教育崩壊 | JOKER.松永暢史のブログ

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埼玉県の公立中学の現役「プロ教師」、河上亮一さんの『学校崩壊』がベストセラーになったのは1999年のことだった。これは教育現場の実情を真面目な教師の観点で述べて教育の危機を訴えたものだったが、そこには新しい家庭で育った言うことを聞かない子どもたちが教師たちの手に負えなくなりつつあることが書かれていた。

当時はいじめの問題が多発し、メディアなどでは、結局その主たる原因は教師の管理不足ということに押し付けられた。

「管理強化」—これが世間が教師に求めたことだった。ところが一方で、授業が成立しない「学級崩壊」はとどまることなく、結果、小学校では邪魔な生徒を排除する対策がとられ、中学校ではやけに平常点の比重が重い成績のつけ方になった。そして、この方向性は加速した。少しでもおかしいと「LD気味」と判断し、「専門家」にテスト、判断させ、差別して「特別支援」とか名を付けた施設に送り込む。これはいささか気持ち悪くないか。もし自分がそうされたらどんな気持ちになるのか。中学校ではもはやいくらテストで高得点しても、「平常点」が悪ければ良い成績はもらえない。おまけになぜか死ぬほどクラブ活動に熱を入れている。野球、サッカー、バスケット、おまけにブラスバンド、まるでクラブ活動のために学校に行っているかのようだ。そしてまともな授業が行われている教室は極めて少ない。生徒の多くは塾に通わざるを得ない。またストレス発散のためにゲームに打ち込んでアタマがパーになる。不登校も増え、もはやクラスに3〜4人は学校に来ない者がいるのは当たり前の状態になりつつある。その主たる理由は、学校で学ぶことの意味が見出せないである。

こうした学校教育の実態を知った小学生の親はどうするか?

それは、当然の如く中学受験に走る。可愛い子どもの大切な時期を刑務所のようなところで過ごさせたくない。

お金のある人は小学校も避けようとする。その対策のために塾に通って子どもは遊びと体験の時間を奪われる。中には、何でもいいからとにかく公立以外のところという人もいる。中高一貫公立中も増えた。だが倍率は高い。またそこでの教育が優れているとは限らない。「下」がいないだけである。

つまり、地域の公立中には、親に資金がある多くの学力の高い子ども(やや我慢して勉強することができる者)が抜けた後の、発達が早くないか、経済的にも余裕がない家庭の子どもたちが集まるのであり、これは以前より「管理」がさらに困難になっていることが想像される。

生徒たちを大人しくさせることができない。

これは「教育」を始めることができないことになるから大変困る。

だから、平常点で縛る。これは確かに効果があるかもしれないが、教師と生徒の溝は決定的に深まる。

生徒に「関心・意欲・態度」があることを観察することは教師のするべき仕事である。しかしそれに点を付けるとなると、教師ではいられなくなってしまう。なぜかと言うと、本来教師の仕事とは「関心・意欲」を持たせることであり、それに伴って「態度」を向上させるので、生徒にそれがないと判断することは、他ならぬ教師が仕事ができていないということになってしまうからである。それに点数をつけて評価しようとするのは、「教師」の仕事を逸脱している。矛盾している。でもそれをする。無自覚だからこそそれをする。細かいことをチェックして服従させようとする。中には病的としか思えない言動も少なからずしてしまう人もいる。生徒たちは「気が狂っている」と思うしかない。そしてそれをモロに顔に出せば平常点は大幅に減点される。

ともあれ、このことは、教師と生徒の信頼関係を破壊した。もはや生徒は教師を「教師」とは見ない。刑吏同様の「役人」と見る。

しかも、その「役人」である教師たちは教える仕事ではなくて「管理」する仕事に疲れている。あるいは病んでいる。

中学生の女の子たちは「大人」だから、たとえ家で母親には反抗しても、成績をつける先生には態度を良くする。少なくとも嫌われないようにする。もちろん先生方はこうした快活真面目な女子が大好きだ。女性教師とは話題も通じる。彼女たちは提出物をしっかり出し、積極的に活動して質問もして来る。対して反抗期男子は、少しでも大人がオカしなことを言うと、当然のようにそれを顔に出してしまう。それは教師たちの最も見たくない顔である。かくして男子はテストでそこそこの点を取っても皆オール3扱いにされる。おばさん先生に逆らうことはかくも恐ろしきことなのである。まだうら若い男の子たちは、彼女たちが母親同様、「チェックのプロ」であることに気づいていない。

しかし、3年2学期に内申点が決定すると、毎年のことだが女の子たちは豹変する。もはや誰も職員室に質問に来ないし、授業も聴かずに内職に勤しむ。先生というものに距離を置く。失礼ではないが事務的になる。卒業後もおそらく連絡はない。この「変化」を教師はどう受け止めるのだろう。ショックを受けることは確かだろうが、そこに起る思いは、来年こそダマされないぞという一種の生徒たちへの憎しみの元になるものなのではないのか。そうしないと自己肯定できない。

こうとは限らないが、こうした心理が自分の仕事にどのように影響するかなどと内省する余裕は、追いつめられた(実は気がつかない)教師たちには全くないであろうし、またしたところで現状が変わるわけでもない。またそうしたことを考える能力もないのかもしれない。いや考えたらやっていけないのかもしれない。それよりいかに自分の負担を少なくするかを考える方が先かもしれない。

良い校長の下に良い先生が良いご家庭のお子さんたちに指導して上手く行っている学校もあると信じたいが、そんなことを望むより「システム」を変えようとする方が現実的であることは言うまでもない。それには、一つの生徒集団単位を10人程度にし、それに1人の教師がつくようにすることが必要である。また学習内容やカリキュラムも大幅に作り直して時代の変化に合ったものにして行く必要がある。

多くの子どもを集めてそこを楽しい場にできないとは、どう考えてもその仕組みを作っている大人がバカとしか言いようがない。

この国を支える未来の労働者、納税者、そして親となる子どもたちに良好な教育環境を与えることより、「経済」の名の下に、必要以上の土木建設などを優先して、教育改革の資金を出そうとしないのはいったいどういうことなのか。「ナショナリスト」たちに聞いてみたいところである。良い教育を施して、国家のための「徳器」を養うことが、教育の淵源ではないのか。「教育勅語」が皇国史観以外に説いているのはそう言うことではないのか。建設のために海外から労働者を呼んで賃金を払うより、国の未来の教育建設に資金を投入して、能力がある人がマトモに働けるようにすることは、国内での仕事を増やすことにもなり、そのシステム変換のための費用も起るので、意外に「内需」としての経済的な効果も大きいのではないか。