第3884回 『福沢諭吉伝 第三巻』その532<第三十七編 【附記】(7)> | 解体旧書

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石河幹明著『福澤諭吉傳』全4巻(岩波書店/昭和7年)。<(先生の)逝去後既に二十餘年を經過して、(中略)先生に關する文献資料も歳月を經るに從ひおひおひ散佚して、此儘に推移するときは先生の事積も或は遂に煙滅して世に傳はらざるの憾を見るに至るであらう>自序より

<前回より続く>

 

第三十七編 【附記】(7)

 

 本塾の主義は和漢の古學流に反し、假令ひ文を談ずるにも世事を語るにも、西洋の實學を根據とするものなれば、常に學問の虚に走らんことを恐る。依て社中の年長其科に達したる者に談じて、人身學、動物學、本草學、化學、電氣學等の講義(レクチュール※1)を設けたることあれども、近年學事も追々進歩して、日課を以てこれ等の學科を敎授するに至れり。

 身體の運動は特に本塾の注意する所にして、課業の時間は三時間より四時間を過るを許さず、又數年前より邸内に劍術、柔術、居合等の道場を設けて専ら體育を勵まし、又近日は之に體操を交へ、時としては邸内の運動場に於て學生競技會を催すことあり。蓋し塾中に病者の少なきは、塾の地位市中高燥の部分に在ると、運動法の然らしむるものならん。

 三十年來、學則は次第に變革し、今日にして前後比較すれば殆ど別種のものゝ如くなれども、退て考れば此間に大改革とては一囘も施行したることなし。唯時勢に從ひ學問の進歩に促されて、知らず識らずの際に徐々として自から改まりたることならん。今後も此法に依らんとて、社中年長の常に注意する所なり。

    會計之事

 本塾終始の困難は會計の事即ち是なり。本來一錢の資本なく、又他より補助する者もなくして塾を開き(明治六七年の間華族太田資美君より外國語學校講師雇入の資として數千圓を寄付せられたるは、今に至るまで社中の深く感謝する所なり)、初の程は奥平藩の建物を借用し、敎師も各自己生活の道ありて、生徒へ敎授の如きは唯斯道の爲にする熱心を以て自から勞するのみにして、曾て利益の邊に眼を着けたることなし。或は束脩※2月金など名けて生徒より些少の金を拂はしむるの慣行はあれども、固より以て塾舎營繕の費用にも足らず、唯時の事情に從ひ、社中朋友偶々錢ある者が錢を費すの有様にして、明治元年まで日一日を送りたることなりしが、此年の春より芝新錢座に新築を企て、騒亂の最中職工の賃錢等は極て低くして、普請は却て手輕に成功したれども、塾の會計より見れば大事業なり。

 

 ※1■レクチュール:(レクチャー)

 ※2■束脩:(そくしゅう)束ねた干し肉。古く中国で、師に入門するときなどの贈り物としたもの。転じて、入門するときに持参する謝礼

 

 <つづく>

 (2024.4.7記)