事務所で配布する予定で以下文書を認めた。
『奥多摩古民家合宿がやめられない理由』
なぜ我々は、この他に類例を見ない囲炉裏古民家教育をやめられないのか。
それは、一言で言えば、それが子どもたちにとってあまりにも良いことだからということになってしまうが、ではなぜそうなのか。
以下に説明を試みたい。
まず第1に自然環境。
古民家の建つ所は眺めの良い多摩川の河岸段丘の上で、前後は畑で、さらに傍らと後ろは山林で涼しい。前は多摩川を挟んで山で、そこには我々が「ラグーン=珊瑚礁」と名付けた自然の広葉樹林の谷間がある。たまに下から谷間を走る車の音がしてくるが、辺り一帯聴こえるのは自然の音だけ。木々を渡る風、鳥、蝉の声、ぶーんと言う虫の羽音—ハイパーソニックサウンド、夜は虫の音、雨が山林を打つ音も素敵だ。そして、そこには子どもたちが驚異的に愛する「川」がある。子どもたちはほぼ毎日川へ行く。雨が降った明くる日も川へ行って、増水した川の勢いに驚き石を投げる。川遊びは子どもを本当に癒す。学習でアタマが一杯になっても、ちょっと外に出て歩いてみればそこには気持ちを和ませる自然がある。そしてそれは都会の子どもにとってかけがえのない体験になる。しかも毎日焚火をする。そこからも自然のエネルギーを得ることができる。そして家の中では囲炉裏か薪ストーブだから雨の日でも大丈夫。太鼓大会で自己表現。子どもたちは周囲環境の自然と「友達」で、都市でのようにそれを拒みたい環境音がない。つまり、環境は癒すだけでストレスを与えない。しかもこちらが音を出すのは自由自在。
第2に縦割り集団構成。
高校生は大学受験者が学習する姿を見てまだまだ足りないと思い、高校受験を控えた中学3年生は、高校生の学習している内容や、その時の「波動」と言うか、ムードのようなものを感じ取り、それに習って勉強するようになり、中学2年生は、高校受験生の学習を見て、自分がまだガキであることを思い知り、小学生も高校生や中学生たちの落ち着きを見て、自分たちも精一杯努力しようとする。そしてこの上に、アシスタントの若者やインストラクターがいる。つまり、小学生、中学生、高校生、大学生、結婚前の者、子育て中の者、子育て終了の者と、幅広い年齢層が同じ屋根の下で活動することになる。そしてそれらは相互に現在の自分の有り様を多重に了解させることになる。ふだんの生活では体験できない、自分とは異なる他者の存在と、その他者の目に映る自分の姿が認識される。このことは本格的な学習の前提の「自覚」を生み出させる。
第3に早寝早起き朝方学習習慣。
起床は午前4時30分。掃除・瞑想・朝食を済ませると、各人の座場所で机に向い、途中休憩を挟んで12時まで連続学習。
昼食後は自由時間でたいてい川遊び。15時に間食後午後学習開始で18時まで。18時から焚火をしながら夕食。その後、各人がシャワーを浴びる間に太鼓大会。そして瞑想後20時30分に就寝。午前中に7時間ぐらい学習するので、毎日10時間近く机に向って学習することになる。
第4に自発的学習。
何を学習するかと言えばまず本人次第。夏休みの宿題を片付ける者もあれば、塾のテキストを進める者もあれば、自分で決めた問題集を進める者もあれば、読書感想文や自由研究の文章をまとめる者もある。自分で何をすべきかわからなければ、インストラクターと相談して決めた学習を行うこともできる。そこには「授業」がない。生徒が自分で課題を見つけてそれをこなす。問題を解決できなければ、インストラクターに質問してアドバイスを受ける。古民家は極めて開放的でほぼ全方向へ向けて外に開かれている空間であると同時に、部屋ごとのしきりがないので、各人が選んだ座場所で何をしているかすぐに他者にわかる。
以上のように教育環境設定をした上で、そこで行われるべきことが学習を通じての自己の問題克服と能力伸長あるいは開発であることを伝える。
ただ勉強するのではない。アタマが良くなるように勉強するのである。宿題など平易で分量の多い物は、いかにそれを速く問題なく終わらせられるかに力点が置かれる。自分の弱いところはその理由を考えて繰り返しその対策をして解決する。さらに、毎日連続的に作業をすることで、やがて非常に良い状態=「高まり」というようなものがやって来る。なおもやり続けるとその高まりがものになって各人各様に各人らしく賢くなれることを体得させる。
こうした結果、学習の極意とも言えるものが浮かび上がって来る。
誰かから習うのではない。自ら学ぶことである。
自分から学ぼうとするところにその極意がある。
教師はその学び方をインストラクトするのがその役割なのである。
中学生までは塾などに通って成績を維持することもできよう。しかし、高校生ともなると自分から勉強しなければやっていけない。自分から勉強する能力と習慣が必要だ。大学受験に役立つのもこの力である。そして大学とは、自分から学ぶ力や習慣がある者が学問するところである。
こうした教育環境と教育実践を施すとどうなるのか。
それは喩えて言うと、生徒の中に成長の「柱」のようなものが備わることである。
それは、集団での規則正しい生活と、自然の「癒し」と、自分と向き合う自発的学習の連続の中で培われる。
充実した夏の日々、そこには、深い「思い出」もある。
今日も目を上げれば、そこに言わんとも言いようがない色彩の「珊瑚礁」が見える。
以上、我々は、子どもたちにあまりに良いものをもたらすと確信したのでこの合宿をやめられないのである。