解体旧書

解体旧書

 石河幹明著『福澤諭吉傳』全4巻(岩波書店/昭和7年)。著者自序「文明輸入の卒先者、新日本建設の指導者として、其一身を擧げて終生奮勵努力したる先生の事蹟は、我文明發達史の資料としてもこれを詳にするの必要がある」

石川幹明『福澤諭吉傳』第四巻≪目次≫
   
 第三十九編 學問研究の助成
 第四十編 宗敎に對する態度
 第四十一編 先生の家計と品行
 第四十二編 日本男女論
 第四十三編 先生の健康と攝生
 第四十四編 先生の大患と病後
 第四十五編 先生の逝去と葬儀
 第四十六編 家庭に於ける先生
 第四十七編 先生の演説文章其他
〇第四十八編 逸話
 <本書の編輯について>
 

<前回より続く>

 

<第四十八編 逸話(191)大工を叱る>

 

    大工を叱る

 或時先生が庭先きへ妙な物置のやうなものを拵へたことがありましたが、まるでマッチ箱を竪に立てたといふやうな格好で、入口のところに廂(ひさし)もなく、雨でも降れば脱いだ下駄が濕(ぬ)れてしまふといふやうなものでありました。そこで其頃中津から出て來てゐた大工が、到底これではいかんといふので、先生が命ぜられた外に、板で廂のやうな物を作ってゐるところへ、先生が出掛けて來て大に怒って大工を叱り付けました。「何でこんな餘計なことをする」といはれたので、大工は「下駄を脱いでも濕れてしまふと思ひまして、かやうなものを作りました」といったところが、「下駄が濕れやうがどうしようが、おれのいった通りになぜしないか」と大に叱られました。そこで大工はマゴマゴしてゐたが、私のところに來て「先生はかうかう仰っしやいますが、折角作ったものを取壊すんでせうか」といひますから、「それには及ばぬ。先生もそれはわかってゐるんだから」とかういって、其儘にしておいたところが、とうとう其後一言もなくて其儘で使はれたことがあります(伊東茂右衞門談)

 

 ※(再)■伊東茂右衞門(いとう もえもん)嘉永3(1850)-大正12(1923)頃 豊前国中津に生まれる。明治10(1877)年頃東京に出て福沢家で執事のごとく働きながら、慶応義塾に学ぶ。伊東は後年、福沢家内でだれかが不始末をしたらまず福沢に叱られる役目だった、と語っている。

 明15年3月の創刊より明17年春まで時事新報社に在籍、広告主任として手腕を発揮し、中上川彦次郎と共に経営基盤をつくり上げた。

 その後、全国の蚕業を調査して「中外蚕事要録」(1886)、「蚕業経済録」(1888)を著し、三重県養蚕試験場に招かれた。帰京後は一時鉄道事業に関与した。

 また、浜野定四郎と共訳したシモンズ著「海産論」(1881)や「経済事情」(1896)がある。後半生は東京郊外で農家を営みながら、竹山、竹園と号する趣味人として悠々自適の生活を送った

 

 <つづく>

 (2026.4.26)