「不登校」のするべきこと | JOKER.松永暢史のブログ

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少子化、出生率の低下は続いても、生まれてくる子どもがゼロになるわけではない。そしてその生まれてきた子どもたちにこの国の学校教育を与えることは「義務」とされる。

ところが現実には、ますます「不登校」が拡大定着し、教員の精神疾患・離職数も増大している。

私は、自分の仕事を通じて、この国の学校教育が「崩壊」しかけていると思うが、そう思わないと思われる人が多いのは「不思議」である。

儒教的文化価値観は、少子化、核家族化生活が一般化したことでその「柱」になるものを失った。教師と生徒という関係は過去のものとは異なったものになってしまった。

これまでの、子どもに無理やり言うことを聞かせることを柱とする教育は、「体罰」がなければ成立しない。「体罰」が禁止されれば、その教育の続行ができないとことは想像に難くない。

では、既成の教育の再生のために「体罰」を復活させる?―そんなことは無理な相談だろう。

気をつけ!右向け右!前へならえ!などを徹底するには、「体罰」的脅しがなければ無理である。

しかし、これを言葉でやると、かえって不自然なことになってしまう。それどころか怒鳴り声を上げて「暴力」と同じことになってしまう。

これは現行教育のごく一部を切り取ってみた考察であるが、明らかにシステム的「矛盾点」が露呈しているのにこれを無視して改善策に議論が進まないのは、本当に不思議なこととしか言いようがない。

フリースクール、インターナショナルスクール、はたまた海外留学を選択する人たちが増えれば、次段階では、では日本の学校教育を受けずにこの社会(世界)でどのような能力を身につけていこうとすれば良いのかと言うことへの対処が課題となる。

この答えは、「日本語テキストが読める人材に育てること」と言うことと、本来は学校教育で失わさせられた個人個人の特殊性を磨くと言うことに集約されると思う。

日本人とは、日本語を話し日本語で読み書きする人たちである。あらゆる研究も、資格試験も日本語で行われている。だから、本来学校教育が目指すものは、単なる授業理解ではなく、18歳までに日本語標準テキストを自分で読んで理解し、前へ進む力である。そしてこの能力は、基礎さえできれば学校に通わずとも自分で獲得することができる力である。

不登校になって、親が仕事で外出すると、多くの子どもは室内での退屈に耐えきれずに、ゲームかネットに手を出す。しかも糖分の多い清涼飲料水を習慣的に飲み、おまけに血糖値を上げる甘い食べ物を多く口にする。

そうではなくて、不登校になったからこそ、朝早起きし、健全な食事を摂り、室内外での自分のしなければならないことを充分しつつ、音読や漢字や計算などの基礎的な練習を行い、その上で自分が興味があることをネットで検索し、読むべき本を見出し購入し、自分のやりたい習い事やスポーツに出かけて人とコミュニケーションする習慣を持つ。

こうした生活は、明らかに学校教育を受けるよりも能力を伸長させる可能性が高いと思う。

子どもにあらかじめ決まったことをすることを強制するのではなく、子どもたちのやりたいことを選択させ、その中で個々が能力が伸ばすために必要なことを与えていく。これを学校教育でやろうとしないのはなぜか?