『饗宴』ー母親のためのリベラルアーツ | JOKER.松永暢史のブログ

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8日、「母親のためのリベラルアーツ」の第4回を行った。

テキストは、プラトン作『饗宴』で、末尾のアルキビアデスが闖入して来てソクラテスを褒め称える部分を読み切って終了した。

経験を重ねないとなかなかわからないことだが、しかも誰も口に出して言うことを憚る類のことであるが、ある時反抗期などで子どもの言語力が急速に伸びてきた場合、もしくは子どもの思考力が急速に深まった場合、母親がこれに対話対応できないと、その後母親が軽視されて言うことを聞かせられなくなる、乃至はもっと伸びる可能性がある子どもの言語能力伸長の妨げになってしまうということが起こる。これは自分の産み育てる子どもの学力向上を願って鋭意努力してきた親にとっては、まるで飼い犬に手を噛まれるようなとんでもない話である。また自分のせいで子どもが伸びなくなるというのも困った話である。特に『饗宴』のテーマは「愛」なので、このことへの考察を始めた子どもたちからの問いかけやそれに応える対話の際に、実はこれについてしっかり考えたことがなかったために、母親がいいように子どもたちにやられる姿を想像することは耐え難い。これには母親も「変身」する必要がある。既にリベラルアーツで学ぶ生徒たちは、学校友人や先生を簡単に論破しており、やや傲慢ですらある。このままでは少年に悪しき思想を与える者として誤解を与え、ソクラテス同様に「告発」されて「死刑」になる可能性がある。で、ソクラテスのやらなかったこと、つまり「シンポジウム」に女性を参加させるという「裏技」を、森喜朗氏の反対の小池百合子的に「冗談」で思いついたというわけである。

すでに、生徒たちとのリベラルアーツでは、彼らが結局『饗宴』を読んで、「愛」についての哲学の自己見解を現段階ではまだまとめられていないことがわかっている。

それはある意味で自然なことである、まだ彼らには女性と深い関係になる経験も子どもを作る経験もない、文字通り「少年」である。ところが、母親にはその経験がある。だから、ちょいと「武装」しておけば何とかなりそうな気がする。それに『饗宴』の主要な部分はソクラテスがご婦人であるディオティマから学んできたことの公開である。つまり、ソクラテスですら、自分で「愛」のことを突き詰めて考え切ることができず、経験豊かな女性の教えを乞うていることになる。

プラトン『饗宴』が、なぜ古典的名著中の名著なのか。それを簡単に言葉で言い表すことはできない。

しかし、その重要要素の一つに、『饗宴』が「愛」について教えるものではなく、「愛」について考えさせる書物になっていることがあると思う。

『饗宴』は、BC385年ごろに書かれた。これはプラトンがアカデメイアを開いた直後である。だからこのテキストは、実はその生徒たちに向けての哲学入門書として書かれている可能性が高い。

「愛」とは何か?知性高きことを自認する者たちがこのことへの考察に欠け、それに対する自分の思想を持たないことは許されざることである。

人と議論する際に、いや人と生活する際に、最終的に、いや前提的に不可欠なことは、「愛」の存在の確認である。

それは各人共通の「知識」として持つべきものではなく、各人が自分なりに考えた考察結果を持つことである。

「愛」について考察した経験、これがないと結局あらゆる議論が陳腐化する。そのことを避けるために多くの生徒たちが読めるように『饗宴』は書かれたのではなかろうか。

『饗宴』を読んでも「愛」の何たるかを知ることはできない。しかし、「愛」の何たるかについて深く考察することはできる。

つまり、この本は「哲学」ではなく、「文学」であったことになる。

さて、文学と哲学の境界線はどこにあることになるのか。

これで「母親のためのリベラルアーツ」は、第4回緊急事態宣言に関係なく一応休会し、「次は『論語』がよみたいです」と言う前向きな声もあるので、できたら秋涼しくなった頃にでもまた再開しようということになった。

 

―ああ実に、夫が愛おしくて夫が愛おしいのではない。そうではなくて自身が愛おしいから夫が愛おしいのである

 ああ実に、子どもが愛おしくて子どもが愛おしいのではない。そうではなくて、自身が愛おしいから子どもが愛おしいのである

                                                                                 (ウパニシャッドーヤージュナヴァルキア、BC8世紀)