最近ブラームスをよく聴いている。と言っても交響曲ではない。今聴いているのは弦楽5重奏曲である。
子どもの時家にあったバッハやベートーベンのレコードで、音楽を聴くということの愉しみを知った私は、中学生になると小遣いをためて、ブラームスの交響曲のレコードを買ってきてはそれを繰り返し聴いたものである。
なぜブラームスだったのか。
やがて高校生になると、マーラーの音楽に魅せられるようになり、FM放送を録音するために大リールのテープデッキを親に頼み込んで買わせた。
私は一つの音楽を聴き始めると飽きるほどそれを繰り返し聴くという性癖がある。
しかしそれは、主として音楽のメロディを楽しんでいるだけで、そこに秘められたもっと深いものは味わっていなかったことが今感じられる。恥ずかしいが浅い楽しみ方だった。
徒(いたずら)に馬齢を重ねるという言葉があるが、実はそうでもない。還暦を超えて、数多くの体験と判断を集積データ処理して生きてきた脳は、そのシナプスを迅速ではないかもしれないが深く繋げることができるようになるようだ。その結果、さまざまなものの味わいが深まりをもって感じられてくる。触覚や嗅覚はわからないが、味覚、視覚、聴覚は確実に「深化」する。(あぁブラームスが本当にイイ!)
味覚―秋の果物は本当に美味しく感じられる。子どもの時はわからなかったが、外食店のコメは本当に美味しくない。化学調味料もゴメンである。
視覚―芸術作品はかつてない色合いや構成の深みを増して感じられ、木の緑からは生命エネルギーを与えられているような気持ちになる。雲海絶景は最高に美しい。
そして、聴覚。これは最近ジャズやレゲエの音楽を耳にした時、妙にかつて関心がなかったベースの音に耳を傾けてしまう自分がいる。ベースのやっていることは思いの外オモロイことなのであることが今更ながらわかる。
このことが、弦楽5重奏に繋がる。それは、今更ながらビオラの音色を楽しめるようになったからである。ついに踊りや楽器の演奏というものを身につけないでやってきた自分には、バイオリンとチェロの音色は聞き分けられても、それらとビオラの音を識別することができなかった。しまいにはなぜこの楽器があるのかと疑問を抱いたりした。
しかし、今はそれができるようになりつつある。そして、なぜその楽器が必要なのかよくわかるようになった。
この楽器がもしなかったら、どんなにかつまらないことだったろうか。
交響曲や協奏曲が好きだったのは、とどのつまり、弦の全体合奏の音が好きだったからであると思う。それは私には「メロディー」として伝わっていたが、その弦楽合奏の根底にあったのがこのビオラの優しい落ち着いた音であったことが今わかる。
モーツアルトやベートーベンがウィーンで活躍し、ブラームスやマーラーもこの近郊で作曲した。そこはアルプスの景色が見えるところ。彼らは自然から天啓を受けて作曲しているのである。
ブラームスはこれらの作曲家の中で、自らに自然が与えたものを、その内部で一度抽象化し、その上でその断片を全体再構成しようとした作曲家だと思う。ピンと来たりガーンとしたりするのではない。じっくり感じるのである。マーラーはポリフォニーかもしれないが、そこにあるのはアルプスの景色と雲の動きで、その感覚はベートーベンの「田園」と通底するものであると思う。
齢重ねると感覚が深くなる。美術館に老人が多いのはあながち笑えることではない。
そして、本当に子どもが愛らしく思える。