この秋文章上のことで困ったことが二つある。
一つは、「いのちの祭り」がどう言う現象であるのかを取材・考察するうちに、そこにレイブ音楽的なものと縄文スピリチュアル的なものが同時にあり、この非常に方向性が異なるように思える二つが、いったいどうして共存することになるのか、それがどう言うことを示唆するのか考えがまとまらなかったことである。
もう一つは、では、その答えがでないまでも、とりあえずその状態を具体的に描出しようとした場合に、これまでの文体で書いてもしっくりこないことである。これは現在私が用いている標準語に問題があるのかという「疑念」にも逢着するが、世の中が進んでいるのだからそう言うことが起こってくるのも当然のことかもしれない。が、新しい文体を生み出すことは未だ叶わないでいる。
都市生活での労働。多くは電子波動の中。その「ストレス」の実態は情報吸収過多。
これを休日に完全に吹き飛ばす必要性。そうしないと仕事に戻れない。
その対策の一つにレイブ音楽の波動に身を委ねて、異次元の空間を体験する選択がある。
日常を完全に忘れたい!でもこれはディズニーランドなどのテーマパーク体験とは全く非なるもの。
ズンズンズンズン・・・・・・・・高速の基調低音の連続―否が応でも背骨はそれを感得してしまう。
何も考えられなくなる。ただその音に身を任せて踊るしかない。
演奏しているのはコンピューター楽器であるが、そこではこれまで表現できなかった新しいニュアンスの表現が実現している。
また、会場のレーザー技術の臨場感も驚くべきものがある。そこには確実に「先」に行っている感触がある。
そこには「神」はない。
これを朝まで一晩中行う。
縄文エリアでは、まず真ん中に大きな鉄鍋の焚き火がある。奥では土器の素焼きが行われ、ナチュラルに飾り付けられた中央舞台ではもっぱら楽器の生音が鳴り響く。その正面のテントの下は流水・水晶などを用いて「波動調整」してある。スピーカーもあるが、ナチュラルな手製のものである。縄文と焚き火は合う。ここでは瞑想はあっても電子音はない。
このエリアをオーガナイズするのは「タカ」というハンドパン奏者で、この人物がここでカタカムナ音読をするために私を呼んだ。私はその演奏を聴いてうっとりした。脳裏に星空が浮かび、同時にバロック音楽を聴いているような感触にさせられた。
あれはちょうど2ヶ月前の台風通過の時だった。
さて、三峰ちどりや、午後3時。歌手の山口愛さんとタカのハンドパンのコラボが始まった。