長らく顔見知りであるのに、いつどこで初めて出会ったのか思い出せない人がいる。
海老沢研氏もその一人である。
今思い浮かぶのは、彼が西荻の狭いブラジル酒場でギター片手にボサノバを歌う姿である。
大学卒業後、ブラジルで長く生活して現地に家族や足場をも持つ彼が、日本に戻ると芸術家になる。
70歳を超えてその制作意欲に火がついた。ほぼ毎日描きっぱなし。およそ2ヶ月で50枚の油絵作品を描き上げると言うのであるから尋常ではない。
その彼の個展に行ってきた。以下は、彼に送った「印象批評」である。
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「中心性」―目に見えぬ「自然」
神楽坂の白日居ギャラリーで海老沢研の個展に接した。
「VISITING MIND GARDEN〜こころの園探訪〜」と名付けたこの個展は、まさに「春」の気分を多様に満開させたものを感じさせるパフォーマンスだった。
暑さの終わりかけた昨年初秋の個展では、表参道のGallery5610で開催されたが、夏の直後にたくさんの百合の花の絵を見せられるのにはちょっと食傷した。しかし、そこには不思議な「エネルギー」があった。
だが、その「花シリーズ」の末尾に、私が「これは一枚上に行っている」と思った草色の抽象画があった。
「こういうのもっとやったらいいのになあ」と伝えた気持ちが伝わったのか、今回はそれ風を含めた作品が多く、しかもさらに独自にその先へ進む「認識」を内包しているように思わせた。いや、それだけではない。この作家はすでに他のものへと移ろって潜航・創作している気配だ。
発達を止めない。進化をやめない。そして、その「足跡」を残す夥しい作品群。しかもそれらはどれも、「抽象アート愛好者」を自称する私から見ても、一つも「バカらしさ」を感じさせないものだった。
ともあれ、こんなにも多くの作品群を、まるで電気内装突貫工事のように、短期に確実に「仕事」してしまうパワーは驚きとしか言いようがない。
海老沢は「抽象も具象もない」と正しいことを言うが、本人がそれを了解しているか否かは不明である。
これについては今度深く話す必要がある。
私にとって、失礼ながらいささか単純に抽象アートの良し悪しを規定する観点を示すとすれば、「そこになんらかの「中心性」を感じさせるものがあるか否か」と言うことになるが、このことはシュルレアリズムの作品群を見るときに、「そこに無意識世界の構成美が顕現しているか」と言う観点を持つことと同様である。
ではその「中心点」はどのようにやってくるのか。「抽象」であるから、「ここが中心点ですよ」と示すことはできない。それではある意味「具象」になってしまう。
「中心点」は、あたかも点滅するが如く、視覚認識できない。
私は多年にわたり、この抽象画における「中心点」の意味を考えてきた。
バランス感覚、いやそれだけではない。それとは何か別のもの。
抽象画の一つの到達点を、ポロックのアクション・ペインティングだとすれば、あれを作品として成立させているのは一種の「呪術」であろう。
ポロック作品の「中心点」は、「呪術」によって可能となった。
ここでは、海老沢に影響を与えたと思われる納富慎介やうつみあきら、秋元秀成らの作風に触れる余地はないが、彼らは「ある意識」―それはあえて言えば「遊び」としか言い得ないものーを作品に与えることを試み続けた者たちだったと思う。
海老沢の抽象作品には、「中心点」がない。しかし、そうではないものが現象する。
それは何か?
あたかもその背後に「光源」があるかの印象。
そこにあるのは、「自然」の「抽象」。
実は彼の行っているのは「呪術」そのものではないのか。
そしてその「呪術」は何を願ってのものなのか。
矢田由親の『FOUR WINDOWS』には、
自然は目に見えるこころ、こころは目に見えぬ自然
とあるが、この作家の試みる認識実験は、まさにそのことの追体験のそのものと思われた。