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No Rice,No Life! 佐藤琢也公式ブログサイト

企業論、人財論、労働論、マーケティング論、プロモーション論。
時事問題、関心事、個人的な日常など、徒然なるままに綴ります。

先週のパリ同時多発テロ。周知の通り、惨劇だった。(今日現在、犠牲者は132人・負傷者349人)

今年1月に起きた風刺週刊紙『シャルリー・エブド(編集部)襲撃事件』に続いてのテロ行為だが、最大の犠牲者が出たコンサートホール『バタクラン』(82人)をはじめ、少なくとも15カ国の人々がその対象になってしまったようだ。

更に。実行者の1人、「アハマド・アルモハマド」が持っていたとされるシリア旅券は、他の難民と一緒に上陸した証でもあった。(先月10/3、ギリシャのレロス島へ)

ふむ。ドイツをはじめ難民の受入れを表明している国々にも動揺が広がりそうだ。現にメルケル首相の支持率は54%まで一気に下がったのだけれど。(まだまだ下がるだろうな)




一方、日本。フランスに哀悼の意を捧げ、支援しようとする人たちが沢山現れている。たとえば、TwitterやFBのアイコンにトリコロール旗を被せたり、プロフィール写真をトリコロール色にしたりと。

とはいえ、これには賛否両論があって『偽善的では?』という皮肉交じりの論があったりもする。

他者から『人格者』、『善人』という評価を得たいだけなのでは?という自己満足論であったり、『ならば、世界でテロがある度にその国旗を掲げるべき』という趣があったりと。

もちろん、もっと丁寧に語らなければならないことは理解しているつもりだが、『なるほどな』と思うと同時に、ふと、どこかタプるような気がした次第だ。自己啓発系のものと。




自己啓発とは誰のため?といえば、自分のためである。スキル、能力の向上。精神的な成長。より高い段階へ。諸々と。

個人的なそのイメージとは、たとえばこんな感じだ。「幸せになる方法」。「キャリアアップを手に入れる7つの方法」。諸々、いずれも自分が主語的な。

当然そこには他者への恩恵という意もあるのだろうけれど、どことなく微妙感が漂うような気がする次第なのだ。

なんかこう、自分さえ良ければ的な。資格を羅列できるぜ的な。他者への恩恵とはいえ、順番が違うのでは的な。

なので、いつの頃からかこの手の思考があまり好きではなくなり、自己啓発系本もすっかりと読まなくなったのだ。

他者のためが、結局は自分のため


自分が何かを得たかったら、その前に、それ以上に、他者に与えなくてはならないのではないだろうか。

いや、そう目論むものではなく、単なる結果論なのではないか。そうすることでしか満足感も得られないのではないだろうか。自己啓発本的に言えばこういう感じで。

「すぐ隣にいる人を助ける方法」、「ダイエットに励む人を手助けするための5つの方法」、「あの人が理想のキャリアを手に入れられるよう、協力できる7つの方法」とか。

仕事もそうだと思う。売りたい。儲けたい。数字や成果、実績を出したい。と願っても、なかなかそう都合通りにはいかない。

相手が喜んでくれて。笑ってくれて。売上が上がって。儲かって。心が豊かになって。そういう手伝いができた結果論として自分にも良いことが返ってくるわけで。そこにはこちらも嬉しいという満足感も付いてくるわけで。

他者からの評価も含め、そういうものだと思う次第なのだ。ようするに。

テロとの対峙。ボクのような凡人にはその解決策は分からない。国際社会のため立派なこともできない。が、ただただ平和を祈り、募金に協力し、支援をしようと思う。

そして、自分の周りというごく近くにある社会。関わりのある人たち、クライアントの先々、取引先へ自分ができることをしようと思う。ただひたすらに、全速力で。ただそれだけ。

ま、それしかできないとも言えるわけだけれど、それもまた自分なりの社会貢献だと思う次第だ。

さ、明日も頑張ろう。
物事とは、万華鏡の如くである。
どう捉えるか。自覚するか。認識するか次第で、こう無限的に変幻するのだから。

それゆえ大変面白く、美術品のような趣きもある。そして、厄介なものでもある。


たとえば、『価値』。
最高の食材、名の知れたコック、妥協なきこだわり、洗練された店舗、スタッフがいるレストランは、どうなるだろう。

まず、店舗側から眺めれば、『高い価値がある』と自負するはずだ。

『あまから手帖』などのグルメ雑誌、あるいはグルメサイトはどうか。ステークホルダーであり、スポンサーを否定するはずがないわけで、これまた『価値がある』と伝えるだろう。

一方、生活者側はどうか。
『高い料金を払ってまで食べようとは思わない』となれば、『価値はない』と傍観することになる。

しかし、周りにいる人たちの声によっては違う判断をするかもしれない。『行く価値があるよ』と、口々にされれば。

ようするに、万華鏡の如くなのだ。

人は自己中に考えるものだ。良くも悪くも。
なので、『自分にとって関係があること、良いこと』には価値があると捉え、認識する。そういうクセ、傾向があるだろう。(もちろん、人によって違うわけだが)

そして、そう認識した人は節約を厭わず、何が何でも行きたいという強い意志を持つはずだ。前述のレストランであれば。

ということは、生活者が覗き見た万華鏡の姿を描写し、考え、伝えないと『価値を共有できない』と言える。つまり、『行かない、買わない、利用しない』という無関心的な現象だ。

巷には企業(店舗)が見た万華鏡の姿が溢れている。当たり前だが、企業自体には意思も自覚もなく、そこにいる人たちが覗き込んだものを映し出しているわけだが。

とはいえ、ふむ。物事を無限的に変幻できるとは誰もが持つ知性、知恵、能力でもある。それまたビジネスのフェアさであり、面白いところだろう。

そう。誰もが輝けるチャンスがあるのだから。目の前に。
失敗じゃない。
プロモーション、販促物という領域の殆どは『仮説というテスト』の上に成り立っているのだから。

いや、永遠に正解に辿り着くことはなく、そして、完璧なるは無き世界なのだから、そもそも失敗という概念は存在しないのだ。

たまに、問答無用的に『これが正解だ』となる人も見かけるが、根拠が乏しく曖昧すぎるものも多々ある。オール主観というか。

つまり、先入観か。経験則から来るものか。いや、意地やプライドなのかもしれない。が、そういうジャンルに属する類のバイアスが強化されているだけのことだろう。

とはいえ、それもまた人らしさなのだと思う。誰だって自分の都合に合わせ、思い込みたいわけで。自分こそが正しいと信じたいわけで。(もちろん『自分を信じる』とは、信念的な意味では大切だと思う)




ここで大事なことは、相手もまた生身の人間ということだ。生活者(お客さん)は、移り変わるのである。

感覚も、行動も、傾向も、距離感にしても。興味関心や感じる価値、合理性の定義、諸々にしてみても。

きっとあなたもそうだろうし、ボクもそうだ。例えるのならば春夏秋冬、四季の如く自然と流れていくことは当たり前なのだ。

更に付け加えるのならば、そのスピードは想像以上に速いわけだから、常に現実を直視、客観視しないと、気が付けばガラパゴス化的な。裸の王様的な。冬なのに半袖短パンで過ごすがゆえ風邪を引くような。そういうことにもなり兼ねないのだ。




やや話が二転したが、仮説とはテストである。
正解が分からないがゆえ、『こうしたら良いのでは』という単なる試行の連続だ。

具体的には、ある仮説を基にシナリオを何パターンか創り、それに沿いやってみるわけだが、そこで見えてくる諸々がある種の正解であり、次のヒントをもたらしてくれる。

その仮説自体を捨てた方が良いのか。あるいは、修正すれば良いだけなのか。どこをどう修正すれば良いのかというように。ようするに、それだけの話なのだ。

誰だって失敗はしたくない。もれなくセットで付いてくる嫌な感情、苦痛も味わいたくない。もちろん、ボクもそうだ。

とはいえ、失敗じゃないものまでそう捉える必要はないと思う。
いや、プロモーション、販促物という領域の殆どは『テスト』であって、失敗という概念自体が存在しないのだから。

なので、少しぐらい躓いたって自信を失うことはない。最初の数人のリアクションが薄くても焦り躊躇する必要はなく、『無難に。差し障りなく』と、慣れたやり方に形状記憶的に戻る必要もない。

大丈夫。あくまでもテストなのだからさ。

さ、明日は猛烈にデスクワーク。そして、夕方からの打ち合わせ。頑張ろう。全速力で。