リベラルアーツ『旧約聖書創世記』とガザの戦争 | JOKER.松永暢史のブログ

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昨夕のリベラルアーツ初級は、『旧約聖書創世記』を読み進めたが、現在進行中のパレスチナハマスとイスラエルの戦争について触れないのはあまりに不自然だった。

国際社会は、ガザ地区の「封鎖」を容認し続けてきた。またイスラエルは衛星その他を用いた極めて厳しい監視体制も敷いてきたと思われる。

でもイスラエルの迎撃システムが落とし切れないほどの大量のミサイルを一度に発射できた。

そして、「国境」を超えて武器を持った兵士が侵入した。そこで行われた「拉致」は、北朝鮮のそれとは比べものにならないほど残虐無謀なものだった。

イスラエルは、即座に挙国一致内閣を形成し、ガザの完全制圧に乗り出している。

この後どうなるのか。ガザ北部はイスラエル領になって、さらにその南に新たな壁が設置されるのか。すると、追い出された住民たちはどこへいくのか。地中海から向かう先はどこか?

イスラエルだって、やっと他のアラブ諸国と友好関係を築きつつあるのに、改めてそれを全て「敵」に回すことはしたくないはずだ。でも、今回の「報復」を自衛のためにせざるを得ない。

これに対して、アッラーはどう出るのか?はたまたヤハーウェはどう出るのか?

それが双方における重要な注目点になるのか。

リベラルアーツ会読では、『創世記』のイサク以下の系図の話になるところから読み進めたが、そこに描かれるのは、相続権をめぐっての兄弟親族同士の奸計の連続であり、男系であればそれでよく、「妻」ということにすれば誰にでも孕ませることができるという世界である。

遊牧民であるから、相続すべき財産の中心は、羊、山羊、牛、驢馬などの家畜であり、もしくは持ち運び可能な金銀財宝であろう。

「相手がこう出ると予想されるからこちらは前もってこうする」―そしてそれを後押しするのがヤハーウェの力と導きであるという。

こうして物語は、イサクからヤコブへ、ヤコブからヨセフへと続き、ヨセフがエジプトに奴隷として売られるが、そこで彼が大いに出世を遂げるまでを読んだ。もう少しで『出エジプト記』の話に繋がりそうである。

「ヤハーウェ」は必ずしもユダヤ人に有利に働くわけではない。結果的見て良かった時にヤハーウェの力が加わったとするのであり、ヤハーウェは目に見てはならないはずなのに「顕現」し、「司令」を発する。

矛盾とテキトーと嘘だらけ。

日本人が『古事記』の世界を受け入れるのと同様に、ユダヤ人たちはヤハーウェの伝説を信じるのか。

私の「それにしてもキリスト教ではなぜ『旧約聖書』も用いるのか?」という問いに対し、生徒の一人が、

「それはキリストもユダヤ人で、キリスト自身はキリスト教をやっていたつもりはないから」と答えた。

天にまします我らの父は、最後はキリストを救わなかったその神は、「ヤハーウェ」だったのか。

あらゆる宗教典を読み進めると、そこに描かれる「神」や「天国(あの世)」が種々様々な想像であることがわかるので、一種の「無神論者」の立場を取らざるを得ないようになる。

でもこれは怖いことだ。自己の未だ至らぬアタマでこの世界のことを捉え、しかもそこであるべき自分の姿を探究致知することは、本来生きている人間の結局全てがすることかもしれないが、若い間にそれを捉え、それによってより発展的な活動を想起・選択することは、他のほとんどの者がしないことである。

苦しい時の神の頼みを放棄する。

自分で考えて自分で体験し自分で切り開いて成長していく決意を持つ。

「神」なんて関係ない。

これはやはり、選ばれた者にしかできない、「選民的」なことなのかもしれない。

リベラルアーツ初級は、次回28日に『創世記』を読み切らんとするが、そのあとは仏典『ダンマパダ』か『スッタニパータ』にし、上級で『エミール』を会読しようと思う。