Fireball Strike [ロックマン10楽曲レビュー7]
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最近、このレビューがあまりにもチンタラしているため、ひょっとして終わる前に『Rockman 11』とかが製作発表されてしまうのではないかとビクビクしています。勿論、それはそれで嬉しいですけどね。
本日のレビューはストライクマンステージの「Fireball Strike」。作曲は『Rockman 7』の友澤眞さんです。
もうね。なんかね。始めて聴いた瞬間にあっけに取られましたよ。誰が聞いても前半は高校サッカー、後半は甲子園のテーマをモチーフにしていることが明らかです。まさかロックマンシリーズで音ネタを仕込んでくるとは。でも何気にイントロとかちょっとかっこよかったり。
「ロックマンシリーズのBGMにネタを仕込むのはどうか」という声があります。うん。確かに気持ちは分かります。少なくとも過去の元祖シリーズは、まだゲーム音楽という分野が確立する前から結構ガチな曲ばかりでした。こればかりは抵抗感があるのも仕方がないと思います。
ただ、聞き方に寄っては前半が『2』のウッドマンあたりを意識しているようにも聞こえなくもない。なんかもうネタの印象に引っ張られて、実際のところどうなのかなんとも言えないのがアレですが……。
では公式アレンジ。
露骨。原曲から露骨なので仕方が無いかも知れませんが、露骨ですね。
で、こんなにクセの強い曲。いつも僕が非公式アレンジで紹介しているE-Tank氏がどう出たのかというと、こう出ました。
公式ほど露骨でもなく、音色選びも良く考えられていると思います。聴いた感じ嫌味なく、すんなり受け入れられました。
// 参考資料 --------------------------------------
今回から参考資料は普通のリンクに変えさせていただきます。トピックが縦に長くなってしまうので。
ロックマン7のBGMを集めてみた。。。-前半パート- : ニコニコ動画
ロックマン7のBGMを集めてみた。。。-後半パート- : ニコニコ動画
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最近、このレビューがあまりにもチンタラしているため、ひょっとして終わる前に『Rockman 11』とかが製作発表されてしまうのではないかとビクビクしています。勿論、それはそれで嬉しいですけどね。
本日のレビューはストライクマンステージの「Fireball Strike」。作曲は『Rockman 7』の友澤眞さんです。
もうね。なんかね。始めて聴いた瞬間にあっけに取られましたよ。誰が聞いても前半は高校サッカー、後半は甲子園のテーマをモチーフにしていることが明らかです。まさかロックマンシリーズで音ネタを仕込んでくるとは。でも何気にイントロとかちょっとかっこよかったり。
「ロックマンシリーズのBGMにネタを仕込むのはどうか」という声があります。うん。確かに気持ちは分かります。少なくとも過去の元祖シリーズは、まだゲーム音楽という分野が確立する前から結構ガチな曲ばかりでした。こればかりは抵抗感があるのも仕方がないと思います。
ただ、聞き方に寄っては前半が『2』のウッドマンあたりを意識しているようにも聞こえなくもない。なんかもうネタの印象に引っ張られて、実際のところどうなのかなんとも言えないのがアレですが……。
では公式アレンジ。
露骨。原曲から露骨なので仕方が無いかも知れませんが、露骨ですね。
で、こんなにクセの強い曲。いつも僕が非公式アレンジで紹介しているE-Tank氏がどう出たのかというと、こう出ました。
公式ほど露骨でもなく、音色選びも良く考えられていると思います。聴いた感じ嫌味なく、すんなり受け入れられました。
// 参考資料 --------------------------------------
今回から参考資料は普通のリンクに変えさせていただきます。トピックが縦に長くなってしまうので。
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「ロックマン10」楽曲シリーズ
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ホントは切ないフリアグネ [『灼眼のシャナ』第6話]
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それでは、『灼眼のシャナ』第6話「交錯・発動・対決」についてのレビューを始めましょー。動画はこちら。無料配信は22日までなのでまだの方はお早めに。
今回は原作における第1巻フリアグネ戦のクライマックスです。しかし、アニメ版ではフリアグネが討滅されることと、零時迷子のタネが明かされること以外はほぼ原作とは展開を異にしています。これは全25話あるアニメの6話目でシリーズ一番のクライマックスが来てしまうことを避けるためです。
「シリーズが20巻も続いている作品なのに、1巻のエンドが1番のクライマックスとはどういう事だ?」と思われる方がいるかもしれませんが、ライトノベルとはそういうものです。以前述べたように、1巻を執筆する時点ではシリーズ化が決定していない場合が多く、作者さんも比較的経歴の浅い方が多いため、とにかくこの1冊にかけるという意気込みでストーリを完結させてくるのです。シリーズ化の決定した2巻以降は、全体の構成を見据えて続きを作るので、普通にアニメ化すると25話目なんてのは原作の結構中途半端な部分に差し掛かってしまったりもして、番組としてまとめるのが難しいのですよ。
まあ、どう変更されたのかについての詳細はネタバレになるので最終回が終わってからにします。
ただ、たとえ展開が違ったとしても、キャラの魅力が全く伝わらないアニメ化になったのはまた別問題のような気がします。原作未読の方から寄せられるコメントを見ても分かるとおり、アニメ作品単体として何が何だか解らないことになっています。ここまでなら比較的多くのラノベ原作アニメの動画で起こる現象なのですが、今回の動画で面白かったのは、原作既読のファンがそれらのコメントを肯定したり同情したりしている様子が伺えることです。
実際、原作既読の僕の視点からして、今回のアニメのキャラクターたちは各々の行動理念が全く明確にされないまま、原作でとった行動のみをトレースさせられたような出来栄えなのです。各キャラクターがなぜあのタイミングで、あのような言動に出るのか。未読の方には全く解らなかったでしょう。しかし、それこそがフリアグネ編の一番重要なファクターです。ですから、動画では「原作を読んでくれ」という悲痛な叫びがいくつも見られ、それは当然僕も同感です。が、原作を読まなければ解らないのではアニメ作品としては成立していないのと同義で、悲しくなります。
僕は、1巻は原作を先に読み、2巻以降はアニメ(1期)が先という珍しい類の人間だと思いますが、2巻以降の部分であれば逆にアニメのほうが上手く演出できている点も多くありました。だからこそ余計に1巻部分のクオリティが惜しまれます。仕方が無いので、各キャラクターがどういう思いで行動していたのか、少し解説してみましょう。お断りしておきますが、現在僕の手元に原作がないので、記憶を手繰り寄せての解説になります。細かい点では間違う可能性があるので、そこはご了承下さい。
原作未読の方にとって一番解らないのがフリアグネというキャラクターではないでしょうか。まず彼のバックボーンについて話をしましょうね。
フリアグネは、もともと宝具のコレクターとして現世に舞い降りました。悠二のようなミステスに特別な興味を抱くのは、その為です。しかし、彼の最大の目的は、最終的に別の事柄になりました。それは、マリアンヌと永遠に共にあることです。マリアンヌは燐子です。最初は捨てられていた人形の可愛らしさから彼女を燐子として活動できるようにしました。しかしフリアグネはそのマリアンヌを恋人として認めるようになります。
「燐子」というのは、紅世の徒が存在の力を使って現世で作り出すもので、徒のように紅世に帰ることができません。また、自らの存在を維持する力は持っていないため、存在し続けるには常に徒が存在の力を供給する必要があります。つまり、今のままではフリアグネとマリアンヌは共に永遠の存在であることもできず、また共に紅世に渡ることもできません。それをするためには、マリアンヌが燐子ではない正式な存在として生まれ変わる必要があります。
そこで、フリアグネは都喰らいを計画するのです。都喰らいは、膨大な存在の力を集めるための自在法です。発動させる方法はいくつかあるようですが、フリアグネの場合、今回登場した鈴型の宝具『ダンスパーティ』を使ってトーチを一斉起爆させる方法を計画していました。普通、人を喰らうとどうしても痕跡が残り、そこにフレイムヘイズが寄ってくるので、徒は1つ所に長く留まるようなことはしません。しかし、大量のトーチが必要なフリアグネは危険を承知で御崎市に留まっていたのです。
さて、フリアグネについてこれで少しは分かってもらえたでしょうか? では、物語の流れを原作と比較していきましょう。
原作では、まずシャナとアラストールが、御崎市のトーチの異常な数に気づきます。前述のとおり、普通徒は長く留まらないため、トーチの数はそこまで多くならないのです。ここから、都喰らいの疑いが生まれます。アニメではこの点に気づいたのはマージョリーでした。
しかし、シャナらにはフリアグネのアジトが分かりませんでした。すると悠二が「トーチを減らせばおびき出せる」という提案をします。シャナが町中のトーチを破壊し始めると、案の定フリアグネが出現し、最終決戦へと結びつくのです。アニメの場合、トーチを減らす役割はラミーに持って行かれ、悠二の活躍もここでまず1つ無くなりました。
悠二がフリアグネにさらわれるシーンは原作にもありますが、実はかなり重要なシーンで、アニメではそれが全く分かりません。スタッフ痛恨のミスと言えます。何なのかというと、初対面の時に平気で悠二を斬ったシャナが、今度はそれを咄嗟に躊躇ってしまい、攻撃のチャンスを逃す。そして一瞬だけ悔しそうな、辛そうな表情を見せる。シャナが自身の変化に気づき、それに気づいた悠二もまた、複雑な想いを抱く。というシーンだったのです。ちなみに「坂井悠二を破壊する」の下りは2巻の内容なので、シャナが悠二に刃を向けるのは原作ではこの後の話になります。
フリアグネは、未熟なシャナにとってはあまりにも強すぎる敵でした(アラストール自信は知らぬものはいない程強いのですが)。シリーズ中でも屈指の強敵のようで、シャナが何度もフリアグネにボコボコにされているのはこのためです。しかし、最終決戦でのフリアグネは、最終段階である都喰らいの布陣を壊さぬよう、力を制限せざるを得ませんでした。また、シャナは他のフレイムヘイズとは異なり、存在の力の炎を殆ど使えない代わりに白兵戦に長けていました。そもそもフリアグネの従来の戦術では相性が悪かったのです。
そのような特殊な状況の中、フリアグネは追い詰められていきます。そしてそれを見ていたマリアンヌは、他の燐子より多くの力を与えられている自信の大爆発に寄ってシャナを瀕死状態に陥れたのです。自分は燐子であるから、たとえ滅んでも修復できるだろうという算段のもと、「二人の願い」を叶えるための行動でした。
ここで、悠二が不自然さに気づきます。シャナが瀕死状態になり、攻撃する必要がないのに『ダンスパーティ』を鳴らし続けるフリアグネ(動画では18分から)。人気のない場所とはいえ、普段と違い封絶を張らずに行われている激しい戦闘(これは原作のみ)。そして悠二は叫ぶのです。
「封絶だ!」
『ダンスパーティ』が都喰らい発動の鍵であるならば、封絶を張ってこの空間を隔離してしまえば町中のトーチに影響はない。その事実に気づいた悠二の機転でした。以後、悠二はシャナの戦術担当(?)としてシリーズを通し活躍するのですが、アニメではここも無くなってしまいましたね。さて、追い詰められた上、最愛のマリアンヌを蘇らせることも永遠に叶わなくなってしまったフリアグネはここで初めて発狂します。ダグで「エアマリアンヌ」と言われたあの動作にはこうした背景があるのです。
ここから先はフリアグネが儚くも最愛の人を思いながら滅んでゆくという流れです。前述の通り、ネタバレにつき後日にします。
最後の最後でシャナと心が通じ合えたことに安堵した悠二は、ついに消え行く覚悟を固めます。が、……消えずに済んだわけですね。個人的にはあそこで消えていればどんなに綺麗な作品になっただろうと、残念でもあります。しかしそこは大人の事情。仕方ありません。それにシリーズ化していなければ僕はこの作品に出会っていなかったでしょうし。
という訳で、これで少しは分かっていただけたでしょうか? 原作のフリアグネはキャラクターとして独特の深さを持っていましたし、敵としては作品テーマを最も体現していたキャラだと思います。シャナや悠二も含めて、その関係や設定がいい具合に生命の儚さや尊さみたいなものを訴えてくるので、僕はシリーズ中1巻が一番好きなのです。上手くアニメ化されていなくて残念です。
ただ、繰り返しになりますが、2巻以降の部分に関してはアニメ版に利のある部分も多いです。どうせ毎週無料で好きな時間に、コメント付きで見れるのですから、根気よく最後まで視聴されることをオススメします。
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このトピックは2010年11月19日のツイートを元に加筆・再構成したものです。
それでは、『灼眼のシャナ』第6話「交錯・発動・対決」についてのレビューを始めましょー。動画はこちら。無料配信は22日までなのでまだの方はお早めに。
灼眼のシャナ 第6話「交錯・発動・対決」 : ニコニコ動画
今回は原作における第1巻フリアグネ戦のクライマックスです。しかし、アニメ版ではフリアグネが討滅されることと、零時迷子のタネが明かされること以外はほぼ原作とは展開を異にしています。これは全25話あるアニメの6話目でシリーズ一番のクライマックスが来てしまうことを避けるためです。
「シリーズが20巻も続いている作品なのに、1巻のエンドが1番のクライマックスとはどういう事だ?」と思われる方がいるかもしれませんが、ライトノベルとはそういうものです。以前述べたように、1巻を執筆する時点ではシリーズ化が決定していない場合が多く、作者さんも比較的経歴の浅い方が多いため、とにかくこの1冊にかけるという意気込みでストーリを完結させてくるのです。シリーズ化の決定した2巻以降は、全体の構成を見据えて続きを作るので、普通にアニメ化すると25話目なんてのは原作の結構中途半端な部分に差し掛かってしまったりもして、番組としてまとめるのが難しいのですよ。
まあ、どう変更されたのかについての詳細はネタバレになるので最終回が終わってからにします。
ただ、たとえ展開が違ったとしても、キャラの魅力が全く伝わらないアニメ化になったのはまた別問題のような気がします。原作未読の方から寄せられるコメントを見ても分かるとおり、アニメ作品単体として何が何だか解らないことになっています。ここまでなら比較的多くのラノベ原作アニメの動画で起こる現象なのですが、今回の動画で面白かったのは、原作既読のファンがそれらのコメントを肯定したり同情したりしている様子が伺えることです。
実際、原作既読の僕の視点からして、今回のアニメのキャラクターたちは各々の行動理念が全く明確にされないまま、原作でとった行動のみをトレースさせられたような出来栄えなのです。各キャラクターがなぜあのタイミングで、あのような言動に出るのか。未読の方には全く解らなかったでしょう。しかし、それこそがフリアグネ編の一番重要なファクターです。ですから、動画では「原作を読んでくれ」という悲痛な叫びがいくつも見られ、それは当然僕も同感です。が、原作を読まなければ解らないのではアニメ作品としては成立していないのと同義で、悲しくなります。
僕は、1巻は原作を先に読み、2巻以降はアニメ(1期)が先という珍しい類の人間だと思いますが、2巻以降の部分であれば逆にアニメのほうが上手く演出できている点も多くありました。だからこそ余計に1巻部分のクオリティが惜しまれます。仕方が無いので、各キャラクターがどういう思いで行動していたのか、少し解説してみましょう。お断りしておきますが、現在僕の手元に原作がないので、記憶を手繰り寄せての解説になります。細かい点では間違う可能性があるので、そこはご了承下さい。
原作未読の方にとって一番解らないのがフリアグネというキャラクターではないでしょうか。まず彼のバックボーンについて話をしましょうね。
フリアグネは、もともと宝具のコレクターとして現世に舞い降りました。悠二のようなミステスに特別な興味を抱くのは、その為です。しかし、彼の最大の目的は、最終的に別の事柄になりました。それは、マリアンヌと永遠に共にあることです。マリアンヌは燐子です。最初は捨てられていた人形の可愛らしさから彼女を燐子として活動できるようにしました。しかしフリアグネはそのマリアンヌを恋人として認めるようになります。
「燐子」というのは、紅世の徒が存在の力を使って現世で作り出すもので、徒のように紅世に帰ることができません。また、自らの存在を維持する力は持っていないため、存在し続けるには常に徒が存在の力を供給する必要があります。つまり、今のままではフリアグネとマリアンヌは共に永遠の存在であることもできず、また共に紅世に渡ることもできません。それをするためには、マリアンヌが燐子ではない正式な存在として生まれ変わる必要があります。
そこで、フリアグネは都喰らいを計画するのです。都喰らいは、膨大な存在の力を集めるための自在法です。発動させる方法はいくつかあるようですが、フリアグネの場合、今回登場した鈴型の宝具『ダンスパーティ』を使ってトーチを一斉起爆させる方法を計画していました。普通、人を喰らうとどうしても痕跡が残り、そこにフレイムヘイズが寄ってくるので、徒は1つ所に長く留まるようなことはしません。しかし、大量のトーチが必要なフリアグネは危険を承知で御崎市に留まっていたのです。
さて、フリアグネについてこれで少しは分かってもらえたでしょうか? では、物語の流れを原作と比較していきましょう。
原作では、まずシャナとアラストールが、御崎市のトーチの異常な数に気づきます。前述のとおり、普通徒は長く留まらないため、トーチの数はそこまで多くならないのです。ここから、都喰らいの疑いが生まれます。アニメではこの点に気づいたのはマージョリーでした。
しかし、シャナらにはフリアグネのアジトが分かりませんでした。すると悠二が「トーチを減らせばおびき出せる」という提案をします。シャナが町中のトーチを破壊し始めると、案の定フリアグネが出現し、最終決戦へと結びつくのです。アニメの場合、トーチを減らす役割はラミーに持って行かれ、悠二の活躍もここでまず1つ無くなりました。
悠二がフリアグネにさらわれるシーンは原作にもありますが、実はかなり重要なシーンで、アニメではそれが全く分かりません。スタッフ痛恨のミスと言えます。何なのかというと、初対面の時に平気で悠二を斬ったシャナが、今度はそれを咄嗟に躊躇ってしまい、攻撃のチャンスを逃す。そして一瞬だけ悔しそうな、辛そうな表情を見せる。シャナが自身の変化に気づき、それに気づいた悠二もまた、複雑な想いを抱く。というシーンだったのです。ちなみに「坂井悠二を破壊する」の下りは2巻の内容なので、シャナが悠二に刃を向けるのは原作ではこの後の話になります。
フリアグネは、未熟なシャナにとってはあまりにも強すぎる敵でした(アラストール自信は知らぬものはいない程強いのですが)。シリーズ中でも屈指の強敵のようで、シャナが何度もフリアグネにボコボコにされているのはこのためです。しかし、最終決戦でのフリアグネは、最終段階である都喰らいの布陣を壊さぬよう、力を制限せざるを得ませんでした。また、シャナは他のフレイムヘイズとは異なり、存在の力の炎を殆ど使えない代わりに白兵戦に長けていました。そもそもフリアグネの従来の戦術では相性が悪かったのです。
そのような特殊な状況の中、フリアグネは追い詰められていきます。そしてそれを見ていたマリアンヌは、他の燐子より多くの力を与えられている自信の大爆発に寄ってシャナを瀕死状態に陥れたのです。自分は燐子であるから、たとえ滅んでも修復できるだろうという算段のもと、「二人の願い」を叶えるための行動でした。
ここで、悠二が不自然さに気づきます。シャナが瀕死状態になり、攻撃する必要がないのに『ダンスパーティ』を鳴らし続けるフリアグネ(動画では18分から)。人気のない場所とはいえ、普段と違い封絶を張らずに行われている激しい戦闘(これは原作のみ)。そして悠二は叫ぶのです。
「封絶だ!」
『ダンスパーティ』が都喰らい発動の鍵であるならば、封絶を張ってこの空間を隔離してしまえば町中のトーチに影響はない。その事実に気づいた悠二の機転でした。以後、悠二はシャナの戦術担当(?)としてシリーズを通し活躍するのですが、アニメではここも無くなってしまいましたね。さて、追い詰められた上、最愛のマリアンヌを蘇らせることも永遠に叶わなくなってしまったフリアグネはここで初めて発狂します。ダグで「エアマリアンヌ」と言われたあの動作にはこうした背景があるのです。
ここから先はフリアグネが儚くも最愛の人を思いながら滅んでゆくという流れです。前述の通り、ネタバレにつき後日にします。
最後の最後でシャナと心が通じ合えたことに安堵した悠二は、ついに消え行く覚悟を固めます。が、……消えずに済んだわけですね。個人的にはあそこで消えていればどんなに綺麗な作品になっただろうと、残念でもあります。しかしそこは大人の事情。仕方ありません。それにシリーズ化していなければ僕はこの作品に出会っていなかったでしょうし。
という訳で、これで少しは分かっていただけたでしょうか? 原作のフリアグネはキャラクターとして独特の深さを持っていましたし、敵としては作品テーマを最も体現していたキャラだと思います。シャナや悠二も含めて、その関係や設定がいい具合に生命の儚さや尊さみたいなものを訴えてくるので、僕はシリーズ中1巻が一番好きなのです。上手くアニメ化されていなくて残念です。
ただ、繰り返しになりますが、2巻以降の部分に関してはアニメ版に利のある部分も多いです。どうせ毎週無料で好きな時間に、コメント付きで見れるのですから、根気よく最後まで視聴されることをオススメします。
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『灼眼のシャナ』関連記事リンク
就活早期化の対策と企業の反応
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今日はまた就活の話をしよう。この問題、関係者が多すぎて結構複雑だから結局解決できない可能性もあるなぁ。
まずはこの記事を読んでもらいたい。
商社連合が出した採用時期を遅らせる提言に対する企業の反応をまとめた記事。要約すると、「遅れさせることは現実的に考えて無理だし企業にとって都合が悪い。しかも商社だけ遅くしただけでは学生の就活がさらに長期化する。大学は役に立たないからむしろさらに早期化させて優秀な人材を確保したほうがよい」ということ。
たしかに、就活が長期化してしまうのは学生にとってはデメリットでしかなくて、当然よろしくない。ただ、だからと言ってこれ以上早期化させるのは論外だと思う。
学生も現在の大学の『授業』には期待してないけれど、自分磨きの時間を買ってるという感覚がある。最初から院進学を決めてる人間なら許容できるのかもしれないけれど、そうでなければ決断をより早く迫られることになり、精神的にも追い詰められる。
少なくとも、さらなる早期化を実現したければ未だ色濃い年功序列、終身雇用の名残りを払拭して人材の流動性を高めるべき。今の社会構造では入社してから後悔しても人生計画を組み直すことのリスクが高すぎる。
さらに、記事でインタビューを受けた御人の言う「優秀な人材」は、思慮深くプライドが高い傾向にある。早くから目標を定めてしまっている分スコープが狭い可能性も高く、ゆえに迷ったり悩んだりした経験もほとんどない。
従って自身が今までやってきたことを否定して大きく路線変更するようなことは苦手な傾向にある。何かの拍子に自身の価値観が覆されてしまうと、それはもう目も当てられないくらい、異常なまでに弱くなる。やる気はないけど道を外れる勇気もない社員がいつまでも残ったら企業はどうなるのか……。
これでは、企業は「本当に優秀な人材」を逃し、学生は「本当に行きたい会社」を逃すだけではないだろうか。
では現状維持ならいいのか。もちろん答えは「ノー」。
巷には「現在就活の主な時期になっている3年後期から4年前期は既に必要な単位を取得し終わっており、ゼミや研究室があるだけだから問題ない」との意見も見られるが、これは学校によりけり。
以前述べたように場合によっては一度に大量の単位を取得することが許可されない学校もある。また、他の人の意見に見られたが、日本の大学は2年生までほとんど基礎教育しか行わず、3年になってから専門科目が重くなったりする。当然中には必修も含まれる。やはり学校によっては出席回数が単位取得条件になるので、説明会だからと安易に休むわけにもいかない。
さらに、就活と進学準備を同時並行する学生も少なくない。院試は4年前期にはもう行われるので、準備は3年後期あたりから始まる。
現在の就活だって全体的に見れば大変な学生はいくらでもいるのだ。さらなる早期化の場合と同様、企業も学生もお互いしっかりマッチングできているのかどうか怪しい。
では今回の商社連合にならって、他業界も説明会や採用の時期を遅らせるのがよいのか? これも「ノー」。卒業研究が山場を迎える時期に就職活動も最盛期を迎えてしまったら、それはそれで死ねる。問題は解決しない。
ならどうするのか? とりあえず、「学生」という身分をもつ人間に対して就職活動をさせない、という考えが残る。これも具体的に考えていくといくつかの案に分かれるが、その前に学生に就活をさせない制度が何をもたらすのか考えてみる。
学生が就活をしなくなると、大学は喜ぶ。学業に集中してくれると思っているからだ。でももしかしたら、就活を言い訳に出来なくなると都合が悪い学校もそれなりにあるかもしれない。
学生はどうか。いくつもの作業を並行しなくてよくなるので、助かる。ただ、現在のように就活と院試を並行したい学生にとっては立ち回りが難しくなる。
企業はどうなのか。守られさえすれば、優秀な人材を他社にとられることはない。これは規制の強さ次第。ただ、採用時期が遅れると、各企業の業務に合わせた人材育成の期間が確保しづらくなる。「自由競争」を訴えるのはこうした背景からなのだろう。また、規制したところで競争のフィールドがアルバイト採用に移るだけかもしれない。こうなると、志望企業の近くに住む学生が有利になり、改善どころか新たに地域格差が生まれる。やばいな。
うーん。どれもダメなのか?
ちなみに「新卒採用」の制度を撤廃するというのは「学生就活禁止」の中の1項目として考えようかと思ってたのだが、いずれにしろ選考基準を各社が自由に決めるので変わらない気がする。
ん? まてよ。
そもそも大学がちゃんと教育していれば企業側が人材育成に時間とコストを割く必要がないのか? ただ、それでも企業ならではの研修が必要な部分はあるだろうなぁ。
…………。
むしろ高校がいらないんじゃないか? やばい。超理論になってきた。いや、でも学問という意味では大学予備校になりきってる普通科高校が一番無意味な気がする。そこの3年間を省いて大学教育をすれば、企業としては研修期間も割きつつ若い人材を早く現場に投入できるぞ。実は見直す必要が有るのは大学だけじゃないのか……?
………………
…………
……
というわけで、僕にしては珍しく全く結論がでないまま、今回の考察を終わろうと思います。ただ、後々この問題を再び考えるときの参考になるような考察はできたのかなぁとは思ってたりして。
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今日はまた就活の話をしよう。この問題、関係者が多すぎて結構複雑だから結局解決できない可能性もあるなぁ。
まずはこの記事を読んでもらいたい。
就職協定復活に異論噴出:日経ビジネスオンライン
商社連合が出した採用時期を遅らせる提言に対する企業の反応をまとめた記事。要約すると、「遅れさせることは現実的に考えて無理だし企業にとって都合が悪い。しかも商社だけ遅くしただけでは学生の就活がさらに長期化する。大学は役に立たないからむしろさらに早期化させて優秀な人材を確保したほうがよい」ということ。
たしかに、就活が長期化してしまうのは学生にとってはデメリットでしかなくて、当然よろしくない。ただ、だからと言ってこれ以上早期化させるのは論外だと思う。
学生も現在の大学の『授業』には期待してないけれど、自分磨きの時間を買ってるという感覚がある。最初から院進学を決めてる人間なら許容できるのかもしれないけれど、そうでなければ決断をより早く迫られることになり、精神的にも追い詰められる。
少なくとも、さらなる早期化を実現したければ未だ色濃い年功序列、終身雇用の名残りを払拭して人材の流動性を高めるべき。今の社会構造では入社してから後悔しても人生計画を組み直すことのリスクが高すぎる。
さらに、記事でインタビューを受けた御人の言う「優秀な人材」は、思慮深くプライドが高い傾向にある。早くから目標を定めてしまっている分スコープが狭い可能性も高く、ゆえに迷ったり悩んだりした経験もほとんどない。
従って自身が今までやってきたことを否定して大きく路線変更するようなことは苦手な傾向にある。何かの拍子に自身の価値観が覆されてしまうと、それはもう目も当てられないくらい、異常なまでに弱くなる。やる気はないけど道を外れる勇気もない社員がいつまでも残ったら企業はどうなるのか……。
これでは、企業は「本当に優秀な人材」を逃し、学生は「本当に行きたい会社」を逃すだけではないだろうか。
では現状維持ならいいのか。もちろん答えは「ノー」。
巷には「現在就活の主な時期になっている3年後期から4年前期は既に必要な単位を取得し終わっており、ゼミや研究室があるだけだから問題ない」との意見も見られるが、これは学校によりけり。
以前述べたように場合によっては一度に大量の単位を取得することが許可されない学校もある。また、他の人の意見に見られたが、日本の大学は2年生までほとんど基礎教育しか行わず、3年になってから専門科目が重くなったりする。当然中には必修も含まれる。やはり学校によっては出席回数が単位取得条件になるので、説明会だからと安易に休むわけにもいかない。
さらに、就活と進学準備を同時並行する学生も少なくない。院試は4年前期にはもう行われるので、準備は3年後期あたりから始まる。
現在の就活だって全体的に見れば大変な学生はいくらでもいるのだ。さらなる早期化の場合と同様、企業も学生もお互いしっかりマッチングできているのかどうか怪しい。
では今回の商社連合にならって、他業界も説明会や採用の時期を遅らせるのがよいのか? これも「ノー」。卒業研究が山場を迎える時期に就職活動も最盛期を迎えてしまったら、それはそれで死ねる。問題は解決しない。
ならどうするのか? とりあえず、「学生」という身分をもつ人間に対して就職活動をさせない、という考えが残る。これも具体的に考えていくといくつかの案に分かれるが、その前に学生に就活をさせない制度が何をもたらすのか考えてみる。
学生が就活をしなくなると、大学は喜ぶ。学業に集中してくれると思っているからだ。でももしかしたら、就活を言い訳に出来なくなると都合が悪い学校もそれなりにあるかもしれない。
学生はどうか。いくつもの作業を並行しなくてよくなるので、助かる。ただ、現在のように就活と院試を並行したい学生にとっては立ち回りが難しくなる。
企業はどうなのか。守られさえすれば、優秀な人材を他社にとられることはない。これは規制の強さ次第。ただ、採用時期が遅れると、各企業の業務に合わせた人材育成の期間が確保しづらくなる。「自由競争」を訴えるのはこうした背景からなのだろう。また、規制したところで競争のフィールドがアルバイト採用に移るだけかもしれない。こうなると、志望企業の近くに住む学生が有利になり、改善どころか新たに地域格差が生まれる。やばいな。
うーん。どれもダメなのか?
ちなみに「新卒採用」の制度を撤廃するというのは「学生就活禁止」の中の1項目として考えようかと思ってたのだが、いずれにしろ選考基準を各社が自由に決めるので変わらない気がする。
ん? まてよ。
そもそも大学がちゃんと教育していれば企業側が人材育成に時間とコストを割く必要がないのか? ただ、それでも企業ならではの研修が必要な部分はあるだろうなぁ。
…………。
むしろ高校がいらないんじゃないか? やばい。超理論になってきた。いや、でも学問という意味では大学予備校になりきってる普通科高校が一番無意味な気がする。そこの3年間を省いて大学教育をすれば、企業としては研修期間も割きつつ若い人材を早く現場に投入できるぞ。実は見直す必要が有るのは大学だけじゃないのか……?
………………
…………
……
というわけで、僕にしては珍しく全く結論がでないまま、今回の考察を終わろうと思います。ただ、後々この問題を再び考えるときの参考になるような考察はできたのかなぁとは思ってたりして。
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Cybersheep's Dream [ロックマン10楽曲レビュー6]
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さて、関係各所の調整も終わったのでロックマン10 BGMレビューの続きを。
今回はシープマンステージの「Cybersheep's Dream」です。作曲は『ROCKMAN5』の山口真里さん。
非常に特徴的なアレンジで、耳に残る楽曲です。ステージデザインとしては、マウスポインタをモチーフにした敵キャラが登場するなど、旧来のロックマンにはなかった新しさを取り入れていますが。楽曲のテイストとしてはロックマンが誕生した80年代当時、斬新さで世間を騒がせた『ライディーン』(YMO)に代表されるようなテクノのイメージを取り込み、新旧の「新しさ」を融合させています。
曲名を訳すと「サイバーな羊の夢」みたいな感じになりますが、その題名にあるように、楽曲自体もフワフワとのんびりした印象を与えます。このような傾向の楽曲は『5』のウェーブマンに近いものがあり、山口さんの個性のひとつが活かされていると見ることができるでしょう。
ただ、楽曲全体の構成としては、どちらかというとナパームマンに近いでしょうか。メインメロディはどちらも、基本となる節をアレンジしながら繰り返してひとつのセクションを形作り、そのセクションが切り替わっていくという流れで変わりはないように思います。一方、ウェーブマンではベースが単調なループ構造になっているのですが、ナパームマンの方はベース進行がバリバリにメロディを奏でています。
では、公式アレンジバージョンにいきます。
これはあえて狙ったのだと思われますが、原曲がテクノ調なのに対してロックで攻めて来ました。これはこれでありと言えばありでしょうか。原曲どおりのレトロテクノ調でアレンジしてしまうと古臭くなりすぎてしまうのかも知れません。あるいはこのアレンジも、原曲とは違った意味で現代と過去の融合であるという見方ができる気もします。
非公式のアレンジではやはりE-Tank氏のものが秀逸でしょうか。
原曲のテクノチックなイメージに忠実に創り上げたという感じです。
// 参考資料 --------------------------------------
『ROCKMAN5』BGM
『5』の楽曲聞いていると、ピアノ演奏が想定されている音運びが多い気がします。山口さんはピアノ弾きでしょうか。僕のお気に入りはグラビティマンとナパームマンとワイリーステージあたりですが、他にも名曲がそろってます。
あと余談ですが以前どこかで言ったように『5』のクリスタルマンは『アイシールド21』の村田さんデザインです。
本家記事もよろしくお願いします:http://voacgapr.blog107.fc2.com/blog-entry-81.html
さて、関係各所の調整も終わったのでロックマン10 BGMレビューの続きを。
今回はシープマンステージの「Cybersheep's Dream」です。作曲は『ROCKMAN5』の山口真里さん。
非常に特徴的なアレンジで、耳に残る楽曲です。ステージデザインとしては、マウスポインタをモチーフにした敵キャラが登場するなど、旧来のロックマンにはなかった新しさを取り入れていますが。楽曲のテイストとしてはロックマンが誕生した80年代当時、斬新さで世間を騒がせた『ライディーン』(YMO)に代表されるようなテクノのイメージを取り込み、新旧の「新しさ」を融合させています。
曲名を訳すと「サイバーな羊の夢」みたいな感じになりますが、その題名にあるように、楽曲自体もフワフワとのんびりした印象を与えます。このような傾向の楽曲は『5』のウェーブマンに近いものがあり、山口さんの個性のひとつが活かされていると見ることができるでしょう。
ただ、楽曲全体の構成としては、どちらかというとナパームマンに近いでしょうか。メインメロディはどちらも、基本となる節をアレンジしながら繰り返してひとつのセクションを形作り、そのセクションが切り替わっていくという流れで変わりはないように思います。一方、ウェーブマンではベースが単調なループ構造になっているのですが、ナパームマンの方はベース進行がバリバリにメロディを奏でています。
では、公式アレンジバージョンにいきます。
これはあえて狙ったのだと思われますが、原曲がテクノ調なのに対してロックで攻めて来ました。これはこれでありと言えばありでしょうか。原曲どおりのレトロテクノ調でアレンジしてしまうと古臭くなりすぎてしまうのかも知れません。あるいはこのアレンジも、原曲とは違った意味で現代と過去の融合であるという見方ができる気もします。
非公式のアレンジではやはりE-Tank氏のものが秀逸でしょうか。
原曲のテクノチックなイメージに忠実に創り上げたという感じです。
// 参考資料 --------------------------------------
『ROCKMAN5』BGM
『5』の楽曲聞いていると、ピアノ演奏が想定されている音運びが多い気がします。山口さんはピアノ弾きでしょうか。僕のお気に入りはグラビティマンとナパームマンとワイリーステージあたりですが、他にも名曲がそろってます。
あと余談ですが以前どこかで言ったように『5』のクリスタルマンは『アイシールド21』の村田さんデザインです。
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「ロックマン10」楽曲シリーズ
本家記事もよろしくお願いします:http://voacgapr.blog107.fc2.com/blog-entry-81.html
就活早期化と学内規定の剥離
本家記事:http://voacgapr.blog107.fc2.com/blog-entry-80.html
今日はめずらしく社会現象について扱おう。ズバリ就活早期化とその弊害について。大学の就活支援に対する姿勢が時代錯誤で中途半端な気がする。そういう辛口なお話。
企業の単独説明会というのは、平日にやる企業も結構多い。下手に休日開講して業務に支障が出ては困るだろうし、中には実際の業務を交えたセミナーを行う企業もあるため、それは仕方が無いと思う。だた、最近では就活早期化の影響もあり、授業やテストと大事な企業の説明会がバッティングする確率が増してきている。
都内の大学に通う学生は、授業の空いた1コマで参加することはできるかもしれないが、遠くなればなるほどそうはいかない。中には説明会参加が選考参加の前提条件の場合もあり、どうしても授業を犠牲にする必要は出てくる。欠席が何の問題もない学校なら別によい。ただ、大学がレジャー施設と呼ばれた時代は今は昔。単位取得の条件に出席回数を盛り込んでいる学校も少なくない。さらに、公欠がとれるか否かは学校による。そしてトドメを刺すように、今は就職氷河期だ。学生にとっては、授業なんぞでチャンスを逃すことなど恐ろしいことこの上ない。
ネットが発達し情報が大量に簡単に手に入る時代。上の年代の人達がどういう印象を持っているのかは分からないが、当事者の僕に言わせれば、かえってしんどい。あまりにも大量の、しかも漠然とした情報が恐ろしいスピードで流れこんでくるからだ(簡単な分、発信者側の厳選も甘い気がする)。そんな中、効率よく情報の取捨選択をするために、足を使った企業研究は以前に比べて格段に重要視されるようになっているという。僕自身、実際に説明会に足を運んでその大切さは実感している。某就活支援サイトのおかげで説明会の情報入手も参加申し込みも簡単にできるため、企業選択のための決め手となる何かを手に入れるべく、情報争奪戦が激化しているのだ。
さて、大半の大学には就活支援のための部署が設置されているはずだ。その部署は、某サイトの運営会社とも提携しながら「企業研究だ! 説明会へ行け」と学生の就活競争を支援しているのである。いや、極論とかではなく、本人たちの意図がどうあれ事実上そうなっている。ところが、世の中は「早期化、早期化」と大騒ぎになって少ない椅子の取り合いをしている状況の中、学生は一方で授業に出ろ、勉強しろ、単位を取れと言われるのである。どちらか片方しか取れないような状況に追い込まれた学生に対してこの扱いでは、ダブルスタンダードではないのだろうか? これが僕の感じる中途半端さである。
ひと昔前ならそれでもよかったのだろう。説明会は全部春休み中にあるとか、履修科目数に制限が掛けられてないのでもう単位は足りていて授業は受ける必要がないとか、落とした単位は総合成績に反映されない(取得した単位のみで構成される)とか。さらに前になってレジャー施設だったころの大学なら、出席回数など問題にもならなかったのだろうから、説明会に行きたければ行ってよかったのである。今では縛るところだけ縛っておきながら、それによって生じる副作用の検証や例外規定の策定が遅れている。時代錯誤以外の何ものでもなかろう。
大学教員と就活関係の話をしていると、こうした現状を性格に把握していないのではないかと思う。とにかく学生を院に進学させて研究させることのほうが大事らしい。
また別の教員からは、遠方の大学に通う学生が何人かで東京にマンスリーアパートを共同で借り、授業を休んで1ヶ月就活をするも、内定が取れずに帰っていくという事例について話を聞いた。それが悲惨なことだという認識はあるようだが、自分たちもその悲惨さを生み出している組織の内の1つに属する当事者だという認識は欠けているように思われた。
しかし、今や国立大学も含めて全ての大学が独立した企業みたいなものである。世の中の流れに柔軟に対応できないようでは、いずれ潰れてしまうだろう。
もちろん、ちゃんと勉強して欲しい気持ちは分かる。しかし、そうであるなら学生を抑えこむのではなく、もっと働きかけるべきところがあるのではないか? それとも、授業に出ていれば内定がとれると彼らが約束してくれるのだろうか? 院に進めばよりよい就職先に受かるということを保証してくれるのだろうか? できるはずがない。それは人生の保証を意味する。責任もとれないのに、制度上学生の就活を阻害している。
ある教員は言った。「転職活動するときだって、もともと務めている企業での仕事はこなさなければならないだろう?」と。隣で聞いていたクラスメイトは「ホントにそれでいいんですか……?」とつぶやいたが、僕は黙っていた。大学運営に関することを1教員に反論してもしょうがない。彼らもまた自身の意図とは無関係に、大学の方針を学生に納得させることが仕事の1つである。
しかし、考えてもらいたい。
「仕事をしろと言いながら転職競争を煽って社員を不安にさせる企業などあるものか」
本家記事:http://voacgapr.blog107.fc2.com/blog-entry-80.html
このトピックは2010年11月12日のツイートを元に加筆・再構成したものです。
今日はめずらしく社会現象について扱おう。ズバリ就活早期化とその弊害について。大学の就活支援に対する姿勢が時代錯誤で中途半端な気がする。そういう辛口なお話。
企業の単独説明会というのは、平日にやる企業も結構多い。下手に休日開講して業務に支障が出ては困るだろうし、中には実際の業務を交えたセミナーを行う企業もあるため、それは仕方が無いと思う。だた、最近では就活早期化の影響もあり、授業やテストと大事な企業の説明会がバッティングする確率が増してきている。
都内の大学に通う学生は、授業の空いた1コマで参加することはできるかもしれないが、遠くなればなるほどそうはいかない。中には説明会参加が選考参加の前提条件の場合もあり、どうしても授業を犠牲にする必要は出てくる。欠席が何の問題もない学校なら別によい。ただ、大学がレジャー施設と呼ばれた時代は今は昔。単位取得の条件に出席回数を盛り込んでいる学校も少なくない。さらに、公欠がとれるか否かは学校による。そしてトドメを刺すように、今は就職氷河期だ。学生にとっては、授業なんぞでチャンスを逃すことなど恐ろしいことこの上ない。
ネットが発達し情報が大量に簡単に手に入る時代。上の年代の人達がどういう印象を持っているのかは分からないが、当事者の僕に言わせれば、かえってしんどい。あまりにも大量の、しかも漠然とした情報が恐ろしいスピードで流れこんでくるからだ(簡単な分、発信者側の厳選も甘い気がする)。そんな中、効率よく情報の取捨選択をするために、足を使った企業研究は以前に比べて格段に重要視されるようになっているという。僕自身、実際に説明会に足を運んでその大切さは実感している。某就活支援サイトのおかげで説明会の情報入手も参加申し込みも簡単にできるため、企業選択のための決め手となる何かを手に入れるべく、情報争奪戦が激化しているのだ。
さて、大半の大学には就活支援のための部署が設置されているはずだ。その部署は、某サイトの運営会社とも提携しながら「企業研究だ! 説明会へ行け」と学生の就活競争を支援しているのである。いや、極論とかではなく、本人たちの意図がどうあれ事実上そうなっている。ところが、世の中は「早期化、早期化」と大騒ぎになって少ない椅子の取り合いをしている状況の中、学生は一方で授業に出ろ、勉強しろ、単位を取れと言われるのである。どちらか片方しか取れないような状況に追い込まれた学生に対してこの扱いでは、ダブルスタンダードではないのだろうか? これが僕の感じる中途半端さである。
ひと昔前ならそれでもよかったのだろう。説明会は全部春休み中にあるとか、履修科目数に制限が掛けられてないのでもう単位は足りていて授業は受ける必要がないとか、落とした単位は総合成績に反映されない(取得した単位のみで構成される)とか。さらに前になってレジャー施設だったころの大学なら、出席回数など問題にもならなかったのだろうから、説明会に行きたければ行ってよかったのである。今では縛るところだけ縛っておきながら、それによって生じる副作用の検証や例外規定の策定が遅れている。時代錯誤以外の何ものでもなかろう。
大学教員と就活関係の話をしていると、こうした現状を性格に把握していないのではないかと思う。とにかく学生を院に進学させて研究させることのほうが大事らしい。
また別の教員からは、遠方の大学に通う学生が何人かで東京にマンスリーアパートを共同で借り、授業を休んで1ヶ月就活をするも、内定が取れずに帰っていくという事例について話を聞いた。それが悲惨なことだという認識はあるようだが、自分たちもその悲惨さを生み出している組織の内の1つに属する当事者だという認識は欠けているように思われた。
しかし、今や国立大学も含めて全ての大学が独立した企業みたいなものである。世の中の流れに柔軟に対応できないようでは、いずれ潰れてしまうだろう。
もちろん、ちゃんと勉強して欲しい気持ちは分かる。しかし、そうであるなら学生を抑えこむのではなく、もっと働きかけるべきところがあるのではないか? それとも、授業に出ていれば内定がとれると彼らが約束してくれるのだろうか? 院に進めばよりよい就職先に受かるということを保証してくれるのだろうか? できるはずがない。それは人生の保証を意味する。責任もとれないのに、制度上学生の就活を阻害している。
ある教員は言った。「転職活動するときだって、もともと務めている企業での仕事はこなさなければならないだろう?」と。隣で聞いていたクラスメイトは「ホントにそれでいいんですか……?」とつぶやいたが、僕は黙っていた。大学運営に関することを1教員に反論してもしょうがない。彼らもまた自身の意図とは無関係に、大学の方針を学生に納得させることが仕事の1つである。
しかし、考えてもらいたい。
「仕事をしろと言いながら転職競争を煽って社員を不安にさせる企業などあるものか」
本家記事:http://voacgapr.blog107.fc2.com/blog-entry-80.html