出版について思うことについて | JOKER.松永暢史のブログ

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昔、画家の納富慎介氏に、「画家は、絵を描いている時間よりも、それを眺めている時間の方が圧倒的に長いものだ」と言われてハッとしたことがある。よく考えてみればそれは明らかに「事実」であるが、それまで鑑賞者の立場からそれを考えたことはなかった。

文筆だってそうである。書いている時間よりも腹案や構想を練っている時間の方がはるかに長い。また、加筆修正をするためには繰り返しその文章を読む必要がある。それも「書く」行為というより「見る」行為である。

ここに書くようなエッセイ的記述であれば、別に腹案を練る必要性はないが、出版を前提にした執筆となると、構想を練る時間が俄然長くなる。しかもそれがいくつか重なれば、その各々の内容を個別に把握し、さらに全体を統括した観点の抽象化が必要になる。そして、そのようにしていると、新たにその「先」が見えてくることになる。

結果的に、年がら年中机に向かって書いていることになるが、そんなことはとても続けられないから、すぐに気分転換が必要になる。瞑想、プール、ガーデニング、掃除などの家事、買い物、ついでに風呂屋。できたら遠景を眺めて焚き火がしたいが、それはすぐにはできない相談である。

デスクでの仕事をするためにデスクから離れることをする。単に集中力がないためなのかもしれないが、その集中ではないアタマの時間がなければ、集中することはできない。またちょっとした観点や新たな発想を得ることはできない。

『カタカムナ音読法』は、エッセイ風に書き下ろしたものであるが、幸い好評を得て重版されている。しかし、生徒たちの協力を得て、練りに練ったつもりの『日本の教育、ここがヘンタイ!』は全く売れなかった。これは、恥ずかしながら、いささかショックだった。世間の人はまだ教育の現状がかなりヤバいということに関心がないのである。子どもたちの叫び声が耳に入らないのである。これは一種の「洗脳」である。

私が伝えたいこと、それは現行教育が全く時代に合わないものになっているから、これを早急に根底から立て直す必要があるということであるが、人々は当然のように、自分の子どもだけが助かることにしか目が行かないのである。そして考えてみればそれは当然のことだった。

まだマシな私立教育に逃げるために受験勉強する。フリースクールを選択する。最新の通信制教育を選ぶ。インターナショナルスクールに通わせる。さらにお金があれば、アメリカ、カナダ、シンガポール、マレーシア、スイス、イギリスと海外に脱出する。

私立中受験が盛んになって、さらには中高一貫公立校も整備されて、一般公立中にはそれに漏れた者ばかりが集まる。これは皆、「マズい」と気づいた上の方が公立教育を見切った結果である。

昨年東京都の教員採用倍率は1、1倍になった。これは、志願した者で明らかにオカシクはない者は、その能力に関係なしに皆採用したという意味である。今でさえ、旧態然とした教育システムのせいで精神疾患になったり退職したりする教師が多い中で、また能力や見識が足りないと思われる教師が多い中で、さらに能力未然の人たちが教職に就いていくことになる。これは訓練の足りない兵をにわかに戦地に送り出すことに似ている。政府や文科省は「働き方改革」を掲げるが、そんなことではもう間に合わない。システムそのものを変えなければ、この先教育は崩壊どころか瓦解してしまうことは明らかなことだと思う。そして決定的な少子化社会がやってくることになる。

でも、この「事実」を、一般の人たちは、あたかもタッカーカールソンのプーチンインタビューがあったことを知らないが如く、マスコミにも封殺されて気がつけない。「ヘンタイ」どころか本当に「ヤバい」ことを。そして、教育改革に目を向けない政治家たちは、国民の大半をバカであると完全に見下して、選挙に勝つために裏金づくりをする。

子どもの時の「機会均等」―これがない国家は、それを仕方がないということにする国家は、それを支持する国民によって、文化的に低下していくことであろう。そしてその背後で、能力のより高い者が低い者を気づかれずに搾取の対象とすることがさらに深行することだろう。

自分の子どものことだけではなく、子どもたち全体を包む教育のことを考える人たちがもっと増えなければ教育の状況は良くならない。悪くなり続けるだけである。しかし、そのことを語ることはまだ「早急」なことだった。あるいは私にはそれを語る「資格」がなかった。

3月に入り、いくつもの出版予定が決まってしまったが、それらは当然残念ながら以上のことを伝えようとするものではない。しかし、そこには諦めきれない自分がいる。

以上に関し、末尾ながら、このブログの読者諸兄に感謝したいことが一つある。それはいくつか励ましをいただいて最後まで書いた『私の魚遍歴』にも出版の声がかかったことである。マンガの原作にでもするつもりであったが、その前に活字化するべきだということである。とにかくこの項、このブログの読者の「趣向」は正しかったことになる。改めて礼申し上げる。

「瓢箪から駒」、あるいは「棚から牡丹餅」、タナゴから熱帯魚。わからないものである。手慰みにブログに書いたものが本になる。文章作品を作るためにバイト生活してきたが、今年はひょっとするとそれが逆転するのかもしれない。しかしかつ、自分の書きたいことはそれとは別のことであるというのは不思議なことである。