みなさんこんばんは、緒川賢治です
これまでいろいろな角度から、悟りというものについて何度も説かせていただいていますが、今回は、本当の本当に、実際問題として、この現代社会に生きる者として、どのような悟りがどのような意味を持つのが良いのかについて、ちょっと考えてみたいと思います
悟りというものを追求しますと、必ず行き当たるのが、人間としてこの世に生きる在り方と、少々ずれたというかかけ離れた世界の境界を見失うというか、さらに深くはまると、もう何でも良いというところまで行ってしまい、ある意味無というか、混沌的な無がワンネスになってパラレルワールドを凝縮していて各々の価値というものが無差別になったような、まあ、これをちょっと文字通りに想像していただきたいのですが、どうしようもないというか、何のアクションすら起こしても意味が無いし、かと言って、ありのままのどうでも良いアクションというのを起こし続けるのも良い、という、まあ、極論で言うと真の意味でのこの世の全ては幻であるという、境地に辿りつきます
ここで、本来の目的、最初の目的を振り返ってみると、まあ、修行自体が何の意味も無かったんだというのを悟った、という、何だかお釈迦様の亜流のような感覚に陥ります
じゃあ、どうすればいいの、というと、これまた究極の優柔不断にもなり、投げやりにもなり、一言で言うと、何でも良い、どうでも良い、ということになります
ここに主観と客観とか、または世のために生きるという何とやらなどを考えると、もはや、私はこの世でありあなたであり彼でありということになり、何のためという思考すら意味を持たなくなります
そこでですね、もう一度、じっくりと、初心に帰って、何のためにどのようにどのような悟りを開く努力をすればいいのか、というのをじっくりと考えてみる必要が出てくるわけです
インドの聖人たちは、悟りを開いて人々を教え導いていました
結局のところは、これが大事なんですね
じゃあ、自分の芯をどこに置いておくかということが大事になります
何だか自分自身というものをもっとシンプルに考えられないのかね、とか、しっかりとした信念というものを持てないのかね、などと思われますが、実際にとことんまで悟りの道を追い続け、自己から宇宙に至るまでのあらゆる徹底的な洞察を繰り返していると、自分というものが完全に無くなります
ここで、ちょっと左脳的と言い方は変かもしれませんが、まあ、しっかりと分析された、理論的且つ効率的な思考によって、自分の在り方というものを考えないといけません
もちろん、これもトライ&エラーによるたくさんのテストのように実践して中道を捉えていくのです
指導するということは、どんなことをどんな人たちに指導するのか
物事が上手くいったり、心を磨いたり、人格を高めたり、より幸せになれたりする方法です
じゃあ、このために大事なことはどんなことか
そう、多くの人々に教えるために必要なことを身につけるんですね
それが、必要な悟りです
もちろん、悟りというからには、それなりにこの世、宇宙の真理に沿った智恵となります
霊能力というわけでもなく、ぶっ飛んだこの世の見えない叡智というわけでもなく、ちょっとしたこの世のからくりを元にした、人々がありとあらゆる困難を乗り越えながら笑顔で過ごすことができる智恵です
何だかんだ言っても、指導者は自分の知識や能力をひけらかすとか、自分がとてつもない究極の境地にいながら相談者を待つとか、新しい信仰を起こすとか、そういった目的に行かずに、あくまでもこの世を生きる人々のサポート役を目指すならば、これ以外にないでしょうね
いつもお読みいただき、ありがとうございます