いったい自分は何をやっているのだろう。一つゲラ校了して、「逃げ出し」て「旅」に出ると、旅先で別の原稿の最終ゲラが来る。旅先では今秋の「カタカムナ音読ツアー」の打ち合わせに音読会、サイコロ会。さらにカタカムナ音読新規スタジオ録音。
車窓から見える新緑を、まるで羊のようにバクバク「食べ」て、およそ2000キロ走って家に帰ってきた。すぐに洗濯と洗車・植物水やりを行い、今やっとデスクに戻った。やはりデスクでないと落ち着いて仕事ができない。これからやらなければならないことが積もっている。
気がつくと、このブログを一週間書いていない。それは「旅」のため。「多忙」のため。
しかし、旅は「濃かった」。それは自分の感性と視点がすでに変換していることを認識させるものだった。
少なからぬ芸術家、創作家、活動者である人たちと接して、今の自分の「状態」を再確認した。
「前」に進み過ぎれば、着いて来ることができない者が多くなる。しかしそれでは、「作家」は成り立たない。「音楽」や「美術」、あるいは「純文学」のような『芸術』はそれでも「生き残る」こともありうるが、同時代の「大衆」を対象とする「作家」は、同時代に「ウケ」れば「生き残り」も関係ない。しかし、それは容易いことではない。人が食いたくない野菜を育てることは「無意味」か「アホ」。これは資本主義以外のいかなる社会においてもそうだろう。もちろん何をするのも個人の勝手。「薬草」と言うこともあるかもしれない。でもそれでは「趣味」になってしまう。
「前」に進まなければ何もできぬが、人がついてこれるようにしなければ「教育」は成り立たない。でもどうも、「お客さま」になることに慣れていて、それがどーユーことか自問しないタイプの人たちが、「オモロイ!」と言う理由で、思わず読んでしまうものを作れなければ話にならない。それには「芸」に基づくアタマの「ハタラキ」が必要になる。
それはいったいどう言うことなのか?
ともあれそれは、「神」に祈れば済むことでは絶対にあり得ない。それは別の人の役割である。
このままでの状態で「執筆体勢」に移りたいが、明日からびっしり授業予定が入る。
音読収録していても思い知らされたが、もはや長時間の音読指導は無理。喉がついていかない。しかし、意味を捨象した「叫び」こそが、この音読の「極意」なのである。みんな、大声でやるのが正しいんだよ。わかってるかい。
ここでいつものように「意識」を飛ばすために書くが、読者よくご存じのように、このブログはいわゆるある種の「冗談」で書かれていることになっておるそうだホイ。「真面目」が正しいなんて誰がいつ決めたか。ネアンデルタール人や縄文人のわけがない。
昨日から、You-Tubeで、小名木善行氏による「希望の日本再生チャンネル」で、私の「ベラベラ」が公開されている。興味のある人はご検索あれ。