あれこれ精神修養とか仏教や密教、スピリチュアルまで、とことん追求して研鑽して、ようやくある種の完成というか、結論にいたりつつあります。
かといって、それをブログでうまいこと伝えられる自信もないので、まあ、しばらくは、ちょっとした日常のことでもお話していきますね。
みなさんこんばんは、緒川賢治です
随分とお久しぶりとなりましたが、何とか改元前にブログ書きたいと思って、日が変わる6分前から書いております
全国各地で令和イベントが盛り上がっていますね
私は、家でテレビを見ながらワインを飲んでいます
あと残すは4分です
令和についてはいろいろと思うところがありますが、もっと大きなところで物事は動いていますので、ものすごく大きな希望をもって、元年に備えたいと思います
あと2分となりました
ではみなさん良いお年を~
平成最後の1分を、ゆっくりお過ごしください
このブログもガンガンアップしていきますので、これからもよろしくお願い致します
残り30秒ちょっとですね
ではでは~
みなさんこんばんは、緒川賢治です
過去、未来、今
今が全て、全てが今という刹那に凝縮されている、という境地にしばらくいましたが、止まることを知らず
さらなる境地へとたどり着きました
今なんてない!!
今というものすら単なる疑念、いやいや概念と言っておきましょうか、そんなものすらないというところまで行くことが出来ました
やばすぎです
たくさんの教えを超えることができまして、更なる追及を重ねていこうと思います
いつもお読みいただき、ありがとうございます
みなさんこんばんは、緒川賢治です
本日は、一言つぶやきと、恐らく長々とした解説です
ジャッジしてはいけない
これはですね、物事の理由とかですね、原因とかですね、見えない世界で起こっていることとかですね、意味とかをですね、自分の知識というかですね、特に、人間学的なものや心理学的なもの以外での、霊的意味や宗教的意味での解釈を自分の思い込みで安易にしても意味がないということです
超現実主義においてはですね、たくさんの因果関係などを予測できますから、ガンガンにその予想などで検証の確立を上げていくのが普通ですが、ここに、神霊的な目に見えない力やご縁などを想像して当てはめたとしても、まあ、ほとんど当たらないですね
自分に都合の良い解釈をすることはとてもいいことですが、後々で自分や周囲の人々にプラスになっていないと意味がないので、完結してしまっても後が続かないんですね
実は私、けっこうそういう人知を超えた部分にまで想像を膨らませるのが得意なのですが、実際問題としては、妙な理屈っぽいものは絶対に当たりません
思い込みというものの怖さだけはたくさん思い知らされた経験がありますから、本当に物事を見極めるのは慎重に行かないといけません
簡単に言ってしまうと、下手なことは言えないということですね
あと、状況は一瞬一瞬で大きく一変してしまいますから、何かが分かったような感じがしたとして、例えば、それを誰かに話してしまった時点で、もう状況や流れや背後の意味は大きく変わっていますから
この時点で、ジャッジというものが何も無かったかのような無意味なものとなります
ただですね、大きく間違えていけないのがですね、人生は常に選択や判断の連続でして、頭をフル回転して的確な決断をどんどんこなしていく力が無いといけないので、日常的なことを全て人任せや状況任せにしてしまうのは、大顛倒ということになります
自他と世界、この3つの関係というのをしっかりと把握していると、間違えることはありませんが、どうもですね、今のままで何も考えずにあるがままに任せて生きているだけで素晴らしく全てが満たされているんですよ、というような偏った考え方に騙されて、ぐうたらで不健康なままでも良いという思い込みに生きている人がけっこういるのではないかと思います
何のために学んで、実践するのか、これがまず基本ですから、今のまま何もしないでいいのですよというのは、本来の目的を見失っていることになります
上手くできた理由がありまして、今の状況が嫌だから何かを変えたいというところから、今のままで素晴らしいのだから何もしなくていいのだよとなり、あれ、じゃあ、今の嫌な状況を何とかするにも何もしなくてもいいのか、ということになり、今のままで素晴らしいということに気づけば良い、ということになり、ここで、肝心なところが抜けていますが、何がどう良くなるのかがはっきりとしていませんが、どの道、今の状況が嫌なことには変わらないんですね
これはですね、昔からの自己啓発や精神世界の教えの内容と表現と手段が違うだけで、ある意味、脳内革命のようなものですね
嫌な状況を受け入れて、もっと大事なことに目を向けてみるというのが、この数十年の心の学び系の基礎の一つです
自分の小さな我欲や判断などよりも、この世の真理や霊的な世界はとてつもなく大きいので、抵抗してはいけないとかもですね
しかし、これをどう捉えて自分自身の生き方に反映させていくかというものですね、まあ、この個人個人のセンスというか、判断力・決断力・理解力・認識力にかかってくるんですね
お釈迦様は、たくさんの人に教えを説きましたが、一人一人必要な教えも教えに対する解釈も何もかもが違うということでですね、まあ、もっと一人一人が自分を信じて探求していくのも逆に手ではないのかなとも思いますね
教えを説く人が何についてどんな教えを説いているのか、これをしっかりと理解しないと、間違った教えやはっきりとしない教えを学んでしまうことになりますからね
何をどのようにして、自分をどのように変えて高めたいのか
まずはここから始まります
そのゴールは、トライ&エラーの後で見えてくるものであり、永久的ともいえる自己研鑽と、日々の修練、修行、心の学び、宇宙の真理の学び、身近な出来事の学び、あらゆるすべての学びにおいてどのように動きどのように考えどのように伝えるか、これを常に考えていかないといけません
結果ですね、安易にポンポンとジャッジしてはいけないということになり、物事を徹底的に洞察して検証して、それでも答えは生き物のように移り変わるのをしっかりと体感し続けながら、自分もその流れに一体化していくよう努力する、ということになりましょうかね
けっこう難しい話なのですが、同意いただければ幸いです
いつもお読みいただき、ありがとうございます
みなさんこんばんは、緒川賢治です
今、お盆休みですが、通常通りの平日でお仕事という方も多いでしょう
お盆は帰省したり旅行したり、近場でもイベントなどに遊びに行って、数日間のお休みを満喫するのが一般的な理想のような感じとなっていますが、やはり、お墓参りとか、ご先祖さまへ思いを馳せるとか、自分自身の心の確認とか、自己統制とか、周囲の方々へのおもてなしとか気づかいとか、そおういった、お盆にきれいな心をもって何かそれらしきふるまいをする、ということは大事ですね
ただですね、毎年毎年お盆は来ますから、形式ばった習慣のような感じになってしまい、ただ決まっていることをただ行って終わりとかではなく、まあ、たくさんの方々は当たり前のこととして分かっていらっしゃることではありますが、ご先祖さまを心でもてなすような感覚というものをこの数日間だけでも特別に持っていたいですね
家族が集まって楽しく過ごすのは、ご先祖さまからしたら嬉しいことです
いろいろと話し合ったり、過去のことをしみじみと思い出したり、何というか、結縁というものの世界の深さというものにどっぷりとつかった中でご先祖さまも一緒にいらっしゃるような感覚ですかね、 家族や親戚が一丸となって、過去の霊とかそういった垣根などが無いかのように、たくさんの思い出の中での一時を共有するような感じでしょうかね
私はほとんど毎年お盆についてこのブログでいろいろとお話させていただいていますが、まあ、一番大事なのは、皆が元気で今を生きている、というのをご先祖さまが喜ばれる、ということです
盂蘭盆のお話とか、ウランバーナとか、目連尊者のお布施とか、施餓鬼とか、まあ、そういったこともお盆らしさに必要な言い伝えとか風習とか意味とか、素晴らしいことではありますが、まあ、これまでも何度かお話したことではありますが、ご先祖さまは、生き残った結晶である子孫たちそのものの中に、精神として遺伝子として生きています
なので、供養というのは善行、お布施というのはおもてなし、先祖とつながるというのは自分自身の身をしっかりと正して心の風通しを良くして、我欲などのやましい心を綺麗にして過去から続く未来を思い描き日々精進することです
私は両親共に亡くしていますが、トラブルによって決別していた両親ではありますが、今となっては、それぞれ大事な素晴らしい両親だという思いでお盆参りをしました
また、父方の先祖も母方の先祖も、まあ、その脈々と受け継がれた血のつながりというものは無意識の中にしっかりと感じることができるので、その有難さというか、素晴らしさと感謝の気持ちで手を合わせます
今のこの瞬間私は、私たちは、元気に生きています
それは、ご先祖さまも元気でいらっしゃるということです
これが、お盆供養の真髄です
それを考えると、生きている客人のようにお風呂と食事を用意して本格的におもてなしする地方の風習は、まさに最高峰の先祖供養になりますね
いつもお読みいただき、ありがとうございます