私の魚遍歴ー16 | JOKER.松永暢史のブログ

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これまでスナダが家にやってきたことはなかった。スナダの家にはなんとか入り込んで、イチキ同様、机の上が綺麗に整頓されて、教科書参考書ノート類がきちんと本立てに並べられていることを確認していた。すぐにこれは真似をすることになったが。

門のところに出ると、スナダは言った。

「お前、中野学力増進会って言う塾のパンフレット見たか?」

当時はダイレクトメールなんて珍しかったので、一応開けては読んでいた。そこには終わったばかりの入試の塾生の華々しい合格例が並んでいた。

都立の合格群、私立の合格高名、出身中学名が並んでおり、上から12番までは全て32群合格と早慶高合格が並んでいた。

私は、内申点の絡む都立上級校受験はとても無理だと思い、それより下の早慶高を目指そうとしていた。

そこには、成績向上合格術のようなものが詳しく書いてあったが、そこは斜め読みにしていた。

ところが、その夜帰宅した父親がそれを読んで、この歴史上の人物以外の実在人物のことを滅多に褒めることがない男が、珍しくこう言った。

「これは非常に上手い文章だ。よっぽどアタマの良い人物が書いている」

黙ってその言葉を聞き流したが、この会社内での出世のやけに早い、大嫌いな父親の特徴の一つは、岸田と同タイプの、極めて常識的な判断を口にするところだった。

スナダが来たのはその翌る日のことだった。

「ああ、あれか。見たことは見たよ」

「オレ、これからその塾に行ってみようと思うんだ。もしよければカッパも来ない?」

塾に入る気なんて毛頭ないが、暇だし、父親の言葉も妙に印象に残っていたので「オモロい」と思って行って付き合ってみることにした。

場所は家から自転車で20分ほどの中野駅南口の線路沿い東中野方面への坂道を上った先にあったビルだった。今で言うゼロホールの斜向いに当たる、国鉄車庫脇の細長い建物の3階だった。

私はここで、「運命」の出遭いをすることになった。

それは今日の私の基を創る人物との遭遇であった。

この人物との偶然の邂逅がなければ今日の私はない。

それはスナダのおかげである。

そしてその人物があの文章を書いたからだった。

それにしてもスナダはなぜ私を誘ったのか。

今でもそのことを知ることはできない。

 

 

 

誰もいない、いかにも塾らしい教室の片隅の埃だらけのキッチン前にいた男は30代半ば。一目で当時言う「ヒッピー」のような姿で、髪は長髪でボサボサ、顔は髭で覆われ、洗いざらしのポロシャツにジーンズを履いていた。まさか「教師」とは思わなかった。何かの留守番役の変な男だと思った。しかしこれこそが後々私が「師」と崇めることになる人物だった。

おおよそこれまでの教師像の正反対の真逆。それどころか、こんな姿ではまともなところは歩けないと思われるものだった。

それまで吸っていたタバコを灰皿にもみ消すと、男は、眠そうだが妙に光る眼で、

「キミたちは何しに来た?」と尋ねた。

これには私がオグラに学んだ「役」を務める。スナダはこういう時は何も言わないで様子を見る性質である。

私は紙片を取り出して、前に伸ばし、

「このパンフレットにあることが本当のことなのか確かめに来た」と言った。

この言葉にスナダは驚いたが、相手は冷静だが、なぜだかこれまで見たこともない笑顔でニヤッとして言った。

「そうか。これに書いたことは全て事実だ。本当だ」

「つまりこれを書いたのもアンタか?」

「そうだ。僕が書いた」

「ではこの塾で上位20番ぐらいに入れば、早大学院に合格できると考えて正しいということか?」

「いや、必ずしもそうとは言い切れない。32群に受かっても早慶に落ちる生徒もいる。タイプによるということだ。もちろん充分な実力のついたものは軽く合格した。今年は10番以内は皆合格した。でも全員が西・富士に進学した。他に学大附属や私立武蔵に合格した者もいる。それにしても子どもだけできたのはキミたちが初めてだ。親の勧めか?」

なるほど、親と来るのが普通と見える。

「いや、別に親は関係ない。オレは、このオレの友だちが一緒に来てくれと言うからついてきただけ」

するとヒッピー男が、スナダに向かって、

「キミはどこに住んでいるのか、通っている中学校はどこか?」と尋ねると、スナダは、

「若宮です。中野4中です」とはっきり答えた。

「それは環7の向こうだな。ずいぶん遠いな」

「でもパンフレットは届きました」

「そうだ今年は4中の名簿も入手していた。生徒が一人だけいたもんで」

気がつくと私は、この「先生」ではない『先生』に、言葉にならない「共通性」を見出していた。かつてなく強く魅かれるものがあることを感じていた。

後年この男、富澤進平は、私との初対面の印象を、「遊びの天才が来たと思った」と語ったが、これはその頃の私への正真正銘の正しい評価だった。

遊びは得意、勉強はダメ。

その14歳の私を変えたのが、その後「師」が「亡くなる」まで50年以上の付き合いになることになる、この富澤だった。

現在私がしていることは、この富澤が私に植え付けたことの成果だといっても過言ではない。

その、私のその後の人生を決定づける人物との出遭いがこの時だった。