第3956回 『福沢諭吉伝 第三巻』その604<第十 李鴻章遭難と三國干渉(8)> | 解体旧書

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石河幹明著『福澤諭吉傳』全4巻(岩波書店/昭和7年)。<(先生の)逝去後既に二十餘年を經過して、(中略)先生に關する文献資料も歳月を經るに從ひおひおひ散佚して、此儘に推移するときは先生の事積も或は遂に煙滅して世に傳はらざるの憾を見るに至るであらう>自序より

<前回より続く>

 

第十 李鴻章遭難と三國干渉(8)

 

 (福沢の「時事新報」社説)つづき

 就ては其話の種として一例を示さんに、目下東京の芝居に忠臣藏を興行して、市川團十郎が大星由良之助を勤め、珍らしくもなき狂言なれども、彼の城渡しの一段に無數の若侍が血氣にはやり、城を枕に討死するも明渡すことは出來ずと騒立つ處を、由良之助が百万説諭し、諸士の忠義心は尤も至極、左こそある可きなれども、亡君の御遺言、目指す敵は足利殿に非ず、城受取りの上使に敵するとは何事ぞ、左りとは御遺言を無にして目的を誤るものなり、爰の處は唯堪忍して時節を待たれよと、汗を流して大聲を發し、或は怒り或は慰め、果ては斯くまでに申しても聞入れずとあれば、拙者は亡君への申譯け此處にて割腹す可しと、死を決したる最後の一言にて、漸く其場を取纏めたる由良之助の苦心は如何ばかりなる可きや。

 若しも諸士の決心に任せ上使に抵抗して城渡しを拒むこともあらんには百事瓦解、幾多の忠臣義士は犬死に終りて大目的を誤りたることならんに、流石は一藩中の長老大星由良之助が一切萬事を方寸の中に疊込み、不言の間に諸士の心を一にし、無限の不平を懐きながら沈黙堪忍して時節を待つことに同意せしめたる其伎倆は、平生なれば尋常一様の芝居にして役者の巧拙を評するまでのことなれども、之を今日の外交政略に照し見るときは芝居とは思はれず、天下無數の人民は今の外交の忠臣藏に於て、由良之助の心を心として沈着するか、或は諸士の血氣に倣ふて向ふ所の目的を誤り、上使などを憎しとして輕擧暴動、益もなきことに騒立て世界中に侮を招かんとするか、其國の爲めに利害如何は誠に明白なる可し。

 左れば我輩は直に時事新報の讀者に向て勸告警誡を試るには非ざれども、讀者が常に社會の表面に立て身の重きを成す其義務として、廣く世間に時事の要を説き、諄々人を諭して其血氣を緩和鎮靜すること彼の由良之助の如くならんことを冀ひ、下流の人にも分り易き忠臣藏の一段を記して談柄※1に供するのみ。幸に立言の卑近を笑ふ勿れ(明治二十八年六月一日「時事※2新報」社説)

 

 ※1■談柄:(だんぺい)話の種。話題

 ※2■時事:原文は「新事」

 

 <つづく>

 (2024.6.18記)