あれは高校2年の夏だった。
ふと目にした学校掲示板に「信州学生村」の広報が貼ってあった。
で、なんでか、例の変人的直勘で「行ってみよう」という気になった。すぐに親しい友人数人に当たってみるが、「学生村〜?」とピンとくるやつはいない。では一人で行くことにしようとすると、普段クラスでそんなには親しくしていないO君が「オレも行く」と言う。
一泊2000円3食付き。これは当時でも安かった。とにかく東京は暑くて勉強にならない。図書館は性質上合わないし、当時はまだエアコンがなかったので家では暑くてやってられない。しかも貧しい都立高校生。親族に軽井沢の別荘で使えるところなぞ持っている者もいない。大体から食事はどうするのだ。
信州学生村とは、農家が大学生や大学受験生を対象に民宿をする経済活動である。これはどん詰まり地域農家の困窮を打開せんとする村おこし運動がその起点で、多くの都会からの学生を受け入れ、その時点で50ヶ所近い受け入れ地域があった。
しかしここで考えてしまう。
なぜ山奥の農家が民宿を始めるのか?
その理由はその場所があるからである。
川があるから田んぼも作るが、その面積は限られる。高地の谷間で気温が低いから果実も良いものができない。
何か農耕や営林以外の仕事での生産物がなければ交易できない。
そこで盛んに行われてきたのが養蚕である。
現在長野県といえばりんごの印象であるが、そもそもこの地域最大の農産業は養蚕だった。一時は米の生産収入を上回るほどだったというからいかに盛んであったかわかるだろう。岡谷などの生産工場にはたくさんの工女が出稼ぎに来ていた。
それが大正期から戦後にかけて、不況や新しい化学繊維の開発や中国産の生糸の輸出増加などにより廃れたので、りんごの栽培が始まったというのが本当のところだそうだ。
養蚕農家は、山中で桑を栽培し、それを自宅2階の養蚕場の蚕に食わせ、繭を作らせる。これが長野全県で大々的に行われ、製糸のための電力のために水力発電所を作り、輸送のために山間に鉄道を作った。これが1930年の大恐慌で大打撃を受けることになる。多くの農家は、クワの代わりに寒さに強いリンゴを植えることになった。
時代が変わって、絹糸を使う和服を着る人がますます少なくなった。戦後食糧買い出しの折、農家が農産物の引き換えに絹織物を受け取ったというのはある意味興味深い話だが、おまけに中国産の安価な絹糸が輸入されれば、残り続けた末端の農家はもはややめざるを得ない絶望状態に見舞われることになる。
こうして最後まで残った養蚕農家もなくなっていった。しかし、他に産業がない地域としては、なんとか知恵を絞って活路を見出さなければならない。
そこで考え出されたのが「学生村」である。養蚕をやめた農家2階は、広い板の間である。ここを改築して都会からの学生を向かい入れようという考えである。つまり、もしも養蚕がなかったら、「信州学生村」はなかったことになる。