喬木村大島−2 | JOKER.松永暢史のブログ

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中央高速道座光寺PAは、中央アルプス木曽山脈東側裾野に位置する。ここをスマートICで降りて、どんどん坂を下り続けて、長大な阿島橋で天竜川を西から東へ渡る。

天竜東岸の阿島は、かつて陣屋があったこの地域の中心地で、喬木村村役場もここにある。

さてそこから先の県道456号阿島大島線は、伊那山地西側斜面を加々須川に沿ってどんどん登って走る道で、舗装はされているが、だんだん狭く悪くなり、途中でやや大規模な橋の工事も見られた。

大島はこの道のどん詰まりで、加々須川が作った山間の小さな扇状地に位置する。加々須川は、ここから先は完全な渓流で、上には幾つもの堰堤があり、伊那山地の西側斜面を登っていく。

「大島」とは、この山間にできた割にはやや広い台地の呼び名と思われ、今その扇央部には田んぼが広がる。

扇央部に田んぼ?砂礫の多い扇央部では水が地下に染みやすく、そこで水田工作が可能になるようにするには大変な苦難があったことが想像される。それでも米を作る必要があった。そして水は充分にあった。

大島集落は最盛期には70数戸あったという。これは家族数の多い昔の農家ならば、祖父祖母父母男女兄妹と考えれば、一戸あたり8〜10人が同居していたと考えられるから、人口にすると約500人以上になる。山間でいくら開墾しても、この口全部を満たす米を収穫するのは困難なことだったろう。それでも「お蚕さま」があるうちはよかった。

こうして、これ以上人口が増えることができない山間の集落で、産業が途絶えれば、そこではそこを脱出することを志そうとする者たちが増え、逆に残った者はどうしたらここで生き残れるかに知恵を絞ることになる。

半世紀ぶりに訪れた大島の景色は昔と変わらなかった。新しく建てられた建物は一つもなく、逆に取り壊された家の跡があった。

かつて食事を給された公民館の坂下の分岐路で車を止めようとすると、後ろからやってきた軽トラが隣に並び、老人が窓越しに話しかけてきた。

―ここの人?

「いや違います。49年前に学生村でここに滞在した者です」

―ああ学生村ね。もうやっとらんからのォー

「今日は近くを通ったものですから、ついでに寄ってみました」

―ほぉーそれでどうするのかのー

「川の方へ行って見てそれで帰ります」

―ほぉ、そうかー

と言って、軽トラは走り去ったが、これは軽いチェックだったか。

「地域」に来たという感触を持った。