第3835回 『福澤諭吉伝 第三巻』その483<第四 塾制學務の改革(13)> | 解体旧書

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石河幹明著『福澤諭吉傳』全4巻(岩波書店/昭和7年)。<(先生の)逝去後既に二十餘年を經過して、(中略)先生に關する文献資料も歳月を經るに從ひおひおひ散佚して、此儘に推移するときは先生の事積も或は遂に煙滅して世に傳はらざるの憾を見るに至るであらう>自序より

<前回より続く>

 

第四 塾制學務の改革(13)

 

 塾は二十二年大學の制度に改め資金を募集して十三萬餘圓の寄附金を得たれども、年々改良擴張の必要に迫られてこれを費消し、今は三萬餘圓を餘すのみとなった。今度の學事改良に就ては、相當の基本金を備へ其利子を以て永久に維持するやうにしたいとの計畫を以て更に其募集に着手し、先生の逝去せられた三十四年までの寄附額は三十七萬圓に達したのである。

 かくて學事の改良が歩を進むると共に、塾務の統制のために規約の一部を改正するの必要を生ずるに至った其次第は、二十二年に組織を變更して規約を創定したときは、塾長小泉が病氣のため小幡が一時其職務を行ふてゐたところ、其後小泉は辭任し小幡が實際塾長の職務を執ってゐたのであるが、小幡は塾員中の最長老者にして、其經歷といひ其學徳といひ、後來先生に次いで社頭に立つべき人物であるから、塾長の事務を以てこれを煩すべきでない、且つ學事の改良と共に更に基本金の募集にも着手し、塾務ますます多端にして當事者たるものは廣く世間と交渉するの必要もあるから、壯年の者をしてこれに當らしむるのが適當であるといふことになり、三十一年四月の評議員會に於て規約の一部に改正を加へ、副社頭を置くことゝして小幡がこれに任じ、鎌田榮吉を塾長に選擧し、敎頭門野幾之進は從前の通りであるが、學事の改良には海外諸國の敎育施設を參照するの必要があるので、門野を視察のため歐米に派遣することゝなし、同月出發した。

 

 ※■明治三十四年:1901年

 

 <つづく>

 (2024.2.18記)