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最高の瞬間の無限を生きるための世界観への道

法衣を脱いだ真言密教・仏教徒が説く、精神修養にて日々を最高の自分で過ごす為のブログです
変化と向上のための実践を徹底追求しています
魂の成長を求め、心を浄化し、混沌の世で最高を生きましょう

みなさんこんばんは、緒川賢治です

 

本日はちょっとした問答を行いたいと思います

 

 

題して、人と人は分かり合えるのか

 

 

人と人は、厳密には分かり合えない

 

いや、そういうのもひっくるめて、分かり合えるものなんだ

 

お互いに分かろうとして歩み寄る

 

そして、いつしか、思いは一つになり、分かり合えるのだ

 

でも、厳密には、一人一人の認識も思考も違うから、絶対に分かり合えるなんてことはないのだ

 

だから、そういうのもひっくるめて、実際は分かり合えるものなんだって

 

全部ひっくるめてみると、最終的には、分かり合えないなりにも分かり合えているものなんだって

 

でも、どう考えても現実的に、完全に分かり合えることなんてないに決まっている

 

一人一人同じ人なんていないから

 

だから、そういうのも分かった上で、お互いに理解し合うことで、最終的には分かり合えるってことなんじゃないの

 

でも、厳密的に言うならば、分かったつもりになっても、それはそれぞれの認識の違いによって、実際は何も分かっていなかったりするだろう

 

いや、そういうのもひっくるめて、分かり合えているってことなんだよ

 

分かり合えていないのも分かった上で、その上で、お互いの存在や主張というものを受け入れて、分かり合っているんだよ

 

でも、これって、分かり合えていないのを分かった上での相互理解ということならば、結局のところ、お互いに分かり合っていないということがそれぞれ分かっているということになるだけで、結局は分かり合っていないということなのではないか

 

だから、そもそも、分かるということ自体が何が分かっているのか分からないことだから、その、分かるということ自体が厳密には成り立たないから、そのことがお互いに分かっているならば、それぞれの観点が違っていたとしても、最終的には、分かり合っているということになるんではないのか

 

こういったことを徹底的に追求していくと、二極と相対と俯瞰と中道というものの定義を言葉を超えた世界で作っていくことができます

 

 

そして、結論としては、人間が分かり合えると思えば、分かり合っていることにできますが、実際問題、分かり合えるというのがどの部分でという条件付き以外に、何もかもが分かり合えるというところまで行くと、それは普通の人間の能力を超えた範疇であるということになります

 

分かるわけないではないですか

 

しかし、逆に実際問題としては、観察力などによってある程度までは分かりますし、相手と自分が同レベルであれば、そこそこお互いを分かり合うことができます

 

でもですね、それに同意するかというと、別問題であり、これを追求すると、無数の妥協ヶ所による、無数の相互理解パターンがあり、さらに、それを厳密に言うと、結局のところは何も分かり合っているわけではないことになり、ただ、その範囲や条件を決めることや、思い込みによる定義で、分かり合っているということに決めることもできます

 

この辺はですね、まあ、追求する価値ありですね

 

何故かというと、悟りの本質にけっこう近いところによる問答となるからです

 

言葉というものの限界部分で、理論や問答を展開していく

 

その上で、感情とか思考とかそういったものを確認してみる

 

 

面白いですよ

 

判断は神に任せよう

 

こう思うと、絶対にそんな判断はない、ということになります

 

自分の味方をしてくれるのか

 

いや、結局のところ、それ全てが何の意味をもなさないお話であることが一目瞭然であるからですね

 

そして、そこに、中道というものの真意があるということになりますが、これは難易度が高いので、控えさせていただきます

 

ちなみに、仏は人間です

 

仏の世界の大日如来を信じている人と、話が合って楽しい会話ができると思いますか?

 

これも厳密にはお互いの裁量によります

 

ため息とか軽蔑とか反感とか、そういったもの無しで、楽しく話しできるのならば、それは菩薩道であり、厳密には、真の心からの同意というものはその瞬間には無く、努力によっての歩み寄りのつながりとなります

 

さあ、人間同士はお互いに分かり合うことができるという時、それは、仏様の観点なのか、生身の人間の観点なのか

 

そして、この疑問に関しても物申すという人もたくさんいらっしゃいます

 

面白いですね

 

分かり合えないということを分かり合うのが、ただありのままであり

 

そして、それは自我による認識や判断によるものでしかないから、結局のところ、それもひっくるめて、ただ、分かり合っているということにするという感じで締めくくらせていただきましょうかね

 

それを一言で表すと

 

如来は只来て去る

 

どうでもいいということですね

 

それって、何語ですか

 

仏の世界ということですが、私たちは人間であるということで、結局は答えは出ないということです

 

何のこっちゃという感じですが、これをそっくりそのまま覚えてしまうと、何かを確信することができます

 

ただ、その確信も、只来て去るだけです

 

もっと気の利いた言葉でお話したいですが、この辺は、本当に難しいのでちょっと無理です

 

 

 

いつもお読みいただき、ありがとうございます

 

 

 

 

 

 

 

みなさんこんばんは、緒川賢治です

 

本日は、ただつぶやきます

 

 

私というものは、一体何なのか

 

在る、というところから始まって

 

何かをして、何かを所有する

 

そして、その在り方全般がですね、まあ、いろんな人々と比べてみると、何だか自分自身というものが、どのような在り方をするのが良いのかが分からなくなるんですね

 

いろんな人がいますよね

 

そして、何というか、自分の持っていないものをたくさん持っている人たちがたくさんいて、自分の知らない世界を知っている人がたくさんいて、常に、隣の芝生は青い、という感覚を覚えます

 

まあ、時には劣等感のようにもなりますし、何というか、自分自身には何も無いんじゃないのか、今更だがどうしたら良いのか、などと思い、少々考え込んだりします

 

そしてですね、自分の人生を振り返ってみるとですね、結局のところ、密教しかないということに行き着くんですね

 

希望としてはですね、アスリート系ビジネスマンというのが理想ではあるのですが、まあ、それはファッション的な感じになりますね

 

 

気がつくと、私は一人で説法をつぶやいているようになりました

 

というか、ついには、ちょっと精神を疑われるようなお話になると思いますが、私の存在自体が法身説法であるという感覚に支配されたことがありまして、少々ヤバいと思いまして、自分を取り戻して、せっせと修行と勉学に励んでいます

 

最終的には、単立の寺院でも作りたいと思っているのですが、なかなか本格的なイメージまではまだまだできません

 

僧侶が良いのか、行者が良いのか、コーチが良いのか、講師が良いのか、カウンセラーが良いのか、実際に本格的に何かをするとなると、けっこう難しいんですよね

 

ただありのままを生きていることで、そのまま世界ができていくならば、それが一番楽で良さそうですが、まあ何というか、自分なりのこだわりというものがあって、あまり妥協したくないというのがありますからね

 

少々愚痴のような雰囲気のお話となってしまいましたが、まあ、たまにはこんなお話でも良いかなと思って

 

 

ではそろそろ寝ます

 

おやすみなさい

 

 

いつもお読みいただき、ありがとうございます

 

 

 

 

 

みなさんおはようございます、緒川賢治です

 

久しぶりに午前中からブログを書いています

 

 

先日のことですが、健康診断を受けまして、バリウムを飲みました

 

下剤を3回分余分に貰いまして、2日間にわたって順調にバリウムを排出できました

 

体内でバリウムが固まってしまうと大変なことになるのですが、うまく出し切ったところで一安心しました

 

 

しかし、その翌日にあることに気づきました

 

便器の中に、何か白い塊が残っていて、トイレを流した後、便器の中の水が白く濁るということに

 

じっくり見てみると、それはバリウムが固まったとしか思えないような塊でした

 

「まじかよ」

 

早速ネットでいろいろと調べてみましたが、たくさん出てくるわ出てくるわということで、とりあえず同じような目に遭っている人が多いことが分かり、ちょっと安心しました

 

みなさんあれこれ試しているんですね

 

いろんな解決方法がありますが、私は風呂のお湯を洗面器で何度も便器に流すという方法を選択しました

 

ネットでは、10回くらいで綺麗に流れてしまう、という記事が多く見られたので、これなら意外と楽勝かなと思いきや、全く流れる気配がありません

 

20回くらい流してもビクともしません

 

割り箸でつつくとか、使い捨てブラシとかの方が良いかな、という考えがよぎりましたが、私は結構しつこい性格ですので、ここまできたら徹底的に風呂のお湯を流し続けるという執念が勝ちました

 

延々と何度も何度も流すこと60数回、やっと流すことができ、その場で心の底からのガッツポーズが自然と出ました

 

何事も、諦めない時、そこに必ず活路が見出される

 

本当にそうだと実感しました

 

まあ、割り箸でつつくのがもしかしたら一番簡単だったかもしれませんが、つついた後の処理とか掃除とかが面倒そうだったので、やはり自分の持ち前の執念深さを生かせたのが良かったです

 

これでもか!これでもか!今度こそ!という感じで、思い切り熱くなりました

 

しかし、本当に、久しぶりに大きな達成感を味わえて良かったです

 

くだらないことに時間をかけてしまった、というような考えも多少は起きますが、しかしですね、本格的に固まったバリウムの塊が、どれだけの風呂のお湯で流せるのかが分かったので、意外と意義深いと思います

 

実際に充実感がありましたから

 

何でもないような日々の出来事にこそ、本気で向き合えば、ものすごい大きな楽しみや喜びを感じられる瞬間でした

 

 

 

 

いつもお読みいただき、ありがとうございます

 

 

 

 

 

みなさんこんばんは、緒川賢治です

 

私事になりますが、先日、掛け軸型の阿字観本尊を購入しました

 

もちろん常日頃から、阿字本不生や月輪の瞑想のようなものはしているのですが、実際に掛け軸本尊を使った阿字観瞑想は、お寺を出て以来ですので、14年から15年くらいしていません

 

しかし、やはり、阿字観本尊は、その美しさと荘厳さと神秘性に、つい見とれてしまいますね

 

購入して大正解でした

 

見るだけで、心が癒されます

 

そして、自分の内面からパワーが溢れるような気分になります

 

これは恐らく私だけなのでしょうが、まあ、元々の修行マニアの血が騒ぐという感じでしょうかね

 

とりあえずは、向かい合わせに座って、口の中で「あー」とか言いながら、ただただ一緒に時間を過ごすという感じが私にとっては一番かもしれません

 

そして、そのうちに、呼吸が整い、心が透き通り淡い光となり、蓮華座の上に座す清浄な自身となり、阿字である自身が大宇宙に遍満するという気分に堪能して、そのまま時間が経つのを忘れて一時を過ごすという感じですかね

 

本来ならば、30分くらいで終わるのが良いのですが、まあ、私は一日中でもできますね

 

あまりかっちりとした次第に沿った方法で実践するのは得意ではないので、定に入らないままマニュアルを辿ったみたいなのは、余程調子が悪い時以外は避けたいからですね

 

阿字が胸に入って、一体化して、それが宇宙に広がって、10分くらい定に入って、また縮んで胸から出て終了というのは、単なるイメージトレーニングみたいなものになる可能性が大ですので、たっぷりと時間を使ってゆったりと実践したいものです

 

隙間時間30分以内に慌ててバタバタ阿字観瞑想をしていたこともありましたが、本格的に失敗した時のきつさは半端ではないです

 

一日中背中がガチガチになったり、胸が苦しくなったり、頭痛に悩まされたり

 

意外と、きっちりとやるならきっちりとやるつもりでいかないと、けっこう怖いものです、阿字観瞑想は

 

初心者は、呼吸法からじっくりと初めていくことをおすすめします

 

 

いつもお読みいただき、ありがとうございます

 

 

みなさんこんにちは、緒川賢治です

 

本日は、瞑想についてお話したいと思います

 

が、あまり厳密なお話は控えて、具体的に私たちが忙しい日常生活の中で、ちょっとした空き時間にできる気軽な瞑想ということで、お話しいたします

 

実際に瞑想するとして、その目的は何が良いのか

 

 

精神統一

 

宇宙とのつながり

 

魂や心の浄化

 

霊的世界とのつながり

 

自分を取り巻く見えない世界の向上

 

神仏との感応

 

霊力の向上

 

宗教観の実践

 

癒し全般

 

などなど、いろいろとありますが

 

そういった目的で瞑想をするとして、その効果に何を期待するのか

 

どうなりたいのか

 

どうしたいのか

 

私が思うに、もしも実際に何らかの方法とか、瞑想の実践にて、明確にその効果を期待するとなると、現実的に思いのままに言うと、結局のところ、願望実現とか自己向上による世界観の変化とか、魂が向上することによる現実生活のステージアップとか、そういったところが正直なところなのではないかと思います

 

ここで、実際問題として、何がどのように良い方向に変わり、どんな仕組みで新しい世界が作り上げられていくかとなると、自分のステージが上がることにより、見えない世界に作用するような感じで、物事全てが良い方向に行く、といったところなのでしょうかね

 

じゃあ、そんな方法がたくさん無数にあるとして、どのようにして実感したり証明したりすることができるのかというと、これがなかなか困難なところであり、最終的には、そのやり方が本当に正しかったのかとか、特に、長い年月頑張って精神修養をして、何がどのようにどう変わったのかというといま一つ具体的な説明がつかないとか、まあ、そういったことも起こり得るかと思います

 

目的は何か、瞑想を楽しむこととか、趣味の一環とか、もしくは、その瞑想の道が人生の一部とか、まあ、最終的にはそういったお話になったりするか、瞑想なんてしても大して意味がなかったとか、もしくは、確かに心は磨かれたような気がするとか、まあ、いろんな話になりますが、瞑想によって、霊的な悟りを得たとかいうようなところまではなかなか行かないと思います

 

でもですね、私は、瞑想は絶対に有益であると思います

 

言わば、瞑想は必須であり、人間が何かを成し遂げる時、形はどうであれ、瞑想的なことをされている人は多いのではないかと思います

 

 

とてつもない緊張感の中、落ち着こうとして集中を高め、呼吸を整えようとするその働きが、自分の能力を最大限に発揮させる瞬間などは、まさに瞑想が目的とする一つの効果の一つではないでしょうか

 

あとはですね、疲れた時に、ふとボーっとしているうちに、いろいろと心地良い出来事などの余韻にふけっていると、疲れが取れたりですね

 

また、どうもやる気が起きない時とか、意識を高めるために自己暗示なんかしている瞬間もそうですね

 

この辺に瞑想の目的のヒントがあったりします

 

ここでですね、正しい目的とか、教えがどうのとか、この思想がこの哲学が、またはこの心の修練のカリキュラムがとか言ったり、神とつながってとか、仏になって、とか極端な物事を、その意味を学ばずに求めてしまうと、最終的には何が何だか分からなくなってしまったり、どんなに心を取り扱ったり、たくさんの課題によってたくさんの修正とか更新とか浄化とかを長年かけて行ったとしても、実のところはただマニュアルを重ねただけの形式だけのルーティンになってしまったりしまいます

 

ここで一番大事なことは一体何なのか

 

まずは、人として最もベストな状態であるということはどういうことであるのか

 

というと、やはり自分自身の人格を磨くということは怠ってはならず、これを瞑想だけで養うことはできません

 

このことは、修行だけでは、自分自身がどの方向に言っているのかが分からないために、いろんな決まりや戒律などがあるという宗教などの例にて分かります

 

人間力が一番大事です

 

その上で、自分の芯の部分、最も根源的なところを養う一つの手段が瞑想となります

 

呼吸と、心臓と、精神と、肉体と、意識と、感情と、生命力と、いろいろありますが、とにかく人間がこの世で生きるにあたって、頭脳で生み出した生活環境や知識や能力や文化や文明などの人工的なもの事ではない、ただ純粋な赤ん坊から備わっている超自然的な当たり前の真っ新な部分です

 

地球も宇宙もあらゆる物事を構成する要素も、最も根源的な部分では、一つの現実に絞られます

 

これが何でこうなのかとか、これは何で存在するのかとか、何で生まれたものなのかとか、そういったところでは説明できない部分です

 

これが全ての物事の基本なので、ここを強化するというか、養うというか、つながるというか、そういう方向に向かうとですね、結局のところは、自分自身がこの世で生きる力そのものを養うことができるということになります

 

ただこれはですね、実践の経験値によってしか養うことができないものですから、全力ですべての物事の中を生きることになります

 

するとですね、その合間の瞑想というのは、休息とか啓発が目的となりますね

 

思索とかもですね

 

またですね、その究極は、全てを空っぽにすることで落ち着くということですね

 

自由自在を得るために必要なことは、常に心をリセットしてアップデートして柔軟にしてキャパシティを無限にしておく必要があります

 

もちろん、こんなことは不可能ですが、だからこそ瞑想して、よりそれに近いイメージにて、よりたくさん心の能力を高めることができるかというところに行き着きます

 

これがですね、仏教で言うところの、如来を目指す菩薩の姿勢です

 

そこでですね、何から瞑想を始めればいいのかというと、呼吸からということになります

 

そして、頭を空っぽにするような感じにリラックスする

 

延々と浮かんでくる想念は泳がす

 

ただそれだけですが、ここに難しいとか、上手くいかないとか、そういうのも大事ですが、実のところは、そんなものは無いというところに行き着きます

 

だとすると、結局のところは、自分自身の価値観というものを日頃から磨いていないといけないことになります

 

祈りもそうですが、何か特別なことをすれば、特別なことを得ることができるという妄念は、何の意味もありません

 

自分はどこにいるのか

 

まずはこのことを認識しようとしてみる価値はあるかもしれません

 

ここで漠然と、位置を特定できないような何らかの自分のレベルというものが分かったとしましょう

 

これは一つの達成となるかもしれません

 

高みを目指すという方向に行くとすると、じゃあ、自分はどうなりたいのかを考えてみます

 

成功者というのをイメージすると、富とか生活の充実度とか、そういったところに行き着きますが、これはですね、瞑想とは直結した問題とならないので、引き寄せの法則も怪しくなってきますね

 

頭を日頃から整理すると、正しい認識の仕方というものが常にアップデートできるので、何が意味があって何が意味がないのかがよく分かるようになると思いますが、最終的には、意味がないというもの事はないというところの、俯瞰による無分別の正しい認識の仕方というものが求められるようになります

 

俯瞰も無分別も瞑想手段としてそれだけを磨いてしまうと、とんでもなく恐ろしい間違いを起こします

 

実体が無いものを真実として主張してしまうが、それが一体何の意味があるのかということに気づかない間違いです

 

コンピューターのような精神が必要となってきますね

 

さて、この辺でしめさせていただきますが、結局のところですね、最もシンプルなお話へとたどり着くのです

 

瞑想というのはですね、自分自身を研ぎ澄ませるために、整えて落ち着かせるというのが基本となります

 

これ以上に何があるでしょうか

 

私は、在家密教行者であり空思想探究者であり、お釈迦様崇拝者であり、精神世界・自己啓発研究家なので、即身成仏や悟りを目指す道を生きていますが、その道というのは、この世の全てにこそあるというのを絶対的真実としています

 

この世を全力で生き、時には意識を統一する、というのが、瞑想の大事な基本となります

 

結局のところ、読みづらい、難解な感じのお話となってしまいました(^^;)

 

 

いつもお読みいただき、ありがとうございます