内向的思考型人間の物思い@Ameba -7ページ目
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「自分」とは何か。問われた僕は [小説『灼眼のシャナ』]

本家記事:http://voacgapr.blog107.fc2.com/blog-entry-79.html

このトピックは2010年10月31日及び11月11日のツイートからの派生トピックです。

さて、昨日『灼眼のシャナ』第5話のレビューにて、「自分自身の価値観を見直すきっかけになった」と書きました。今回は予告通り、その件について語っていこうかという趣旨です。当然ですが極めて私事になります。ご了承下さい。

僕がこの作品に出会ったのは2006年の晩夏くらいだったと思います。当時高校生だった僕は部活も引退し、文化祭も終わって受験生になっていました。そんなある日、部室で一冊の本に出会います。表紙は色あせ、ページは黄ばんだその本は、少し前までは見かけなかったものでした。誰が持ってきたのかは未だに分かりませんが、それこそが高橋弥七郎さんの著作『灼眼のシャナ』だったわけです。

中学時代くらいからジャンプアニメのクオリティの低さが気になり始め、僕は高校に入ってから基本的に2次元との関わりを持ちませんでした。「ライトノベル」などというものは当然知る由もなく、髪の赤い女の子が学生服を来て刀を持つ姿が、異質に思えたものです。まあしかし周りに誰もいないのですから、異質なものには好奇心がわくのが人間というもの。僕はその表紙を開き、少しずつページを繰っていきました。もともと読書も好きで推理小説なんかを読んでいたので、活字に抵抗はありませんでしたし。アニメ版しか知らない人には伝わらないかもしれませんが、原作の1巻というのは脆く儚い不思議な雰囲気があるのですよ。これはちゃんと読んだほうがいいなと思い、どうせちらかった部室に置いてあるものだからと、借りることにしました。

ひとつ注釈を入れておくと、当時の僕は小説がシリーズ化して10冊以上も出るメディアだと思っておらず。1巻を読み進めている間はこの1冊で完結するものと思っていました。その状態で消えてしまうかもしれない悠二の物語を追っていくのは、特別な感覚がありましたよ。秋ぐらいになって調べたら10巻以上も刊行している上にアニメ化もしている。僕はそれから数々のラノベを買い漁り、まだ英語版しかなく、著作物も放置されていたYouTubeで沢山の深夜アニメを見たものです。

悠二は、「シャナやアラストールが、僕がいたということを覚えていてくれえる。それでいい」と言いました。そのとき僕は考えたのです。自分が今すぐ死んだら、一体どのくらいの人が自分のことを覚えていてくれるのだろうかと。もちろん、家族や親戚はいつまでも覚えていてくれます。しかし、その他の人たちはどうでしょう。物語のように、いなくなってすぐに忘れるということは無いにしても、その人達が何時までも覚えていたいと思うような、意味のある存在になれているのだろうか。

僕は、これから僕がやろうとしていることが、何か違うのではないかという、漠然とした不安を抱えるようになりました。もともと軽い懸念事項程度のものが自身の中にあったと思いますが、不安として顕在化したのはこのタイミングだったように思います。その不安が一体何であるのかが、全く解らないまま時間は過ぎていきました。

2007年になり、僕は浪人することになりました。その5月末、ZARDの坂井泉水さんと元農林水産大臣の松岡利勝さんが立て続けに亡くなるという報道が世の中を湧かせました。両者の背景は全く違うものでしたが、どちらも世の人たちの記憶に深く残るものであったと思います。特に坂井泉水さんに関しては、その後も長い間悲しむファンの様子が報じられ続けました。

「シャナやアラストールが、僕がいたということを覚えていてくれえる。それでいい」
そういうことなのかな、と思いました。

そうやって考えると、例えば歴史の教科書に名前が載っている人なんてのは相当すごい訳です。本当は歴史の上では数えきれないほどの人間が数えきれないほどの功績を紡いだ結果として今の世の中は存在している。けれど、教科書の上ではその人達の大半が存在しなかったも同然です。そう、歴史の教科書の上には、たくさんの消えていったトーチがいるのです。存在はしないけれど、影響が完全に消えるわけでもないというトーチの特性は、僕の中でそのまま現実の人間に当てはめられてしまったのです。僕は本当にちっぽけな存在でした。教科書に名前を残そうとか、そういうのはまた別としても、僕の存在はあまりにも小さすぎると思ったのです。

いい学校に行っていい会社に入るのが幸せなんだと思ってきた。けれど、このままの小さい存在では、生きながらにして生きているとは言えず、だからといって死んだとしても迷惑を掛けるだけ。僕は幸せというものを履き違えていたのではないか? 本質を理解していないのではないか? その証拠に、じゃあいい会社に入っていい給料をもらったとして、その後どうするつもりだったのか? いずれは退職するときが来て、その後何をして生きるつもりなのか? やがて死ぬときになって、自分は納得して死ねるのか? ……考えれば考えるほど、何も考えていない自分が顕になるのでした。

その後の僕は底なし沼の中でもがき続けていました。受験が迫っている中、とりあえず現行の価値観に従って区切りのいいところまで進むべきだという保守的な自分と、それは本来の自己実現ではないと今の自分を批判する革新的な自分とが延々と平行線をたどる脳内サミットです。

ま、結局大学には入ったので、それからは自分の人生についてもう一度真剣に考えました。自己実現とは何なのか。そんなに簡単に答えの出るものではありませんが、既存の自分を自分自身で破壊してしまった当時の不安定な感覚は収まりつつあります。むしろ、こういう重たい悩みを社会に出る前に経験したことが、今後の僕にとっての糧となっていくのでしょう。新しい自分の発見にも、素直に感謝しているところです。

という訳で、「ひとつの作品でそんな重いこと考えんなw」とか突っ込まれてしまいそうですが、実際には色んな要素が偶然あのタイミングで絡みあって起こったことです。ただ、考えていく過程の中で『シャナ』は間違いなく受けた影響が大きい要素のひとつなのです。この経験を通して、僕はエンターテイメントがいかに人間にとって大切なのかということを教わった。そういう思い出深い話なのですよ。
ね、私事極まりないでしょ?

「自分」とは何か。読者・視聴者に問うラミー [『灼眼のシャナ』第4話]

本家記事:http://voacgapr.blog107.fc2.com/blog-entry-78.html

このトピックは2010年11月11日のツイートを元に加筆・再構成したものです。

それでは、『灼眼のシャナ』第5話「それぞれの想い」についてのレビューを始めようかと思います。動画はこちら。

灼眼のシャナ 第5話「それぞれの想い」:ニコニコ動画

これまでの話で悠二は、自身の存在意義について問うようになりました。そして、他の誰かが忘れてもシャナとアラストールは自分が生きていたということを覚えていてくれること、友人たちに分け与えた存在の力が彼らを生きながらえさせることなどにその意義を見出した訳です。ここまでは、原作で言うと1巻の悠二が見出した答えです。

しかし、ラミーとの接触により、それだけでは片手落ちなのだということを指摘されてしまいます。すなわち、「覚えていてもらえる君が、今のままの君でいいのか?」という問いです。原作ではラミーとの接触はフリアグネを討滅した後なのでニュアンスが変わりますが、読者・視聴者に問いかけたいことの本質としては変わらないので、とりあえずアニメ版の方に沿って話を進めます。

これまでの悠二は、ある種の自己満足に浸っていたと言えます。無意識下では「もう消えてしまうのだから」という諦めの感覚もあったのでしょう。献身的でこそあるものの、自己実現という観点からは全く何もしていませんでした。相手にとって自分が価値ある存在であるのかという観点もなく、極めて狭い視野で物事を考えていたのです。ラミーによって自分の「想い」がまるで浅いということを思い知らされます。

ラミーは問います。「君は自分の存在が消えてしまうということに何も感じないのか?」と。
これは、かつてラミーが大切な物を失ってしまった経験から来るもので、原作の10巻あたりを読んでいると感じ方に深みが出ると思います。僕はOVAはまだ未視聴ですが、少なくともTVアニメ版では描かれていません。ラミーにとっては、「ひとつの目的のために生きていくというのはどういう気持ちなのか」と問う悠二が不憫に思ったことでしょう。今しか出来ないことがあって、それに向かって努力しなければ、後で後悔するということを身を持って知っていたからです。まして、目の前にいる少年はじきにこの世から消えて無くなる存在なのですから。

「今の君は坂井悠二として生きていると言えるのか?」
「私にはトーチにしか見えない……」

ラミーが悠二に語りかける言葉は、実は悠二自身ではなく、読者・視聴者に向けて放たれているものです。ここで、自分自身のことを全く考えなかった人は物語がちゃんと読めていないと僕は考えます。「生きる」とはどういう事なのか、ただの動物ではない「自分」とは何なのか、そういった問いかけがこの会話の中に詰まっています。

一方のシャナは、自分の気持ちに整理がつかず、ボロボロの状態です。シャナは自分の「想い」がよく分からないのですね。見かねたアラストールは、零時迷子が転移してしまう危険性を承知のうえで、悠二を破壊する決断を下します。精神的に脆くなったフレイムヘイズが滅んでゆく姿を何度も目の当たりにしているアラストールとしては、シャナのことを放っておけなかったのでしょう。あるいはシャナの気持ちを試す目的もあったのかも知れません。これがアラストールの「想い」です。

今回はこの他にサブファクターとして、吉田、マージョリー、ラミーらが各々の「想い」に従って動く姿が描かれています。
じわじわと次の回に向けた準備をしている回なので、盛り上がりには欠けるかも知れませんが、物語の中では十分に重要な回であると言えるでしょう。「今回はつまらなかった」というコメントを見ると、まるで何も見ていないなと思います。

さて、当時高校生だった僕はこの作品(原作ですが)に触れたことが、自身の価値観についてもう一度見直すきっかけになりました。話せば長くなってしまうのですが、そろそろこの話を切り出せる頃合いかとも思いますので、後日別トピックとして立てようかと思います。ではでは。

Amebaを使ってみる

偶然にもお尋ね下さった方々、たぶん初めましてですね。Keisukeと申します。
最近、勉強の意味もあっていろいろなSNSやWebサービスを使い比べています。

ブログも既にFC2の方に持っているのですが、
Amebaも使ってみようということでアカウントを取得しました。

ま、当分内容は向こうのコピペになります。
普段の人付き合いではあまりしないような、難しい話が多いと思います。

普段話す機会がないようなことが好き勝手言えるのは、
こういうメディアのいいところです。

というわけで、よろしくお願いします。

ちなみに本家FC2ブログはこちら。
内向的思考型人間の物思い
更新は本家が先です。サイトデザイン的にも向こうの方が気に入ってます。
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