巨人の星(雄飛編)第91話「栄光のピッチング(沢村栄治物語)①-2」 | 野球侍SAKIのブログ

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ももクロの夢はモノノフの夢

日米野球のカージナルス戦で、オズマとの死闘の末
飛雄馬はなんとかオズマに勝った
だが飛雄馬は精神的疲労で倒れ病院送りに・・・

 

しかも病院にやってきたオズマから
「俺もお前も野球しか出来ない野球ロボットだ」と
言われ、ショックを受ける飛雄馬

 

葛藤の末、結局何を言われても野球ロボットとして
生きるしかないと悟る

 

そんな中、妙に長い入院生活を送る中で飛雄馬は
院長からかつての名投手沢村栄治の話を聞かされる

 


3度目の召集を受けて向かったフィリピンに向う途中
潜水艦の魚雷攻撃受け、戦死した沢村を思う院長

 


「その時沢村君は、まだ30歳
男としては働き盛りだった・・・どんなに辛く
悔しかっただろうなぁ。。。。」
ちなみに本物の沢村は27歳で戦没している

 


『いつまでこの話続くんだろう。。。。汗

 


「17歳で全日本選抜に選ばれ、名だたる米国の
強打者を相手に好投を見せ、以後13年間(?)野球一筋に
生きた沢村君は、まさに野球のために生まれてきた
男だった」

 


「あれは昭和9年の草薙球場だった・・・」

 


今も伝説になってる草薙球場の話がはじまる

 


この試合は1934年11月20日、ここまで社会人中心の
クラブ野球チームや、日米混成チームを除く7試合で
日本選抜は77失点を喫す7連敗、得点はたったの13点
という大人と子供の野球状態えーん

 


これ、ベーブ・ルースらしいw

 


まあ後に、「草薙は打者の視線に日光がモロに
当たったために沢村の球が打てなかった」

ベーブ・ルースはコメント

 


この試合好投した沢村も、4試合に登板したが
草薙の試合以外は、20回1/3で33失点、自責24点
防御率10.65と散々だった事を考えると、ルースの言葉も
単なる強がりとも思えない

 


当時日本選抜のメンバーだった苅田久徳は、後に
「アメリカ遠征に行ったとき、沢村くらいの速球投げるやつは
マイナーでもゴロゴロいた」
と証言している

 


だが沢村の速球と懸河のドロップと呼ばれた
縦落ちのカーブは、後に創立された職業野球では
十分通用する威力を誇り

 


京都商を中退して入団した巨人軍では、優勝決定戦で
大阪タイガース(現阪神タイガース)戦で3連投し

 


豪打の景浦擁する大阪を2勝1敗で破り、巨人に
初優勝をもたらした

 


ちなみに、沢村が京都商を中退してプロ入りした理由は
昔の関口何某の番組などでは「戦争が近づいたため」とか
紹介されてたが、実際は野球部員の不祥事のため
甲子園出場が絶望的になったから
だった笑い泣き

 


「沢村さんって、凄い人だったんですね・・・」
と驚く飛雄馬だが

 


最初の1936年(昭和11年)の3試合制の優勝決定戦では
沢村の速球は大阪打線を封じ込めたものの・・・

 


翌年は、沢村も研究されて大阪になかなか勝てなくなり
春秋2シーズン制の秋、巨人は大阪に7戦全敗
優勝決定戦でも沢村は打ち込まれて、大阪に
優勝をさらわれている、、、

 


ただ沢村は、1936年の秋にそのタイガース相手に
日本プロ野球第1号となるノーヒットノーランを達成
翌1937年の春にもタイガース相手に日本プロ野球史上
2回目のノーヒットノーランを記録する
それを誇らしげに話す院長

 


「もしあのまま順調に行ってれば、どんな記録を
残した事か・・・」

 


「だがその沢村君でも、どうしても勝てない相手がいた
・・・・・・戦争だよ」

 


ここから2人は無言となり
戦時中の実写の映像が流れる

 


「沢村君が最高殊勲選手に輝いた昭和12年に
日華事変、今の中国との戦争が始まったのじゃ」

 


「その翌年には沢村君に最初の召集令状が来た・・・
沢村君は、ボールの代わりに中国大陸で手りゅう弾を
投げなくてはならなくなった、、、」

 


「聞くところによると、沢村君の投げる手りゅう弾は
連隊イチの80メートルは飛んだと言われておる」

 


ちなみにこの頃の日本軍が使用していた手りゅう弾は
重量が450g~500gほど
硬球の3倍の重さはあった

 


沢村不在の中、巨人軍は第一期の黄金時代を迎えていた

 


後輩の川上哲治

 


千葉繁

 


吉原正喜等に支えられ、1939年~1944年まで
5連覇を果たす

 


川上の弾丸ライナーでスタンドが湧いた時

 


「先生っ、しばらくです!」と
院長を呼ぶ声が

 


「おおっ、君は・・・・沢村君じゃないかびっくり

 


「その時の沢村君は、2年も軍隊にいたせいか
妙に太ってて、往年の面影はなかった」
まあ太るというより、浮腫むと言った方が正しいか

 


久々の再会を果たした院長と沢村

 


「だがわしはこの時、沢村君はこんな状態で
投手として復帰できるのか、不安になった・・・」

 


その夜、捕手の吉原も加えて沢村と食事

 


カタン

 


「あれっ、沢村さんもう食べないんですか?
まだ1杯しか食べてないじゃないですか・・・」

 


「ああ、もう腹一杯なんだ」

 


『さすがは沢村君だ・・・体重減らすために
1杯で我慢しておるんだな・・・』
いや、本気で体重落すなら1杯も喰わないんじゃない

 


「沢村君は、その後も復帰のために努力を続けた」
って言うか、太り過ぎでしょこれ・・・

 


『その努力の結果、その年の夏(1940年)名古屋軍相手に
3度目のノーヒットノーランを記録した』
とこの院長は言うのであるが、この場面現実とは少し違う

 


ここでの沢村はオーバースローで投げているが
この時すでに肩を壊し、オーバースローでは投げられなく
なっていて、サイドスローに転向
しかも剛速球は影を潜め、完全な技巧派投手になっていたのだ

 

ただこの年の沢村はそれでも7勝1敗、翌年は9勝5敗の
成績を残しているが・・・

 


「だがこの回復途上の沢村を、またも戦争が連れ去った」

 


「ええっ!?、また・・・・ガーン

 


「二度目の招集は、あの太平洋戦争が起こる
2ヶ月前の事じゃ・・・」

 


「た・・・・たいへいようせんそうっっっ!」
この場面、別に驚くシーンではないのだが
このままだと古谷徹さんのセリフが全くないために
無理やり入れた台詞感が半端なく、物凄い不自然なのだ、、、

 


ガギャーーーーンガーンガーン
これでやっとAパート終了滝汗

 

巨人の星(雄飛編)第91話「栄光のピッチング(沢村栄治物語)②-1」
につづく