いやはやもう、自分が「大学教授」などの肩書きを一切持たない「インチキ知識人」であることを深く恥じ入ると同時に、「今さら仕方がない」と開き直る気もしないではない今日この頃なのではあるが、実は一方で相変わらず新たに続々と出版物の準備中なのである。
その一つに、『源氏物語』がある。
これは、『源氏物語』を訳や解釈なしで直接音読了解して楽しもうという本で、本付きCDではなくてサイト上に私の音声をアップすることになっている。
全編を貫けば本が厚くなり過ぎるということから、第一段は、帚木三帖を主体に、そこに描かれた「エロス」の客観化を試みながらものする予定。
『源氏』は、その愛読者の川端康成氏の『雪国』同様、かなり「エロス」に重点を置いた作品である。
「エロス」に重点を置いてそれを記述するには、ある現状認識と、そこに付加するべき「観点」が必要である。
最近、国語古典指導する生徒たちに、「女と男とどちらが独占欲が強いか?」と問いかけると、それはもう時代の様相をあらわにしているのか、断然「女」ということになる。
これはそう単純に言語で規定できる事柄ではなく、「嫉妬心」という言葉への定義も必要になってしまう。
「浮気されたら、どちらが辛いか?」
これは、「女」ということに決まるらしい。
でも本当にそうか。
意が通じ合っていると思っている女性に浮気されたら、男だって平静ではいられるまい。
どうしてなのであろうか。
この答えは、「人が他者を愛するのは、実は自分を愛するがため」ということに収斂されよう。
余分に愛するものが、嫉妬するのである。
そして、余分に愛するものはいとおしい。
いささか逆説的ではあるが、言葉で表せぬところに「文学」がある。
どんなに賢しらだったって、言葉が究極真理を伝え得ないということを認識できぬものは、単なる「ガキ」に過ぎないのである。
ガキの悲しくも良いところは、いつしかそれを受け入れざるを得なくなるところである。
それまでそのガキがするべきことは、大きくその「太鼓」を打ち続けることだけである。
そうだ。よろしく太鼓を連打し続けよ!