<前回より続く>
第三十七編 【附記】(5)
學規の事
本塾創立の初に當ては、學問の規則とて特に定めたるものなし。唯英文を讀んで其義を解することを勉め、所用の書籍も僅に一二冊の會話編又は文典書あるのみにして、他の書類は其名を聞くも其物を見るの方便なし。萬延元年に至て亞國開版の原書數部と「ウエブストル」の辭書一冊を得たり(日本國へ英辭書輸入の初ならん)。之を本塾藏書の初として、其他に當時舊幕政府の筋より私に數部の英書を借用し、又一年を隔て、文久二年英國開版の物理書、地理書、學術韻府等の書に併せて、經濟書一冊を得たり。
即ち「チャンブル」氏敎育讀本中經濟の一小冊子にして當時は日本國中稀有の珍書なりき。右の如く書籍に乏しくして、生徒の書を讀まんとする者は手から原書を謄冩して課業の用に供する程の有様なれば、固より塾中に敎則を立てんとするも、其方便ある可らず。
次で五年を經て慶應三年の冬、亞國の原書數百部を得たり。之を本塾一新の機とす。此時には地理、物理、數學の書は無論、從前稀に見たる經濟書、歷史の如きも、各其種類に從て數十冊づゝを備へ、生徒各科を分て書を講ずること甚だ易く、塾中復た原書を謄冩するが如き迂遠の談を聞かず。
翌年は則ち王政維新の春にして、其四月に至り、本塾に於ても始て新に規則を作て之を木版に刻したるは、學課の稍や整理したる證として見る可し。今日現行の慶應義塾社中の約束書を見れば、全く當初の規則に異なるが如くなれども、其原稿は則ち明治元年に成りて、爾來年々歳々に増補改正したるものと知る可し。學則は専ら有形の實學を基礎として、文學に終るを旨とす。數學の如きは初に在て生徒の最も好まざる所にして、之を奬勵するためには頗る困苦したりしが、十餘年來次第に之に慣れて、今日は塾中普通の課業と爲りて復た故障を見ず。
英書を讀み其意味の微細なる所までも之を解して不審を遺さゞるは、本塾の最も長ずる所なれども、外國交際の日に繁多にして外人に直接の關係を生ず可き今の時勢に在て、語學の心得なきは又不都合なるを知り、常に外國の英語敎師を雇ふて讀書の傍に語音を學ばしめたるに、近年倍々英語の必要を感じ、年々敎師の數を増し、現今に至りては常に外國人十餘名を聘雇することゝなれり。
<つづく>
(2024.4.5記)