第3837回 『福沢諭吉伝 第三巻』その485<第四 塾制學務の改革(15)> | 解体旧書

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石河幹明著『福澤諭吉傳』全4巻(岩波書店/昭和7年)。<(先生の)逝去後既に二十餘年を經過して、(中略)先生に關する文献資料も歳月を經るに從ひおひおひ散佚して、此儘に推移するときは先生の事積も或は遂に煙滅して世に傳はらざるの憾を見るに至るであらう>自序より

<前回より続く>

 

第四 塾制學務の改革(15)

 

     慶應義塾の園遊會

 豫て報じ置きたる如く、慶應義塾にては一昨十六日午後二時より、芝區白金三光町福澤先生の別邸(狸蕎麥跡)に於て、鎌田榮吉氏塾長に新任の披露と、去ぬる嘉永癸丑(みずのとうし)の年浦賀灣頭に黑船を乘りつけて鎖國の懶夢(らんむ)を驚したる米國水師提督ペルリの從孫トーマス・サージェント・ペリー氏が今般同塾大學部文科の敎授として渡來したる紹介を兼ねて、園遊會を催したるに、朝野有名の人士にして來會する者數百名、近頃珍らしき盛況を呈したり。

 氣候少しく後れて信州邊には霜の降ると云ふ此頃のことゝて、當日の時候熱からず寒からず、空は少しく曇りたれども雨を催すに及ばず、申分なき天氣都合なりしかば、午後一時頃より馬車人車を驅りて來會する賓客續々踵を接したれども、接待掛と出張警察官とにて一々控所を指示して些も混雜を生ぜしめず、加之(しかのみならず)同別邸より數町を隔てたる四の橋の兩側より三光坂筋の入口等には、殘なく道しるべの札を立てゝ目標としたれば、便利を感ずること殘からず、來賓中にはいたく其行屆きたる仕方を褒めたるもありし。

 偖(さて)來賓は第一の門を入り、接待員に導かれつゝ又第二の門を入れば、此所に福澤先生、小幡副社頭、鎌田塾長が立並び居て丁寧に挨拶し、更に案内して庭園を散歩せしむ。園内には塾員の催しにかゝる掛茶屋ありて、蕎麥、天麩羅、汁粉、田樂を供し、和洋各種の酒類を振舞ひしが、新綠鬱蒼たる林の中に狸蕎麥の招旗(まねぎ)空に飜るも面白く、紫花點々たる池の畔に末廣田樂の香り風に送らるゝもをかしく、邸外の水田に蛙の鳴くも折からの興を添へたり。ペルリ氏は終始活潑に中を歩行囘(あるきまは)り、來賓に挨拶して一同を滿足せしめ、福澤先生は四十餘年前の舊畫圖を取出して當時の畫工が筆に成りたる提督ペルリの肖像を來賓に示し、坐(そぞ)ろに今昔の感を惹起(ひきおこ)さしめぬ。

 斯くて四時頃に至り立食場を開き、主客共に杯を擧げ談笑を擅※1にせしが、就中(なかんずく)、伊藤侯、大隈侯伯、井上伯などの身邊に談却の集まるもの多く、病餘の西郷侯も衆客を相手に快談せり。此間絶えず奏樂の勞を執りしは近衞の軍樂隊なりしが、ペルリ氏の爲に特に一闋※2の妙曲を奏し、最後に君が代と勇ましき軍歌を奏せり。来賓は午後六時頃三々五々退散し、七時に至りて全く當日の會を終れり。重もなる來賓の姓名は左の如し。

 伊藤博文 井上馨 岩崎彌之助 原敬 早川千吉郎 徳川頼倫 外山正一 豊川良平 大隈重信 大倉喜八郎 小村壽太郎 渡邊千秋 桂太郎 金子堅太郎 芳川顯正 高島嘉右衞門 田中光顯 都筑馨六 曾禰荒助 長岡護美 長與専齋 野村政明 松田正久 近藤廉平 江原素六 田健治郎 淺田正文 西郷従道 阪谷芳郎 菊池大麓 木村芥舟 三井高保 島津忠亮 森村市左衞門 元田肇(明治三十一年五月十八日「時事新報」)

 義塾が朝野の名士を招待したのはこれが始めてゞあった。伊藤總理の如きは當日閣員全部を促して來會したといふことである。

以上は明治十三年から同三十年先生の晩年に至るまで、義塾の學事改良、資金の募集等に關して先生の苦心盡力せられた概要を記したもので塾務以外に於ける事項は次に記載する。

 

 ※1■擅:(せん)ほしいまま

 ※2■一闋:(いっけつ)音曲などの一段落。まとまった一部分。ひとくさり

 

 <つづく>

 (2024.2.20記)