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最高の瞬間の無限を生きるための世界観への道

法衣を脱いだ真言密教・仏教徒が説く、精神修養にて日々を最高の自分で過ごす為のブログです
変化と向上のための実践を徹底追求しています
魂の成長を求め、心を浄化し、混沌の世で最高を生きましょう

みなさんこんばんは、緒川賢治です

 

一昨日のことですが、久しぶりに篠栗にお参りに行きました

 

GWということで、家にいても仕方がないと思いつつ、家は家で昨年引っ越して快適なので、家でもいいかなと思いつつ、せっかく天気もいいから、緑に囲まれた場所で癒されようと思い、恐らくそんなに人がごった返していないであろう、篠栗に行くことにしました

 

とりあえず、朝から出発して、行きつけのパン屋さんでアウトレットパンを購入して、食べながら行きました

 

途中、お店を大量に増設中の道の駅的な市場に立ち寄り、そのすさまじいまでの市場拡大を目にして、何というか、私もそのやる気というやつをいただいて、ハイテンションで篠栗に向かいました

 

とはいえ、どの寺院に行くか決めていなかったので、篠栗のコンビニでコーヒーでも飲みながら、3か所ほど決めました

 

まずは、行きつけの寺院で、いつも身内の祈願でお世話になっているところです

 

次に、どうしても気になっているんだけれどどこだったかを忘れてしまった寺院を探したいと思いつつ、こちらも行きつけの大寺院に行きまして、そこでうどんを食べました

 

うどん屋さんのおばちゃんがものすごく良くしゃべる人で、かなり楽しめまして、ありがたいお話もたくさん聞けました

 

次は、適当に決めたところですが、何とそこに行ってみると、これまでどうしても気になっていたが忘れてしまっていたまさにそのお寺だったのです

 

そのお寺さんは、はっきり言うと、時間の流れそのものが異質な雰囲気に包まれており、究極の癒しが体験できます

 

さらに、相談者も多いようで、お茶を出してくださるおかみさんのような雰囲気の女性のお坊さんも、どことなく霊能者的なオーラを出しています

 

今日はものすごくいい日だなと、カミサンとともに喜びながら、お参りしました

 

実はもっとゆっくりと時間を取って、他にも行きたい寺院があったのですが、まあ、それは次回かその次以降でということで、その日はそこで終了にいたしました

 

また、GW中に、篠栗に来ることに決めたのですが、その日は、護摩行三昧という感じで、護摩行が行われている寺院を狙い撃ちしていく予定です

 

そして、昼からは瞑想教室に行きます

 

ここのところ、護摩を焚きたいという衝動に駆られていまして、ひそかに次第を覚え直しながら観想のみの内護摩を焚いたりしています

 

YouTubeとかで、護摩焚き動画を見たりしながら、俺もいつか護摩壇を作って護摩焚きをするぞと意気込んでいます

 

そして、カミサンが阿字観瞑想に興味を持ってきまして、篠栗で研修を受けながら、うちにある阿字観本尊で瞑想するようにしようということになっています

 

何でもものごとが思った通りになっている、本当に素晴らしいことです

 

もっと定期的に篠栗を訪れて、じっくりとお参りして回らんといかんねとかいいながら篠栗にやってきて、うどん屋さんでおばちゃんが言っていた一言が、ガツーンと来ました

 

篠栗は行の場所なんよ、行をして初めて意味があるったい

 

うーん、まさにその通りなんでしょうね

 

ちなみに、そのうどん屋さんに入った理由ですが、たまたま覗いた時に篠栗八十八ヶ所巡拝マラソンのポスターが張ってあって、それを見にいって、そのまま席に座ったんです

 

そしてまた、その篠栗巡拝マラソンも、ずっと気になっていて調べてもよく分からなかったことだったので、ポスターを見つけた時は、思い切り興奮しました

 

来年は巡拝マラソン参加したいと思います

 

 

篠栗を後にして、次に向かった先は、車屋さんでただでケーキが食べられるカフェです

 

そこで、コーヒーを飲みながらケーキを食べながら読書です

 

これもまたですね、これまでは違う方向の別の支店に行っていて、ちょっと遠いので時間が持ったなかったんですが、篠栗に行く途中の近場にあるので、今度から月一で篠栗に行って、帰りにカフェに行くように決めたので、全てが合理的になって最適化できた気分です

 

あるがままに動いていたら、現実がピシャッと思い通りに作られていったという、まあ、何とも良い一日でした

 

ほとんど直感通りにしか動いていませんから、まあ何というか、奇跡的にスムーズに事が運んだ日だったという感じですかね

 

 

 

いつもお読みいただき、ありがとうございます

 

 

 

 

 

みなさんこんにちは、GW中ですが、すべきこととしたいことがごっちゃになってしまって、空回りしたまま半ばが過ぎようとしている、緒川賢治です

 

本日は、ちょっと身に染みた出来事がありましたので、報告させていただきます

 

つい先ほどのことですが、自転車で帰宅途中に、対向車側で幼稚園の送迎バスが一車線の離合が難しい狭い道路のカーブのところで止まっていました

 

そこに差し掛かって、なんちゅうところに停めているんだこのバスは、と思いましたが、迎えに来たお母さん方とバスから降りるお子さんたちが和気藹々としている光景に、まあいいかと思い、前方を見ると、バスを追い越そうとしている車が何台かいたので、ちょっとだけ待ちました

 

しかし、どうも躊躇しているのか、来る気配がなかったので、私は自転車をこいで通り過ぎようとしました

 

すると、一台の車だけが同じタイミングで強引に進んできました

 

お年寄りの方で、前方の確認があまりできない方なのかなと思って運転席を見ると、ちょい悪オヤジみたいな人で、車は黒のベンツでした

 

そして、ぶつかりそうになり、私はバランスを崩して植木にはまるようにしてもたれかかりました

 

そのベンツの運転手は、私が見えているのか見えていないのか、バスの運転手のおじちゃんの方を怖い顔で睨みながらゆっくりと進んでいます

 

しかし、時たま私の自転車と当たらないかも確認しているようです

 

そうこうしてやり過ごした後、何とも言えない気分になりました

 

本当に嫌な気分です

 

しかも、服のポケットや、靴の中に植木の枯葉のかすのようなものがたくさん入ってしまいまして、不快指数が100パーセントです

 

そこでですね、ふとあることを思い出したんです

 

かれこれ3か月ほど前ですかね

 

同じような狭い道路を車で運転中に、前方から来た自転車のおじいちゃんとすれ違った後で、ふとバックミラーを見ると、自転車のおじいちゃんが溝にはまっていたんです

 

車を止めてすぐに駆け寄って、おじちゃんを助けようとしましたが、どうもおじいちゃんは怒っているようで、何やら、私が道路の真ん中を走っていたためぶつかりそうになったのを避けて溝にはまったということみたいでした

 

謝りましたが、同も腑に落ちないのが、そこまでぶつかるほど近づいてはいないということです

 

それでも、おじいちゃんは、気をつけろとだけ言い残して足を引きずるようにして自転車をよろよろとこいで去って行ったので、やはり、その後も気になっていました

 

何時しかそれも忘れていたのですが、本日それを思い出しました

 

あの時のおじいちゃんの気持ちを考えると、やはり、ものすごく反省しないといけない

 

本日私に起こったことは、まだまだ何でもないことだと

 

そう考えると、残るのは、ただ以前の反省のみで、先ほどまでの思いは消え去りました

 

すると同時に、靴やポケットに入った枯葉のクズも、自然の産物であり汚いものでも何でもないという思いが湧いてきて、自分がいかに愚か者かを思い知り、自分で自分が笑えてきました

 

因果応報というわけではありませんが、こんな学びのパターンもちょくちょくあるので、常にこの世の法に目を向けていると、どんなことでもきめ細かに学びに変えていけるようになります

 

 

いつもお読みいただき、ありがとうございます

 

 

 

 

 

 

 

みなさんこんばんは、緒川賢治です

 

昨年9月に足底腱膜断裂し、後遺症が足首から膝まで及んでいましたが、入念なリハビリとトレーニングをすることができたおかげで、ほぼ完治しました

 

まだ、膝と足首に少々残っていますが、とりあえずは、ジャンプしたりスクワットしたり、ランニングしたり、ということが可能になったのでご報告します

 

足底腱膜のかかとから親指をつなぐ部分が断裂したままで、ほぼ、その部分の足底腱膜は無い状態で、ブリッジが効かない状態のままですが、うまい具合に肉がつき、つま先立ちを支える力もつきまして、思い切った踏ん張りがきく状態まで戻すことができました

 

ただ、ここにいたるまではかなりの苦労があり、まあ、それはそれは絶望的な状況だったことは否めません

 

しかしながら、人体の可能性というか、潜在能力というか、凄まじき回復能力というものを体験することができ、本当に良かったと思います

 

そして、またフルマラソンやトレイルランニングレースなどにも参戦できるということで、とてつもない意欲に燃えています

 

さらに、足が悪い間に、リハビリと合わせて全身のあらゆるトレーニングをしていましたので、全身がパワーアップしております

 

転んでもただでは起きない、というのを実現できて、気力体力ともに充実しております

 

 

さて、なぜこんなお話を突然するのかというと、普通で言うと、絶対に完全な回復は不可能であることだからです

 

足底腱膜が切れたということは、足を使う趣味はほとんど無くなった、というくらいのことであり、これからフルマラソンやトレイルランニングに挑戦するという未来が絶たれたことを意味します

 

毎日毎日、筋トレとストレッチとアイシングを入念に繰り返すことで、ここまでこれました

 

ダンベルを持ったスクワットをしていると、足裏と足首と膝が悲鳴を上げます

 

これは本当にとてつもなくきついし、とてつもない不安に襲われます

 

そう、悪化するのではないかという不安です

 

それでもひたすら自分を信じて繰り返す

 

というよりは、自分自身の持つ筋トレ関係の信念を信じて、ある種の確信のようなものを持って、頑張るんです

 

どういうものかというと、運動して痛めつけて、冷やして毛細血管の出血を抑えて、温めて休む、というこの繰り返しで、身体の代謝と回復能力で、必ずや元通りに限りなく近い状態に戻るという信念です

 

これをもしもですね、この現状を受け入れてしまって、諦めてしまったら、はっきり言って、足を使った運動関連を全て放棄してしまうことになります

 

何事も為せば成る、という信念は絶対に大事です

 

そして、正しい情報と正しい智恵が必要になります

 

徹底的に運動して徹底的に冷やす、これを否定してしまって、絶対安静と温める行為を行ってしまうと、代謝と再生に逆らい、悪い部分が悪いまんまで固まってしまいながらケガだけがおかしな形で回復するという事態になります

 

このことは、科学的に証明してみよと言われてもできませんが、昔からのたくさんの経験で、自分自身として確信を持っていることです

 

いかがでしょうか、これは、多くの人が陥っている諦めパターンと同じになります

 

自分自身が何を信じてどのように行動するかのお話となります

 

まあしかたがない、それはそれで受け入れよう、そして、またそのまま、今のまま、ありのままで、これからも頑張っていこうという考えでしたら、とりあえずは、積極的に徹底的に治そうとはしないでしょうね

 

しかし、人間の体というものは本当にすごいです

 

きちんとケアすれば、絶対に元の自然な形に戻るように回復していくものなんですね

 

動かして整えるというのが絶対条件となります

 

そして、下手に動かすと悪化するので、その悪化を食い止める行為が必要となります

 

毛細血管の細かな出血を止めるということです

 

そして、腫れを抑えて温めるということです

 

さらには、、とりあえずシップとか塗り薬をつけておきましょうという感じですね

 

もっと言うと、しっかりとストレッチをして、膝軟骨の再生サプリを飲んで、足全体の筋肉も鍛えましょうという感じです

 

 

いかがでしょうか、自分の意識の重要性というか、自分がどう思ってどう対処するかが多くの割合を占める事柄だと思います

 

このことから、あらゆる物事にも応用が利くので、こういう考え方というのは本当に大事だと思う次第です

 

 

いつもお読みおいただき、ありがとうございます

 

 

 

 

みなさんこんばんは、緒川賢治です

 

密教の修法をしていると、仏教と密教は全く別物だなと思います

 

実際は、同じものであるのですが、実践方法が違います

 

諸仏と一体化する観想は、仏教の基本にはありません

 

しかし、仏教が分かっていないと、密教は中途半端になります

 

この辺がですね、曖昧さ極まりない部分であると思います

 

これがですね、実は、誰もが正しく学べるわけではない秘密の部分なのですが

 

最終的には、形にはこだわるなというお話になり、無相ということになります

 

体系づけられたイメージは、どう考えても真実というより人工的想像の幻でしかないので、これが絶対的な壁となり、悟りを妨げる要因となります

 

これだ、というものはありますか?

 

これぞ真実だという答えはありますか?

 

仏教は、スッタニパータと中論が標準的になります

 

それは、基本中の基本であり、もっともシンプルかつ素直に表現されている、何の脚色もない教えだからです

 

とりあえずは、お釈迦様の理にかなった求道心や目覚めの本質、そして、大乗仏教の空性と縁起、これさえ押さえていればいいのではないのかというくらい、実は分かりやすい選択肢が溢れています

 

そこで、密教の登場です

 

なぜ密教のような形に発展したのか

 

人間界の真髄をとことんまで追求していくと、僧侶が密教を実践する世界につながります

 

ただ、厳密に言うと、仏教・密教の歴史が単なる偶然な必然の流れなので、特別に理由とか結果とかは必要ないわけです

 

ただ、それらがあるという言い方になりましょうか

 

そう、ただ、それらは、そういった形となっている

 

般若と方便

 

雰囲気先行型のたくさんのスタイルが溢れていますが、本質に立ち還ると、インドは密教となります

 

この辺はですね、本当に言葉で説明するのは不可能に近いです

 

どんどん作ってどんどん作って、発展した完成がたくさんあります

 

キリク字が蓮華座となって、というのが実在の世界であるかどうか

 

そして、それが何のための観想なのか

 

真言は何故真実語だというのか

 

この辺がまたですね、なぜこんな質問があるのだろうかというお話に実はなります

 

仏教と密教を、こんな観点から見つめてみるとまた違った感覚を味わえるなと思いながら書き綴っています

 

そして、これぞ、幻であり、言語の限界というものの現れであることが分かります

 

言葉がなすイメージというものが面白いです

 

そして、こういったことを踏まえて仏教・密教のたくさんの流派の思想や表現を一つ一つ眺めてみましょう

 

ここに、ある種の可能性というものが働いた痕跡が見つかります

 

 

いつもお読みいただき、ありがとうございます

 

 

 

 

みなさんこんばんは、緒川賢治です

 

 

目まぐるしく展開していく日々の中、ちょっとした余暇の夜のひと時に、まあ、先程のお話なのですが、夜空を眺めておりました

 

何というかですね、自分とは一体何なのか、ということを漠然と考えていたりするわけです

 

もちろん答えなんて出ません

 

この世とは何なんだろう

 

自分の置かれている状況は何なんだろう

 

人生は何なんだろう

 

夜空の向こうには宇宙がありますが、結局のところ、何らかの真実というものを思う時、自分自身の中にしかありません

 

全体の一部、一部からの全体

 

自らに全て内包されるこの世という大宇宙

 

しかしながら、外からは何も得ることはできない

 

何を受け取るでもないわけです

 

この世のご縁というものは、まあ、それ自体が生き物みたいな形の刹那刹那で完成されておりますが、全ては完成系に至ることはできません

 

だからこそ、心中にありとも言うべきなのでしょうが、そんな自分自身なんて、ちっぽけなものです

 

心の中が無限であり、その蔵に真実を見出すと言いますが、それに対しては、とてつもなく大きな壁があります

 

これを壊すには、全体と通じるように澄んだ魂を得よと言えども、この辺はですね、どう考えても限界があります

 

じゃあ、一体何をどうすれば良いのだというと、ただありのままで良いと言うのでしょうが、いやはや、そもそも不満というものがどこかにあるのでしょうかね

 

成長欲というものはどの方向を向くのが正しいのかというようなお話まで発展することができますが

 

不毛な世界における完全な調和ということで日々をまんべんなく過ごせるのならば、何も変わらずにただその日暮らしで、この世の動きに委ねていればいいのでしょうね

 

しかしながら、全ての不満はそこから発生します

 

じゃあ、何か努力しても不満を持ち、何もしないでも不満を持つということで、本当の意味で馬鹿にでもなってしまえばいいというのかというとそうでもなく、まあ、こだわりを無くすということが求められているのでしょうか

 

生きているからいいではないか、ただ生きよう

 

でもですね、これが難しいんですね

 

なぜ難しいのか

 

たくさんのめんどくさい制約の中にがんじがらめに囚われてしまっているからです

 

この世とは、人間社会なんですね

 

何かを生み出すということが、実は本当に難しいです

 

気がつけば、社会の動きに流されて飲み込まれてしまいます

 

じゃあ、立ち向かうのが良いのかというと、そうでもない

 

ここで、無になれと言います

 

委ねよと

 

でもですね、やはり、突破口は、自身にあるということしか考えられません

 

日常生活は、不毛なルーティンに支配されてしまいます

 

ただですね、その中において、この一見ルーティンだという実は幻の中に、究極の真実というものを見出すことができるかもしれませんが、これは本当に難しいです

 

というようなことを、夜空を眺めながら考えていたのですが、何というかですね、バルコニーでボケーっと椅子に座って眺めていて、周囲が照明でライトアップされているので、近くを通りかかった人がもしもうちのベランダに向かって見上げると、少々ホラー的な要素があります

 

しかし、夜空を眺めるのって、気持ち良いですね

 

心がだんだんと澄んできます

 

山奥で星空を眺めたくなってきます

 

そんなこんなで、ちょっとブログでも更新したくなりましたので、日記みたく書いてみました

 

本日は、いろいろと読書をして、早めに休もうと思います

 

 

いつもお読みいただき、ありがとうございます