<前回より続く>
<第四十八編 逸話【附記】先生の遺文(2)>
〇先生の遺文(2)
抑も人間社會の流行は服飾衣裳に止まらず、學問の主義に流行あり。政治の體裁に流行あり。我國學問の主義は、嘉永葵丑亞國船の渡來より特に徳川政府の末年を限界として、其以前に流行して公議與論の是認する所は漢學なりしに、此年限より後は舊流行の趣を一變して洋學流行の新世界を開き、其初に在ては新舊の軋轢(あつれき)少なからずして困難の事情もありしかども、流行變換の勢力は之を留む可らず、公議與論の是認する所は洋學と定りて、其主義漸く世間の事物を動かし遂に政治社會にまで波及して、古來未曾有の民權論なるものを生ずるに至れり。即ち今の民權、自由、立憲、國會等の議論にして、二十年前に比すれば學問も政治も其流行を一變したるものと云ふ可し。然るに此學問なり又政治なり固より天然に非ずして人爲の流行なれば、是亦其初に當ては必ず首唱の人物なきを得ず。即ち原素を西洋諸國に敢て之を我國に始造したる者にして、我國の洋學者たるや明なり。故に此學問政治の流行を起して全國の公議與論を一變したるは、巴理の裁縫師東京の俳優藝妓が服飾の時様を自在にする者に異ならず。學者の勢力も亦偉なりと云ふ可し。
然りと雖ども公議與論は前に云ふ如く天然の一定に非ず、唯是れ人爲の流行にして時々に變換するものなれば、學者の職分として常に人事の前途に眼を注ぎ、時に随て此流行を矯正し又或は新に流行を始造するの工風なかる可らず。蓋し學者は社會の雁奴※にして、人の怠る所に警しめ人の見ざる所を見る者たればなり。然るに爰に驚く可きは、今の日本國中に於て學者論客を以て自から稱する輩が、唯流行に從ふに汲々するのみにして、之を矯正し之を始造するの一段に至ては漠然として忘るゝが如きの一奇談なり。
方今我國に於て公議與論の是認する所、學問は洋學にして政治は民權論なりと云ふ。實に近來は洋學流行して民權論も亦盛なれば、洋學民權の世の中ならん。
※■雁奴:(がんど)夜、砂州で休んでいる雁の群れの周囲で人や獸の接近を見張っている雁。転じて、見張り役。奴雁
<つづく>
(2026.5.3)