6月20日発売予定の新訂版『未来の学力は、「親子の古典音読」で決まる!』が校了した。この本の内容は、日本語の一音一音性をカタカムナで確認し、その後の『古事記』、『古今集』、『源氏物語』、『平家物語』、『徒然草』などの日本語古典を、親が音読する音を子が耳にすることによって、子どもたちの日本語能力の元を与えると言うものである。
私がカタカムナ音読教育を始めておよそ30年が経たんとしているが、それはカタカムナが他のどの日本語古典よりも日本語能力を伸ばすテキストであることを実践的・経験的に確認し続けているからである。同時に私は哲学する者であり、大学に進学してすぐに、不完全と思われる言語で哲学的真理を規定しようとすることはナンセンスであると言う考えに到達し、不完全な言語を用いてその可能性を拡大するためには意識的にふざけたものを書くことが正しいとして、「冗談文学」を開始した。
そもそも「限りなく無神論に近い哲学系」を自称する自分にとって、カタカムナを利用することは、「スピリチュアル系」と見なされることに繋がるやや芳しくない選択でもあった。それでも、カタカムナを密かに個人的に教えると言うのであれば別に問題なかったが、その効果のあまりの大きさに驚いて、これをできるだけ多くの子どもの耳に届けるようにすることが教育者としての「任務」であると思い、これに関する数冊の書を著してきた。するとその結果自ずと、カタカムナ関係やスピリチュアル関係の人たちとの接触が増えることになった。
2023年には、ついにその名前をタイトルに入れた『カタカムナ音読法』を発表したが、この本において初めて出版社の許可が出るほど、表にカタカムナの名前を出すことはそれまで控えられてきた。その理由は先にも書いた通り、「カタカムナ」と言うと、多く「スピリチュアル系」と勘違いされて、忌避する教育関係者が多いと思われたからである。しかし近年、カタカムナ関係の数多くの書籍が出版され、またネット上でもカタカムナ関係の数々の動画が公開されるようになった。そして、そこに登場するのは私には理解不能のスピリチュアル系の人たちであった。
しかし、「冗談文学」に登場するモデルを探し求めている自分にとって、外国人、芸術家、縄文文化研究者に続いて現れた「スピリチュアル系」は、面白いとしか言いようがない人たちの集団だった。特にカタカムナ研究系は、皆その研究によって、これまでの人たちとは異なったアタマの働きを体得している人たちで興味尽きなかったが、その各々語ることはほとんど理解不能なことばかりだった。でも、なんとも言いようがない「魅力」を発しているオモロイ人たちなのであった。
ともあれ、まだまだ一部の人の間ながら、カタカムナは「有名」になりつつある。幸い『カタカムナ音読法』も版を重ねている。
カタカムナを研究する多くの人たちにとって、カタカムナは宇宙潜象物理を明らかにする「科学書」であるが、私にとっては、古代人の叡智を伝えていると思われるものに過ぎず、子どものアタマをよくする国語教材でしかない。
もしもカタカムナが崇高な「真理」であるならば、それは言語で規定できない。それは、生涯に渡りその研究に身を捧げた宇野多美恵先生にもなせなかったことであることからも明らか。一方で彼女は「直勘把握」の大切さを説いていた。これはつまり言語を超越した認識である。彼女のして見せたのはその実践である。
私が日本語音読に用いて気付いたように、個人がその研究の結果価値があると思われる成果を得ることはあるだろうが、それは「真理」ではなく「真理」の部分的把捉に過ぎない。だが、そうした研究が重なって、あたかもプラハの錬金術師たちの多年にわたる「格闘」の結果近代化学の礎が築かれたように、大きな発見が生まれる土台が築かれ、やがてそこに一切を統合する「天才」が現れるのではないか。だから、カタカムナの研究をし続ける人たちは、その日が来るようにするために、その準備をしている「同志たち」と言えると思う。
カタカムナと日本語古典を結びつけようとしている私には、彼らはみんなでこれからやって来る「文化的高まり」を演出しようとしている人たちなのだと観ぜざるを得ない。だから、カタカムナには書かれていないようだが、そこに「恥を知る」と言う日本的な「徳」の概念を加えることを忘れないようにしてほしいと願う。