「ダイアローグ」について | JOKER.松永暢史のブログ

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私の言う「ダイアローグ」は、自分自身に向かって問いを発し、その答えを自分自身で得ることである。

これは生徒たちに国語の読解問題を解く際に教えてきたことだが、これができるようになると、国語だけではなくどの教科でも成績が向上する。

しかし、小学高学年ではない幼児に、「ダイアローグしなさい!」と言っても無意味である。

幼児においてダイアローグは自然に湧いてくるものでなければならない。

 

私たちの脳が左右二つあり、その連携によって成り立っていることを考えれば、両者の同時集中のために強く「ダイアローグ」を行うと、自ずとそこにその答えが還ることが多いのは当然のことかもしれない。

これは、我々の内部に二人の人間がいることを暗示する。

我々はその二つの人間に対話させながら、判断して行動している。

子どもの時のことを思い出せば、誰もが自分の中の誰かと対話していたことを思い出すことだろう。

この内的対話―「ダイアローグ」は、成長するにつれて、いつしかその存在を忘却される。

やっているのにそうであることを知らない。

意識的にそれを使いこなすことがなくなる。

自分に対して問いをすることを忘れる。

ないしは滅多にそれを用いらなくなる。

 

ダイアローグはアタマに良い。

それは当然のことであるが、ではどうやってそれを子どもに学ばせるかと考えるとこれは極めて困難なことになる。

幼児は、多かれ少なかれダイアローグをしている子どもが多い。

あれは何かと尋ねる前に、あれは何かと自分で判断しようとする。

一人で積み木なんかをしている時に、何か一人で話しながらやっていることも多い。

このダイアローグの元を周囲の親や大人が壊す。

たとえばそこでその会話に参入して、何か声がけしてしまう。

知能を伸ばすために見守ることが肝要なのに、答えを与えることができる自分に満足しようとしてしまう。

 

さて、脳が二つあるとすると、その左脳は右半身の働きを司り、右脳は左半身を請け負う。

知的な活動をしている時に左右両手を使うことがアタマに良いことは誰でも感じることだと思う。

むろん音楽やスポーツはこの代表である。

やけにアタマを使う遊びの代表はパズルであるが、たとえばいくつかの形のものを枠にきちんと嵌め込むプラパズルのような遊びである場合、これを片手で行う子どもと両手で行う子どもがある。私はその表情から、両手で行う子どもの方が賢そうな顔になることを知る。場合によっては、両手の他に唇まで使う子どもがいる。これは口でパズルを咥えてするのではなく、口先の筋肉も用いて考えているということである。

9歳の兄についてきた6歳前の弟。すぐに教室内のおもちゃを探索し始める。

兄とサイコロを始めると、「パズルがしたい」と言ってくる。パズルは箱の中にあったので見つからなかったのだ。

プラパズルを渡すと、こちらの机に来てこれを始めるが、一番やさしいものではないのを渡してしまったので悪戦苦闘している。

しかしこの子はパズルを両手で行う。しかも小さい声でダイアローグしながら行う。

「これをね・・・こうすると・・・こうなっちゃうでしょ・・・やっぱりこれはダメで・・・だからーー・・・・」

どうしてこの子が言われなくともこの最もアタマに良いと思われることをしているのか。

パズルをダイアローグしながら両手で行う。

これは偶然始まることなのである。

親はその偶然がやってくるのを待ち構えていて、それができるだけ続くように見守るのがその仕事なのであり、「教育」なのである。

子どもが良い教具を得て夢中になって遊ぶ時、余計な声がけでその知的伸長を止めてはいけない。

放っておくこと。黙って見守ること。

やや手のかかる兄がいる。弟は自律的でやや大人しい、自分で遊びを見つけて遊ぶタイプ。

すると、親の手が入らないところで何かをして遊ぶ時につぶやきを漏らすようになる。親は子どもの方から話しかけてこない限りこれを黙って見守る。なぜかといえばそれが「ダイアローグ」を定着させる唯一のチャンスだから。