第3836回 『福澤諭吉伝 第三巻』その484<第四 塾制學務の改革(14)> | 解体旧書

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石河幹明著『福澤諭吉傳』全4巻(岩波書店/昭和7年)。<(先生の)逝去後既に二十餘年を經過して、(中略)先生に關する文献資料も歳月を經るに從ひおひおひ散佚して、此儘に推移するときは先生の事積も或は遂に煙滅して世に傳はらざるの憾を見るに至るであらう>自序より

<前回より続く>

 

第四 塾制學務の改革(14)

 

 其送別會に於て述べられた先生の要旨は左の如くである。

 門野幾之進氏の歐米に巡遊せんとするには、言ふまでもなく敎育事項を視察せんが爲めなり。日本の文明は長足の進歩を爲したるに相違なしといへども、歐米の諸國は其間に一層進歩したるならん。書物、新聞の上に於ても大體の模様を知り難きにあらざれども、實地の視察は亦自から必要なる可し。即ち今囘門野氏が洋行することゝなりし所以なり。

 元來政治の事に關しては政府とか議會とかいふものあれば思ひ切ったることを行ふに難き場合もなきに非ざれども、我慶應義塾に付ては更らに遠慮會釋を要せず思ふことは颯々と行ふて可なり。今余と義塾の關係を云はんに、譬へば猶ほ著書の序文に於けるが如し。元來序文なるものは、何の役にも立つものに非ざるが故に、余は曾て己が著書に他の序を求めたることもなければ、又他人の爲めに序文を書きたることもなし。著書の中さへ立派なれば則ち可なり、序文の有ると無きとは問ふに足らざれども、世間には之を必要とするものなきに非ず。兎も角も余は義塾の序文たらんと欲するものにして、基本文は諸君の勝手に書くに任ず。起すも倒すも諸君の随意なり、余の眼中義塾なし云々(明治三十一年四月七日「時事新報」)

 門野は外遊一年餘、翌年七月歸朝して學制上に少なからず改革を施した。而して鎌田が塾長に新任した丁度その時、彼の米國の水師提督ペリーの從孫に當るトーマス・サージェント・ペリーが大學部文科の敎師として渡來したので、塾長新任とペリー敎師の紹介を兼ね、五月十六日、先生、小幡、鎌田の名を以て、麻布廣尾の先生の別邸に朝野著名の士人數百名を招待して園遊會を催した。左に「時事新報」の記事によって當日の景況を略載する。

 

 ※■從孫:(じゅうそん 従孫)兄弟または姉妹の孫

 

 <つづく>

 (2024.2.19記)