第3883回 『福沢諭吉伝 第三巻』その531<第三十七編 【附記】(6)> | 解体旧書

解体旧書

石河幹明著『福澤諭吉傳』全4巻(岩波書店/昭和7年)。<(先生の)逝去後既に二十餘年を經過して、(中略)先生に關する文献資料も歳月を經るに從ひおひおひ散佚して、此儘に推移するときは先生の事積も或は遂に煙滅して世に傳はらざるの憾を見るに至るであらう>自序より

<前回より続く>

 

第三十七編 【附記】(6)

 

 本塾の學風は一に西洋近時の文明學を旨として、和漢古學の主義は素より取る所なしと雖ども、今日の文學を勤めんとして漢學を知らずしては用を便ずるに足らず、依て課業にも讀漢書の一科を設けて頻りに之を奬勵す。

 本塾の入社就學に年齢を限らざるが故に、往々二十歳以上の學生にして始めて洋書を學ばんとする者あり。此種の生徒は尋常五年の學期を踏むこと能はず、只管(ひたすら)速成を求むることなれば、之がため本科の外に一科を設け、本則に拘はらずして敎授す。之を別科生と名く。蓋し我國の洋學は日尚淺くして、少小の時より敎育の順序を經ざる者甚だ少なからず、去沖今日の時勢に於て苟も洋書を知らずしては忽ち人事に差支を生ず。丁年以上始めて就學するも事情止むを得ざるに出たるものなれば、今後數年の間は別科の科も亦要用なることならん。

 明治七年夏の頃、本塾の敎員相會し、學術進歩の事を議して、謂らく、西洋諸國には「スピーチュ」の法あり(即ち今日の演説なり)、學塾敎場の敎のみにては未だ以て足れりとす可らず、「スピーチュ」「デベート」(討論)の如き學術中最も大切なる部分なれば、此法を我國に行はれしめては如何との相談にて、衆皆之に同意し、何事にても普通ならしめんとするには吾より之を始るに若かず、然らば此原語を何と譯して妥當ならん、談論、講談、辯説、問答等、様々に文字を案して、遂に「スピーチュ」を演説、「デベート」を討論と譯して、其方法の大概を一小冊子に綴り、社中竊に之を演習したるは明治七年五月より凡そ半年の間なり。

 此間に方法も稍や整頓したるを以て、翌明治八年春、本塾邸内に始て演説館なるものを新築して、演説討論演習の用に供したり。但し其趣意は演説を以て直に聴衆を益するに目的に非ず、唯此所に公衆を集め、又は内の生徒を會して、公然所思を演ずるの法に慣れ、以て他日の用に供せんとするものにして、演説討論を稽古する場所なり。開館以來既に十四年、月次公衆を集めて學術上の事を演説す、即ち今の三田演説會是にして、此公衆演説の外に、又或は塾中の生徒が課業の傍に討論加會を催ふす等の事も多し。

 

 ※■丁年:(ていねん)一人前に成長した年齢。一人前の男子

 

 <つづく>

 (2024.4.6記)