昨日のカタカムナウタヒ祭りは満員盛況で、「上手」も多く、ココロとアタマに良い音が響き渡って爽快だった。
「講演」の連続が終わって、通常モードに戻ってデスクワークする。
人がものを書くのは、言いたいことを他人に伝えたいからなのか。
それとも、他人に批判されずに受け入れられる常識的なことを書くためなのか。
いや単に喋りたいから喋るのと同じなのか。
読者を意識して書くのは簡単かもしれないが、逆に読者を意識しないで自分の書きたいことを書くのはかえって難しい。
人に伝えたいのは、それが「オモロい」乃至は「正しい」あるいは「意味がある」と思うからであろうが、そういう価値判断を捨てて書くとなると、即座に「ケオス」の中に投げ込まれてしまう。それまでの「話体」が消失する。
しかし、ある面、それが正しいのではないかとも思えてくる。
読者対象を捨象すると、するべきことは、書くことによる自己のそれなりの高まりの感覚の認識になり、それはただ書くより困難なことになるかもしれないが、書こうとすることの意味は失われないことになる。そして、そこに偶然「価値」が生まれてくる可能性もある。
「自由」に書くとは、読む人がどう感じようが感知しないで書くということなのか。すると「想定外」の意外なことが書けてしまう。それが目的か、それとも、最終的に暗黙の目的地点に到達するように構築していくということなのか。
しかし、それでは「出版」は立ち行かない。
出版は、お客=読者を想定しなければ始まらない。
その興味の中心を推測・決定しなければならない。
それは意味のあるオモロさではなく、癒しと安心と元気を与えるもの。
そしてわかりやすいこと。
この地点に立って語り口を決定する。
題材とその提案の方向性が決定される。
こうした「ダイアローグ」を積み重ねることにより、個人的「アウフヘーベン」(止揚)というか、その背後に見えてくるものが現れることを経験的に知る。
それは「呪術」に似ている。