第3917回 『福沢諭吉伝 第三巻』その565<第六 日清開戰と先生の活躍(2)> | 解体旧書

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石河幹明著『福澤諭吉傳』全4巻(岩波書店/昭和7年)。<(先生の)逝去後既に二十餘年を經過して、(中略)先生に關する文献資料も歳月を經るに從ひおひおひ散佚して、此儘に推移するときは先生の事積も或は遂に煙滅して世に傳はらざるの憾を見るに至るであらう>自序より

<前回より続く>

 

第六 日清開戰と先生の活躍(2)

 

 先生は晩年料理屋などの會合に臨まれなかったが、此夕は自から進んで出席せられ、衆社員と共に祝盃を擧げて大氣焔を吐き、其元氣壯者を凌ぐの概があった。思ふに、先生が宿昔の願望たる國權皇張實現の手段として唱へられた東洋政略論は、支那を目標として先づ朝鮮の問題から着手せんとの趣向であって、政府の向背、世論の贊否如何を問はず、飽くまでも此目的を達せんとて、終始一貫、多年間身心の力を此一事に注がれつゝあった其熱心努力の效空しからず、一朝機會到来して朝鮮問題のためにいよいよ支那と開戰するに至ったのであるから、蓋し先生の心中では此戰爭を恰も自分で開かれたやうな心地せられ、其平生の志の酬いられたるを愉快とすると共に、又その責任の輕からざることを感ぜられたのであらう。

 此際に於ける先生の意氣活躍は目覺ましきばかりで、啻に言論文章を以て人心を鼓舞し世論を指導せられたばかりでなく、更に進んで軍國に處する實際の運動を開始せられたのである。其運動とは即ち軍費醵出の計畫にして、先生の趣意は今度の軍費は何千萬圓に上らうとも、國民の愛國心に訴へて大に義金を募集し其全部を一時に償却しようといふに在って、豊島沖の捷報の達した當日、いち早くも左の如き社説を發表せられた。

   大に軍費を醵出せん

 日清開戰我軍大勝の報道は新聞の所報の如し。我日本國人が外國と兵を交へたるは豊公の朝鮮征伐以來既に三百年、今囘も亦朝鮮の事より端なくも支那人と葛藤を生じて、遂に戰爭の止むを得ざる場合に迫られ、開戰第一先づ大勝利を得たるは畢竟我軍人の勇武と熟練とに由ることにして、同胞四千餘萬の兄弟姉妹は三百年來の先人も曾て知らざる所の此快報に接し、軍人の勞を謝すると共に國運の萬歳を祝して唯感泣するのみ。就ては假令ひ其身自から從軍せざるも國民たるの分を盡す可きは正に此時にして、如何やうにも其工風なかる可らず。或は軍人慰勞の爲めに恤兵部に財物を寄贈する人も少なからず。至極の美擧にして、之を贊成するのみか、其沙汰を傳聞しても其人の誠意に感ずる程の次第なれども、我輩は茲に一歩を進めて、大に資金を募集して、今囘の外戰に付き其軍費の全部を一時に償はんと欲するものなり。

 

 <つづく>

 (2024.5.10記)