世の中には様々な「仕事」をして生きている人間がいる。
やりたいやりたくないは関係がない。
ただ、生きて行くためにそれをする。
自分が、「インチキ知識人」の一人おろか、どうにもならない「人生ヒマつぶし人」であることはとうに知悉している。
自分には割と「傲慢」さがないから実は「謙虚」なのである。
商業的仕事はそのリアルな現れに過ぎないことは明らかである。
どんな「タマ」を投げようが、なかばそれは「投げ手」の勝手ではないのか。
反論するものは、自説を自らあげつらうのみ。
それで「充分」であるはずである。
というよりも、言語による一切は「虚妄」である。
言葉とは、一切真実を伝え難いからこそ「言葉」なのである。
言葉で一切が伝えられるなどと浅薄確信している御兄こそ、言葉の「陥穽」におちいっている。
言葉とはいいかげんなものである。
だからこそ、「冗談」の言語的意識化が必要なのである。
このことに気づくものは、このことにダマされ得ない。
「賢さ」とは、「多様性」への認識であり、一つの観念への埋没確信的錯覚ではない。
「世は無常なるこそ、あらまほしかるべけれ。」
さ頭立つよりもより柔軟で発展的な思考を試みるのが正着であろう。
意識的な「冗談」を支えるもの、それは間違いなく「本気」ではないのか。
こういうことが「前提」として了解できなければ、『源氏物語』などなかなか読み歓ぶことはできまくまい。
It’s enough tonight,let me see,you’re as you !