完全「商売」公開試験問題の実態とカラクリについて | JOKER.松永暢史のブログ

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日曜日。朝から3軒行った後、最後にやってきたのは小6生。午前に公開模擬試験を受けて疲れ果てているのにご苦労だった。

で、その公開模擬試験の国語問題を見ると、これはひどい。

出題文の選択もさることながら、設問は全て採点しやすいように作った穴埋めと選択肢とまるでパズルのような字数指定の抜き出し問題。入試国語問題と全く違う。

この試験では、ごくできる者は万点級に取るのかもしれないが、その他の子どものほとんどは「混乱」する。そしてたとえもしこれで高得点してもあまり国語の能力が高いとは言えない。しかし、そこに起こる「差別化」が偏差値の価値を高める仕組みになっている。そして偏差値が伸びなくて焦った親はさらに進学塾の「カモ」になる。

つまり、この国語模試問題は無意味な暇つぶしどころか子どもたちの貴重な時間を無駄にし、しかもその結果に騒ぐ親たちを完全にカモにした、言わば「公営ギャンブル」と同等のものだった。

この試験結果に一喜一憂する親は、いやその点数・偏差値だけを基準にする親に叱られる子どもたちはお気の毒としか言いようがない。こんな問題ができるようになることを目指しても、真の国語力がつくようにはならない。これは完全に「商売」でやっていることである。

しかし逆に、この問題を作らせられている「教育労働者」たちの「境遇」を慮ると、いささか気の毒な気持ちも禁じえない。彼らは絶えず出題ネタになりそうな文章を探し続けなければならず、しかもそこに採点が単純な仕組みの問題を作成することが義務付けられる。しかもそれが年1回ではなくて、年がら年中である。「疲弊」する。

当然出題の質は落ちる。そして、そのテストを受けるのは、せっかくの日曜日を潰された子どもたちである。

学校教育もひどいが、進学塾教育ビジネスもひどい。そこでは子どもに無意味なことをさせて時間を奪うことについての反省が全くない。

仕事をしたことになれば良い。どうせ若い親はバカばかり。本当の能力開発なんて考えない。ただ自分の子が他の子よりも偏差値が上回ることを願うだけ。

その前の日に、リベラルアーツ参加の吉祥女子2年生が、中学1年時は徹底した「百人一首」の教育があったと口にする。これには、「流石に私立の名門校は国語教育の観点が違うわい」と感心していると、今度は別のブースで別の先生の授業を受けているJG1年生が、JGでも1年1学期の国語教育は「百人一首」の学習がその中心であると言う。日本女子大附属中に行った子にも聞いてみたいが、どうやら名門女子では、「百人一首」などの和歌についての教育が推奨されているようである。そこでどのような音読教育がされているのかさらに興味が募るが、ここでわかるのは、名門女子私立は、和歌の素養がある子どもを採ろうとしているはずであるという「事実」である。

もし公開模試で、和歌を詠ませる試験問題を出すとどうなるか?

その答えは、「採点できない」になる。

しかし、名門私立中はその素養がある者を求めているのである。

それには古典文音読の素養が欠かせない。

日曜日に国語の公開模試は受けないで、その前に「百人一首」を学習させる方が「有意義」ということになるまいか。

でもこれがわかるのは、「デキる親」のみであろう。