<前回より続く>
第三 佛門腐敗の攻撃(1)
佛敎は古來國内に廣く行はれ國民信仰の中心となり、これを日本の國敎と稱するも差支ないものである、されば宗敎の信仰心によって人心を緩和し世安を維持するには、在來の佛敎を支持奬勵しこれを利用するのが經世上の得策であるとは先生の意見にして、彼の神佛分離の結果により宮寺を共に衰微せしめ從って人民の信仰心に影響を及ぼしたのを、明治政府の大失策とせられたのもこれがためであるが、佛敎の維持とは其殿堂伽藍を壯大にして其門戸を張らしめんとするのではない、寺門の腐敗、僧侶の堕落を矯正して人民の信仰を囘復するのが第一であるとして此事を力説せられた。
先生の佛敎論即ち僧侶論は、其著書新聞演説に毎度論ぜられて大に世間の注意を惹いたものであるが、明治十五年三月十一日三田演説館に於て「僧侶論」の演題にて演説せられたとき、左の如き出來事があったことを、其時の「時事新報」に記してある。
三田演説の異事
東京三田慶應義塾邸内の演説館は、明治七年に建築したるものにて、常に學術討論の用に供し、又毎月第二第四の土曜日には學術演説會を開くの例にして、一昨十一日は其例日に當り、午後一時より開場、社中濱野定四郎、門野幾之進、雨山達也等の諸君演説終りて、福澤先生が席に上り、僧侶論と云ふ題にて初より段を遂ひ事實を證して滔々(とうとう)論述したりしに、頗る聽衆の感を引起したる歟、滿場寂として聲なきが如し。演説凡そ一時間計りにして將(ま)さに終らんとするときに、忽ち館の一隅に人の群集するあり。こは何事ぞと尋れば、年の頃五十有餘とも思ぼしく容貌賤しからざる一個の老人が卒倒して地に伏して人事不省なり。見る人々大に驚き、水よ藥よと騒ぎ介抱して、幸に十分ばかりにして蘇生し、何事もなく同伴の人に助けられて立歸りたり。此老人は何か持病にても起りしこと歟、左まで病體にも見えざりしが、其人事不省中ににも頻りに坊主が坊主がと幽に口の中に唱へ居たるを以て推察すれば、或は佛法大信心か大不信心の徒にして、兼て思ふ所あるものが、偶(たまた)ま此演説を聞て感に堪へず、喜憂の頂上に達して遂に卒倒したるやも計られず、一時混雜の餘り監館の者も狼狽して其姓名だに聞くことを忘れたりと云ふ。
<つづく>
(2024.8.29)