第3915回 『福沢諭吉伝 第三巻』その563<第五 我國の朝鮮出兵(5)> | 解体旧書

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石河幹明著『福澤諭吉傳』全4巻(岩波書店/昭和7年)。大正12年6月、慶應義塾評議員会は本書の編纂を決議し、石河に託した。9月に旧図書館内に編纂事務所を開設。それから7年有余を経て、昭和6年3月完成した。

<前回より続く>

 

第五 我國の朝鮮出兵(5)

 

 (「時事新報」掲載記事)つづき2

 若しも此まゝに差置きたらんには、世間知らずの老大國人が、盲人蛇に畏(お)ぢずの譬(たとえ)に漏れず、益す増長して種々雜多の妨害を逞ふし、是れが爲め日本は啻に改革の目的を達せざるのみならず、事の成行次第にて如何なる不利益の地位に陥ることあるやも知る可らず。今日に至りて押問答は無益なり、一刻も猶豫せず斷然支那を敵として我より戰を開くに如かざるなり。

 是れまで我國が平和の方針を執りたるは、支那が我れに對して未だ直接の損害を加へざりし爲めなれども、今日は然らず李鴻章、袁世凱の輩が有らゆる手段を盡して韓廷を敎唆したる其證跡明白なれば、我國は此際何の躊躇する所かある可き、直に開戰を布告して以て懲罰の旨を明にすると同時に、彼れ支那人をして自から新にするの機を得せしむるは、世界文明の局面に於て大利益なる可し。

 又茲に看過す可らざるは朝鮮政府の所行なり。彼れが一度我要求を承諾して後、何の謂れもなく之を拒絶したるは、如何にも我儘至極の擧動にして、我國に對し甚だしき無禮を加へたるものなれば、支那に向て開戰すると同時に、其同穴狐狸の違約罪をも糺さゞる可らず。朝鮮の小弱これを討つは聊か氣の毒に似たれども、多年來彼等の腦裏に染込みたる支那崇拝の迷夢を覺破するには、弾丸硝藥に勝るものある可らず。聞く、我兵の一部分は既に水原に向て進行したりと云ふ。軍機は固より知る可き限りに非ざれども、我輩は其進軍の尚進んで牙山兵を破ると同時に、朝鮮政府に向ても大に爲すことあらんを希望する者なり(明治二十七年七月二十四日所載)

 かゝる間に形勢急轉、大鳥公使は朝鮮國王より日本兵の力を以て支那兵を撃攘するの委任を受け、我兵は支那兵の駐屯せる牙山に進軍中、豊島沖の海戰が演ぜられ、引續き陸上に於て牙山の敵兵を掃蕩し、いよいよ八月一日を以て對支宣戰を見るに至った次第である。抑も支那の朝鮮派兵は、もし日本を眼中に置いてゐたならば容易に決行すべきものではなかったらう。然るに公然屬邦を保護するためと稱して派兵を斷行したのは、畢竟日本政府多年來の退嬰政策が彼を増長せしめたばかりでなく、今や日本の政府と議會との衝突は其極度に達し殆ど内亂に瀕するの有様であるから日本は何も爲し得ないと見誤り、此機會に勢力を朝鮮に樹立して日本を排除し、眞實の附庸邦となさんとしたのであらう。

 而して其結果、日清戰爭を惹起し彼の如き始末となったのは、支那のためには氣の毒であったけれども、此點から見ると日本政府が支那の威力を憚り多年退嬰の態度を執った一事は、彼をしてかゝる大失策に陥らしむるの原因を成した次第で、過ちの功名ともいふべきものであるが、朝鮮問題に就き日支の衝突は結局免るべからざる運命である以上、我政府が早く東洋政略に着手したならば、必ずしも二十七八年を待たずして其結果を収めたであらう。

 

 ※■:撃攘:(げきじょう)敵をうち払うこと。撃退

 

 <つづく>

 (2024.5.8記)