「脱帽」したことについて | JOKER.松永暢史のブログ

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「コロナ」がだいぶ遠のいたかと思われる今日この頃だが、いまだレッスンにやってくる中学生たちの多くがマスクをしているので、

「なんでまだマスクをしているのか?学校でもしているのか?」と聞くと、「今でも約8割以上はマスクをしている」と言われて驚いた。

高校生は「半分以下」と言う。大学生は「ほとんどいない」と言う。しかし中学生は8割。これについてはなぜそうなのかを生徒たちに尋ねながら考察し続けてきた。

生徒たちが言うのは、「同調圧力。みんながしているからやめられないことが大きい」とのこと。

「じゃあいつやめることになるのか?」

「それはみんながやめた頃」

それにしてもなぜ中学生か。

これを問い詰めていくと、どうやら思春期現代の中学生たちは自分の顔に自信がないのが一般であることが浮かび上がる。つまり、日頃アイドルやハンサムくんに親しんでいる彼らは、自らをその対極の存在と認識して、自分の顔をできるだけ隠したいと思う心理になっているらしい。

中にはマスクをしない子を、「あの子は自分の顔に自信を持っているから」とカゲ口を叩くこともあるそうだ。

ここでさらに考えてしまう。

「美しい」「かっこいい」とは単に顔の造作だけのことを指すか?

失礼だが、イチローやマツイといった野球選手や、名前はよく知らぬがCMなどによく顔を出すサッカー選手などは、そもそも「美貌」とはかけ離れた存在である。でも「カッコイイ」。それはスポーツに集中するときに形作られるその「集中」の顔つきが良いからである。また感性豊かな女性アーティストが演奏する姿は美しい。ゆえに彼らは「マスク」をする必要がない。自分の顔のままで「OK」である。

だから、「顔の良し悪し」は、造作だけではなくて、普段どのようなことに高く集中しているか、あるいは普段どのようなことに感性敏感に反応しているかによっても決定されていることになる。すると、自分の「顔」を良くしたければ、何かに集中してそのことを通じて表情を良くしようとすることが肝要と言うことになる。自信がないところを隠すのではなく、自信がある表情に変えるのだ。だが、まだその実行が意識的にできない中学生たちには、自分の「顔」に自信を持てないのも当たり前か。

・・・などと考えておるとき、You-Tubeである人といつも通りに帽子をかぶって共演すると、コメント欄に「なぜ脱帽しない」と言う文言が現れた。

そこでその答えを自分なりに考えると、即座に「頭髪の薄さの露見の恥ずかしさを避けるため」と言うあたかも用意したような答えが返り、その瞬間、中学生のマスクと同じことを老人の自分がしていることを感じてオカしくなってしまった。

読書や学究を重ねる知的習慣によってではなくて、何かオモロイことをバカになったり苦虫を潰したりして考えようとする物書き的習慣が、その「顔」を良くすることはまずないと予め洞察はするが、その「表」に出ないはずの者が表に出るときには、思いっきりぶっ飛んだ「癲狂的老人」を演ずるのが正しいのではないかとも思えてきたりする。だが、それでは「スピリチュアル系」どころか、「教育系」にもカテゴライズされることは「不可」になることが当然となり、その結果かえってそこに「アウトサイド」の意味が顕現することになるのか。

いずれ皆いつかは気がつくことになるであろうが、既成の価値観はつまらない。

 

つるっぱげ  帽子なければ  炎天下  (冗)