外国人労働者の増加の方向性について思うこと | JOKER.松永暢史のブログ

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政府は外国人労働者の受け入れをさらに拡大して行く意向だ。

これは経済界がそう願うからであり国民がそう願うからではない。

すでに120万人以上の外国人労働者が存在し、毎年20万人ずつ増えているのをさら加速するというわけだ。しかもこれまでと違って、高レベルの就業者ではなくて一般労働者も対象にして行くということである。だが、これはすでに実際起ってしまっていることである。宅配便の裏で仕分けをしているのは中国人を主体とした外国人。コンビニの弁当を作っているのもベトナム人を主体とした外国人。建設現場で働いているのもモンゴル人を主体とした外国人。クリーニング業の背後で、ハリと糸やミシンを使っているのも外国人。気がつけばコンビニの店員も居酒屋の店員も外国人。キャベツ、白菜、レタス、イチゴも収獲しているのは外国人。もはや昔なつかし中華料理店や焼き肉レストランの店員どころではない。

我々は、外国から輸入したもので外国人が建てる家に住み、外国人が収獲して販売するものを口に入れ、外国人が作った家具に囲まれて生活する。

日本で働きたいという外国人がやって来るのは悪いことではない。だいいち日本人も昔どこからか日本にやって来て住み着いているのだから、同様のことを外国人がしても文句は言えない。だいたいから「日本」という概念そのものが確固たるものであるとはいえないという説もある。

企業が海外に工場進出したのは、そこの方が労働賃金が安いからである。労働賃金が安くないと利潤を追求する競争に勝てないというわけである。そして今度は逆にどんどん外国人労働者が入ってくる。我々のために働いてくれる、元気で善良な人たちが多いことだろう。でもそれは企業にとっては労働賃金を抑えるため。

何が書きたいのか、今日はこれからリベラルアーツ合宿に出発する予定だ。

ここで、何で労働賃金を絞らないと利潤を上げることができないような経済行為が成立するのか?という疑問も起る。

いや違う。言いたいことは、ここでそれを知るべき立場の人は決してそのことを知ることがないのであるが、ここでは、社会の「上層」が「下層」を見切ると言う、教育と同じ構造が見られるということである。そして「下層」は見切られたことに気づかずサッカー観戦する。

「上層」とは、有り体に言えば、子どもを私立の学校に通わせることができるほどの経済力を有する人たちということになろうか。

「下層」とは、子どもに充分な教育を与える余裕がない層ということができようか。

「上層」には有為な資格を持つものが多く、「下層」には形式上の「資格」しか持たないものが多い。

これは実は国語力=日本語力の差であると言える。日本語力がなければあらゆる資格試験に通過できない。「資格」とは、その許認可を持たないものにその仕事をさせないという仕組みである。

さて、外国人の中でも勤勉なものの中には、日本語を習得し、日本語で日本の大学を卒業するものも出るだろう。彼らは資格試験に通る。

ここで大きな逆転が行われる。いや、生存競争とは斯く様のものなのである。日本人なのに日本語の能力伸長を怠ったもの、もしくはそれに気づかずに成長してしまったものは、それを意識的に修得しようと努めた後進者に必ず凌駕される。

つまり、政府施策の方向性には、「そうなっても知らないよ。自業自得だよ」という意味が隠されているのである。いや隠されてすらいない。「このことも分からずにバカな生き方をしているやつなんて、生き残れないに決まってるじゃないか」。彼らは本心ではそう思っていることだろう。でないと資本主義をやる意味がなくなってしまう。

新聞を読んでいない層が自民党を支持していると言ったことを述べた麻生さんは本当に正直な人である。

放っておけばどんどん低下する国語力。その正に真逆がリベラルアーツ教育。

今日はソクラテスと般若心経。気合いを入れて二つの叡智の抽象化を試みたい。