、ワクチン反対派の意見を遮断させることにはならないはずである。人類に初めて試みられるワクチンであるのだから、たとえ少数であったとしてもそういう見解もあるとして、むしろ積極的に情報公開され、そのうえで国民の自主的な判断が促されることが筋道ではないのか。デマだというのであれば、その主張のどこがどのように間違っているのかを具体的に反論することが情報強者である政府や厚労省の責任ではないのか。それが出来ないで、戦時中であるかのような報道統制を掛けているのであれば、どちらがデマなのかということにならざるを得ない。これらを総合して私に見えてくる「任意」の意味とは、数年後にワクチン接種者に何らかの健康障害や異常が現れ始めて、医者に診てもらっても原因がよくわからないし、ワクチンとの因果関係も何とも言えないが、おそらくはワクチンが原因ではないかと思う人が増え始めてきた時に、強制ではなくて自分の判断の任意で打ったということであれば社会問題として声を上げにくいということになる。本当は任意であろうが、強制であろうが、国が認可して推奨しているのだから、国の責任なのだが、問題になるかならないかはその時の社会状況による。因果関係を個別に証明することが不可能であっても、一定割合の副作用を訴える声は状況証拠として無視できないことになるので、今の段階で「任意」を強調して将来的に何かの悪影響が出始めた時に人々が被害を訴えにくいように予防線を張っているのだと考えられる。厚労省の役人の思考回路とはそういうものである。要するに政治家も官僚もワクチンが絶対的に安全と言えるのかどうか本当のところはよくわからないのである。とにかく今、世界で進行している事態を説明することはとても難しい。(吉川 玲)

コロナと日本の内向き諜報

何も言いたくはないけれど、何か言わなければならない。その矛盾の狭間で、私はいつも窮屈に生きている。罰せられることはない。生きていることが、ある意味では、一つの罰のようなものだ。では聞くが、国家とは国民が生きていく上で十全なる信用に値するものであろうか。まあ一口に答えられぬということは、容易に予想できる。最も無難で、最も的を射た答え方は、「時と場合による」ということであろう。時と場合によって、国家権力は性質が変化するのである。常に国民の生命や人権が最大限に尊重されるかと言えば、必ずしも、いや言うまでもなく、そうとは限らないということである。平時にルーチンワークとして役所の仕事や行政機能が円滑に運営されている状況では、たとえば住民票を発行してその記載内容に不備や瑕疵がないかとか、免許証の更新時期の連絡であるとか、納税に関する手続きの説明などは、当然のことだがそこに嘘はないし、また敢えて疑いをさしはさむ必要性も存在しない。裁判所の判決や執行なども基本的には同様である。真面目で有能な官吏によって日々、運営されている。しかしそれらは国家権力の表層的な一面であって本質ではない。それを本質だとはき違えてしまうと、いざという時の適切な判断が難しくなってしまうであろう。例を挙げれば、戦争とか大規模災害やパンデミックのような状況で、政府は国民に真実で信用し得る情報を本当に伝えるのかどうかをいうことである。何も国家機密を暴露しろと言っているのではない。国民の生命や生活に重大な影響を及ぼす可能性がある情報を隠蔽することなく、すべて公明正大に政治権力が開示するのかどうかということを、私は今問題にしているのである。残念ながら現下のワクチン政策と一連の報道も私は政治権力行使による情報統制の一類型であると見ている。もちろん私は自分の考えを誰かに押し付けるつもりは毛頭ないし、議論しても無駄だと思っている。それぞれが自らの信念に従って判断する以外にないであろう。ただこれだけは言っておきたいということが一つあって、ネットに書かれている情報や意見は匿名による無責任で有害なデモであると、今、盛んに政府やマスコミが断定的に批判の声を高めている。そういう方法で大衆の支持や信用を取り付けようとしているのであろうが、むしろその運動の方こそがプロパガンダであることは明らかであって、ネットだから匿名性が守られているなどということは、私に言わせれば、時代錯誤の思い込みに過ぎない。そうだと信じ込んでいる人は何もわかっていないのである。ネットの匿名性とは個人や民間に限って成り立っている。よって誰かを名誉規範などで訴えようと考えても、相手の住所や名前の特定にそれなりの時間や金がかかって、ハードルが高いということは言えるであろう。しかし相手が国家や政治権力であれば匿名も何もなくて、ほとんどが筒抜けというと語弊があるかも知れないが、丸裸のようなものである。特別な調査などしなくともそういうことは権力機構にはわかるものである。そもそも、そのための権力なのだから。よって政府批判は無責任どころか、その正反対の行為であるとも言える。

これから述べることは、その証拠というか、ちょっとした実例のようなものだが、人によっては、そんなことはあり得ないとかフィクションだと思う人もいるであろう。私はこういうことで嘘をつかないし、また人の注目や関心を得るために偽りの話を創作する精神性やモチベーションは、まったく持ち合わせていないが、そう思う人はそう思ってもらって結構である。またむしろその方が私の気持ちも楽である。信じられない人は私が白昼夢か妄想でも見たのだと考えていただければよい。ある意味では、人生とは夢のような一幕のフィクションなのだから、それはそれで間違ってはいないのである。前回の記事、6月10日の「遺伝子ワクチンの危険性について」を投稿して数日後のことであったが、・・・いや、話しを進める前にまず、私の名前をきちんと公表しておくことにしよう。私の名前は吉川玲(ヨシカワアキラ)で、大阪市在住の57歳である。来月で58歳になる。宜しく。それで、その数日後に私の職場に警察がやってきたのである。もちろん私は何か悪いことをした訳でもないので、逮捕しに来たのではない。事実は小説より奇なりとは言うが、幸いにしてカフカの小説のようにいきなり不条理に逮捕されるようなことはない。それでは何をしに来たのかといえば、そういうことは今回が初めてではなく、以前にも何度か経験したことがあるのでわかるのであるが、私がブログに、政治的に好ましくない記事を掲載すると地元の警察が、用もないのにわざわざ私に顔を見せにやってくるのである。前回、警察が来たのはもう2~3年前のことだったと思うが、それがどういう内容の記事に反応してのものだったのか、忘れてしまった。大して気にはしていないのですぐ忘れてしまうのである。皆さんはどう思われるであろうか。名前を公表していなくとも警察はブログの記事の作者が私であることを知っていて、もちろんそういうことは一切、口にしたり匂わせるような態度はないが、日本的な所作とでも言うのか、以心伝心にそういう内容の記事を書かないで欲しいと伝える目的で、警察の顔を見せに来ているのである。高圧的な態度で圧力を掛けるようなことはないし、時間にしてもほんの1分とかそこらのものなので別に私は正直な所、特に何とも思ってはいない。「顔を見せる」とは言っても、表向きの理由はどういう用件で来ているのかと疑問に思われるであろうが、その口実は、防犯情報であるとか、特殊詐欺の注意喚起や、自動車のナンバープレートや車内荷物の盗難防止などの数枚の吉本の契約タレントが写っているビラを持ってくるのだが、そういう内容のことを私は警察に一切相談しているわけでもないのに、わざわざ警察が私一人に会いに来ること自体が不自然であるし、あり得ないことである。その上、警察は帰り際には、A4サイズぐらいの警察内部の名簿用紙のようなものを私に見せて、吉川玲という名前の氏名確認をしていくのだが、私の職場の建物は戸籍上、現在老人介護施設に入所していて住んではいないが、私の父の名義になっているので、そこに息子である私の名前が記載されていることもおかしいのである。よってそれも圧力や言論弾圧にならない程度の要請なのであろうと考えられる。誤解のないように断っておくが、私は別に腹を立てているわけでもないし、不快感や不安を感じてもいない。嫌味で言う訳ではないが、私ごときのために警察が公務の時間を割いて顔を見せに来ることが、お疲れ様という気持ちである。私は自分で言うのも何だが、善良な一市民なので警察が嫌いではないし、敵だとも思ってもいない。純粋で日常的な警察の業務であれば、私で協力できることであれば協力したいとも考えるし、何かの用事や聞きたいことががあるのであれば、私の職場にも何度来ていただいても、お茶を出したりのおもてなしは忙しいので出来ないが、基本的には歓迎である。しかし政治の手先となって行使される警察の顔見せであれば、話しは別である。私は頭はそれほど良くはないが、明晰なので(頭の良さと明晰さの違いについて話せば長くなるので別の機会にするが)瞬時にして色々なことがわかるのである。色々というのは日本という国家を取り巻く状況である。日本は平和で治安のよい国であるので、警察が政治に命じられて来るといっても、不快感や不安を感じるようなものにはならない。大げさなことを言えば、荷物をまとめて明日にでも日本を亡命しなければ身の危険を感じるということには、なりようがない。これがたとえば中国であれば警察に連行されて拘束され取り調べを受けたり、即日の裁判で有罪判決になるのであろうし、北朝鮮であればその場で銃殺されるのかも知れない。そういうことを考え合わせれば、日本という平和な国に生まれて幸福であった、神様、有難うという気持ちを感じるべきなのであろうが、残念ながらそういう気持ちにもならない。なぜかと言えば、私にはわかるのである。見えるのだ。ソフトな対応で以心伝心に政治の意向を警官の訪問に託すこと自体は日本的で別に私は抗議する気持ちはないが、私のようなどうでもよいような人間の元に警官が政治の意向で派遣されることが、少しずつではあろうが、日本の内部的な中国化が進行していて、その浸透度が危険水域をはるかに超えていることの、恐らくは兆候なのだ。日本は徐々に中国の影響力によって政治が、そして社会全体が社会主義化していっているのである。ワクチン政策自体はファイザーもモデルナもアメリカ製であるし、世界全体の共通した志向性の元で進められているので見え難いが、そういう意味では世界全体が全体(単一)主義化していっているようにも見えるが、細かく見れば日本は明らかに中国の総監視体制的な社会主義に組み込まれて行っているようであり、それが私には何よりも恐ろしく、そして不安なのだ。警察自体は怖くもなければ、嫌いでもない。日本は本来、アメリカなどよりも中国の政治との親和性の方が高いのではないかと考えられる。よって日本はいつ仮面を取っ払って、戦前の治安維持法の名称を変えた復活によって、自由な言論活動や政治運動が取り締まられる事態となっても最早、おかしくはないような気がする。それでは現在、日本においてどのような組織が情報を監視して、警察を動かすようなある種、非民主的な工作活動を行っているのか、ご存じであろうか。公安庁だと思われる人もいるかも知れないが、公安警察の職務はテロ対策や危険人物の洗い出しや監視であって、現下の政治政策に直結するような内容のものだとは思えない。また警察組織が、事件性のない情報を収集、分析し、それを政治的に独自に解釈して動くことも文民統制の点から考えてもあり得ない。政治家はそういうこと(インテリジェンス)をする時間も能力もない。正解は内閣に直属する内閣情報調査室である。日本の諜報組織と呼ばれて日本のCIAを目指しているのかもしれないが、日本の政治的な特性というか限界で、世界中の情報を収集・分析して外交活動や経済力の向上、先端技術の導入に取り組むような、007のような格好のいいものではなくて、おそらくはやっていることのほとんどは国内のマスコミ対策なのである。内閣情報調査室の職員は、TVや新聞だけでなく刊行されている全ての雑誌に目を通しているとのことである。よって記者クラブに加盟しているマスコミだけでなく週刊誌などもいわば以心伝心か忖度か知らないけれど底流においては政治権力と結びついているのだ。よってSNSやブログ記事なども監視しながら、定期的に内閣総理大臣に情報を提言し、政治の指示を受けている機関が内閣情報調査室である。元々日本の民主主義とは本当の民主主義ではなくて、政界や財界、マスコミ組織によって恣意的に誘導し、作られたものなのであったが、前任の第二次安倍政権が長期化し、特定秘密保護法などの安全保障上の要請という大義から民主主義の根幹である自由闊達な言論活動が内向きに萎縮すると同時に中国政治の影響力の増大によって、日本社会そのものが社会主義化していっているものと考えられる。政治にとってはその方がやり易いし、統治しやすいのだ。内閣情報調査室はその急先鋒となって今後、対外的には何の力もない秘密警察になっていく危険性も小さくないと危惧される。いやもうすでにそうなっているのかも知れない。今の菅総理などは安倍総理以上にそのような内向きの権力志向が強いと見られる。恐らくは私のブログ記事も菅総理自身が、内閣調査室長から報告を受けて、このような内容の記事は怪しからんから地元の警察に働きかけをするように命じたのだと思われる。信じる、信じないはあなたの自由である。この世の出来事の全ては、人間の意識が生み出したフィクションなのだ。コロナという現象も恐らくはそういうものだと言えよう。存在すると言えば確かに存在し、存在しないと言えば、確かに存在していることの存在証明は難しいとでもいうのか。

遺伝子ワクチンの危険性について

ダメだな。全然、話しにならないよ。問題にすべきは一時的な頭痛とか眩暈、筋肉痛などの「副反応」ではない。皆さん、国語のお時間です。健康にかかわる大切なお話ですので、注意してよく聞いてください。それでは聞きますが、「反応」と「作用」の字義的な違いは何でしょうか。分かりますね。反応は一時的なものです。作用は残存して中・長期に及ぶ可能性がある機序(メカニズム)です。一時的な反応などどうでもいいことなんだよ。ワクチンなど打たなくとも、普通に生きていれば頭痛や筋肉痛など誰でもするわ。そうではありませんか。よく聞いてください。ファイザー社のmRNAという遺伝子ワクチン、モデルナ社についても同じですが、について政府やマスコミは国民にほとんど全く説明していないに等しいものです。mRNAとは何かと言えばウイルスそのものではなくて、ある種のたんぱく質を作らせるための設計図です。設計図と言えば安全なように聞こえるかも知れませんが、設計図に基づいて遺伝子レベルでの反応を引き起こすための命令と言い得るものだと考えられます。それに対して従来のワクチンは弱毒化したウイルスそのものの言わば「異物」です。異物はそれほど恐ろしいものではありません。人間の肉体は、花粉やほこり、細菌、ウイルスなど無数の異物を体内に取り込んでいますが、ほとんどは自然に排出されて除去されてしまうもので、まあ花粉症になったり、風邪をひいたりする程度で重篤な症状になるものではありません。いうまでもなく肉体は物質ですが、物質レベルの微細な異物混入は生命そのものを脅かすものではありません。一方で肉体は物質であると同時に、アデニンA、グアニンG、チミンT、シトシンCの4種の塩基配列の膨大な配列による情報系でもあります。情報系の観点から見ると、人間の肉体とは高度なコンピュータと何ら変わらないものであると言えます。遺伝子ワクチンの恐ろしさとはその情報系を狂わせる危険性があるということなのです。想像してください。あなたが普段、使用しているパソコンに何らかの誤作動が生じて、それを修復するために特定のコマンドを打ち込むとします。その命令が言うなれば、遺伝子ワクチンのようなものだと見做すことができるでしょう。パソコンはコマンドによって意図した通りに修復され、正常に機能するようになるかも知れません。しかしもしそうならなかった場合、問題はそのコマンドそのものを微細な異物が排出されるように消去したり、或いは時間を遡らせて、なかったことにすることはできないということなのです。一旦、打ち込まれたコマンドは、どのような影響を及ぼすかわからないままに永遠に残存し続けるということです。パソコンで見れば、パソコン内部には無数のバグなどのゴミのようなプログラムの不具合があるでしょうから、それが一つ増えるだけで何の問題も生じずに正常に使い続けることができる可能性が高いとも言えますし、運が悪ければ中枢の基幹的なシステムを破壊して、フリーズしてしまったりパソコンそのものが壊れてしまうこともあるでしょう。いずれにしてもそれがパソコンであれば、重要なデータさえバックアップして取っていれば、最悪、壊れても買い直せばよいだけの話しです。しかし肉体は買い直したり、作り直すことはできません。最悪の場合は、死んであの世に行くということです。遺伝子ワクチンとは、設計図の命令を通じて、遺伝子の組み換えに結びつく可能性があるものです。たとえば寒さや害虫に強い農作物を品種改良で作るために、延々と交配を繰り返して作られたものを食べることは何ら問題はありませんが、遺伝子操作によって短期間に作られたものを食べることは危険だとされていますが、それと同じことです。それがどのような結果をもたらすのかデータがないから予測がつかないのです。日本のマスコミはコロナのワクチンを打つと不妊化の危険性があるのではないかとの心配の声に対して、一方的にフェイクだと決めつけました。一体、何の根拠があってそのように断言できるのでしょうか。短期的な臨床試験のデータはあっても、長期的な実例は初めての試みということで皆無なのですから、あらゆる危険性を想定しなければならないはずです。不妊や胎児の奇形は当人にとってはきわめて深刻な問題なのですから、不安の声が上がるのは当然のことです。今、ここで自信を持ってはっきりと明言しますが、フェイクなのはマスコミの方です。間違いありません。とにかくも遺伝子ワクチンというものはそう簡単に踏み越えてはならない領域だと言えます。数か月や半年程度の臨床データで承認されてはならないもののはずです。しかしそうは言っても、今の世界のコロナの感染拡大を考えれば悠長なことも言っていられないということもあるので、緊急の処置として認めざるを得ないことは理解できますが、それでも国やマスコミの説明責任が省略されてもよい理由にならないことは当然ですし、12歳から15歳程度の子供に打つなどということは論外です。犯罪行為といっても過言ではないのではないでしょうか。国が決定したことに犯罪が認定されるのであればということですが。ともかく人間の肉体を物質を離れて情報系で見ると別の理解が得られると思われます。コロナに関する問題は、そういうところに集約されるのではないでしょうか。情報(ワクチン)で情報(肉体)を操作するということは恐ろしいことなのです。物質は排出されても命令は残存して影響を与え続けるのです。日本の医者は金儲けのことばかり考えて不勉強なので知らないか、理解できていないのでしょうが、それを専門的にはエピジェネティックな変異と呼びます。私は自分自身で経験したことでもありますが、皮膚に強いステロイド剤を長期間、塗り続けてもエピジェネティックな変異は起こります。しかし証拠がないので医者はそれを認めません。完全犯罪みたいなものです。とにかく薬は皆さんが思っている以上に怖いものです。その怖い薬を自分が使うのならともかく、或いは楢山節考ではありませんが間引きのために年寄りに勧めるのであればまだしも、これからの将来のある子供たちに打たせてもよいものでしょうか。TVでわかったような顔で視聴者にコロナワクチンの安全性(もしくは危険性の低さ)を訴えているキャスターや医師は本当に自分の子供や孫に家庭に戻って同じセリフが言えるのかと言うことです。皆さんはどのように感じられるでしょうか。